第3話 彼女が住む家

 一年ほど空き家だった隣の部屋に、新しい住人が入ったらしい。

 コンビニから昼食を買って戻ると、マンションの前に家具を積んだ引っ越しのトラックが止まっていた。

 業者が忙しく行き来する音を聞きながらカップ麺にお湯を注いでいると、部屋の呼び鈴がなった。

「隣に越してきた中山です。お騒がせしてすみません」

 三十代くらいの若い夫婦だった。人の良さそうな笑顔のちょっと太めで背の低いご主人は、なにかのマスコットキャラクターのようで勝手に好印象を持った。奥さんの方は旦那とは対照的に、すらっとしたシルエットの美人だ。柔和な表情で夫に寄り添っている。

「この町に来て日が浅いので、いろいろと教えていただけると嬉しいです」

 もちろんですよ、と笑顔で返す。お湯を注いだばかりのカップ麺が気になるが、今後の隣人との良い関係のためにもこちらを優先する。

 私はもう十年このマンションで暮らしている。広いようで狭い集合住宅という環境で、良好な人間関係を築くことがどれほど重要なことかなど、改めて説明するまでもない。

 それから、最寄りのコンビニやスーパーの場所などを軽く説明し、ちょっとした世間話に花を咲かせた。

 前の住人がペット禁止の決まりを破って猫を飼っていたため、猫アレルギーの自分は大変な思いをした話に区切りがついたところで、次の話題を振る。

「ところで、お子さんは?」

「はい、16の娘が一人」

 順風満帆か。独り身の三十代後半としては羨ましい限りだ。

「なにぶん人見知りなもので、すみません」

 ご主人が苦笑する。挨拶に同行していないことを気にしているのだろう。

 いえいえお気になさらずと言って会話を切り上げる。さすがにそろそろ昼食を取りたいところだ。

 手土産の包みを受け取って戸を閉める直前、少女が一人、階段を上って来るのが見えた。

 肩より少し長い黒髪。青白い肌。セーラー服を来たその少女が、夫婦の娘だろう。

 鍵をかけ、玄関に置いてある卓上カレンダーを見る。

 8月1日。これからが夏本番かと思うと気が滅入った。


 隣人が引っ越してきてしばらくは、なかなか良好な近所付き合いだった。

 ご主人とは出勤時間が被るので、駅までの道のりを共通の趣味である特撮映画の話などに花を咲かせた。

 引っ越しから一週間ほど経った頃、一度だけ夕食に呼ばれたこともある。独身で家庭料理の味に飢えていた私は、奥さんの手料理を褒めに褒めまくったため、ご主人に浮気を心配させた。

 人見知りのためか、娘は食卓に姿を見せなかった。


 二週間が過ぎると、夫婦の様子に少し変化が現れ始めた。

 この頃から何故か、ご主人と出勤時間が合わなくなっていた。というか、どうやら外出自体あまりしなくなっているらしい。時々廊下ですれ違うご主人は以前より少しやつれていて、声を掛ければ返事はしてくれるものの、笑顔には明らかに力がなくなっていた。

 奥さんの方はというと、エントランスやゴミ捨て場で鉢合わせて声を掛けようとしても、おざなりに会釈をしてそそくさとその場を去ってしまう。顔色も良くないようだった。


 さらに一週間が経った頃。

 ヘッドホンでお気に入りの特撮ソングを聴きながら鼻歌交じりで帰宅すると、珍しく隣人の娘と遭遇した。

 夜だというのにセーラー服姿で、隣室の扉の前にぼーっと立ち、何が見えているのかいないのか、何もない空間をじっと見つめている。

「こんばんは」

「…………」

 声を掛けるが反応はない。

 ……セーラー服か。

 まじまじと観察してしまう。高校を卒業して二十年ほど経つが、満員電車ではあまり近づかないように気を付けているのもあって、制服姿の女子高生を間近で見る機会なんて今はほとんど無い。

 綺麗な子だ。長めの前髪の隙間から覗く切れ長の目、白い肌に映える唇。太もも。首筋。

「なにやってるの!部屋に戻りなさい!」

 突然隣家の扉が開き、奥さんが飛び出てきた。

 娘の腕を乱暴に掴み、部屋の中へと引っ張り込もうとする。

 強引な動作で娘のセーラー服の袖がめくれ、細い腕が露出した。

 娘は壊れた人形のようにガクガク頭を揺らし無抵抗で引きずられなから、一瞬だけこちらを見た、気がした。


 そして、さらに一週間が経った。

 夕食を終え、ヘッドホンで音楽を聴きながら残った仕事を片付けていると、携帯に同僚から着信があった。

「そろそろ泊まりに来るか?」

「あー……」

 もうそんな時期か、とカレンダーを見る。二日後の日付にチェックが入っている。

「んじゃあ……明日行く」

「おう」

 親切な友人に感謝して通話を切る。

 適当なところで仕事を切り上げて、簡単に荷物をまとめ始めることにした。


 翌朝。一週間の着替えが入ったバッグを持って出勤する。

 扉を施錠していると視線を感じた。見ると隣家の扉の前に、娘が立っている。

 頭の先からつま先まで、じっくり観察する。

「……やっぱり、今日明日あたりか」

 私は娘の横を通り抜けて、エレベーターに乗り込んだ。



 一週間後。久々に自宅に戻ると、マンションの前には数台のパトカーが止まっていた。

 ……まだ少し早かっただろうか。近くにいた住人に話を聞く。


 マンション内で、殺人事件があった。被害者は高校生の女の子で、犯人はその両親。娘は日常的に虐待を受けており、全身に大量の痣や切り傷が残っていたという。

 事件のあった部屋は酷い有様で、包丁で腹をめった刺しにされた娘の血液や肉片やその他諸々が未だに片付いておらず、臭いも凄まじいんだとか。

 深くため息をつく。これ以上同僚に迷惑をかけるわけにはいかないので、自分の部屋に戻るしかなかった。

 まあとりあえず、もうしばらくは夜、ヘッドホンを使う必要はないだろう。





 数ヶ月後。


 空き部屋になっていた隣室に、また新しい住人が入ることになった。

 前回よりも年上の、五十代くらいのご夫婦。気難しそうなご主人と気弱そうな奥さんが手土産を持って挨拶に来た。

 新しい隣人と良好な関係を築くため、軽い世間話を交わす。

「ところで、お子さんは?」

「ええ、娘が」

 ご主人の後ろに隠れるように、女の子が立っていた。

 肩より少し長い黒髪。青白い肌。セーラー服。長い前髪に隠れた切れ長の目。

「……またか」

「はい?」

「いえ、なんでも」


 自室に戻り、カレンダーを見る。

 8月1日。

 今年で十一人目の、「彼女」がやって来た。

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「彼女」がいる りょ~ @ryoDD

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