『i』

三ノ月

『i』





「かみさま?」

「そう、ワタシは神様」


 偉そうに、自慢気に、鼻が高そうに、無い胸を張ってでーんと構えたその女を、俺は覚えている。


「かみさまってことは、なんでもできる?」

「うーん。だいたいは、ね。でも出来ないこともある」


 唇に人差し指を当て、あざとくも首を傾げ、そんなことを言っていた女を、俺は覚えている。


「じゃあ、じゃあっ。みんなのゆめをかなえることは、できるっ!?」

「んっふふー。さあ、どうでしょう」

「できるんだ!」

「あら」


 真っ白で、ただ白く、触れれば消えてしまいそうな、雪のような女を、俺は覚えている。


「ぼくのゆめも、かなえてくれるっ!?」

「――、どんな……夢?」


 その瞬間の、俺を見ているようで、遥か遠くを映した瞳を、意地悪い笑みを浮かべた女を、俺は覚えている。


「えっとねー、みんながね、ゆめとかきぼうとか、そういうのをすきなだけねがえるせかいをね、つくりたい! ねがって、そんでそんで、かなえられるせかい!」

「ふうん」

「あ、でも、かみさまがいるならもうだいじょうぶだよね。……あれ? ねえ、かみさま。かみさまがいるなら、なんでせかいって、しあわせじゃないの?」

「……なんでだろうね。みんないなくなっちゃえば、幸せになるんじゃないかな」

「いなくなったら……? なんで? みんないなくなったら、さみしいよ」

「本当にそうかな。今の世界も十分、寂しいよ。……とても、寂しいよ」


 ポツリと漏らし、今にも泣きそうな顔をして、何かを堪えていた女を、俺は覚えている。


「……きみの夢、叶えてあげる。その代わり、やって欲しいことがあるの。条件ってやつだね。それができたら、ワタシはきみの夢を叶える。この世界を、夢とか希望とか、好きなだけ願えて、そして叶えられる世界をつくってあげる」

「ほんとうっ!? なに!? なにをすればいいの!?」

「それはね――、」


 その後に続いた言葉を、条件を、

 それを言い放った女を、神様を、


 俺は、覚えている。


 ◇


「また今日も例の暇つぶし?」


 ペンを握り、ノートに数式を書き綴る俺に声をかけるは幼馴染の少女であった。

 覗きこむその表情はやや不満気で、しかしそれはいつものこと。


「暇つぶしじゃなくて、俺の夢のために必要なことなんだが」

「昔は暇つぶしだ、って言ってたじゃない。それともなに、照れ隠しだったの?」


 照れ隠し、との指摘を否定するのは難しい。確かに昔は本気でこの夢を叶えようとは思わなかったし、今だって自らの正気を疑っている、。

 だがそれをわざわざ教えてやる必要もない。


「昔は暇つぶし、今は違う。それだけの話だ。おまえこそ、夢があるんだろう? こんなところで俺に構っていていいのか」

「私はー、ほれ、暇つぶしよ。別にあんたほど夢にこだわってるわけじゃないし、四六時中努力してるわけでなし」

「そうか。俺だって、四六時中というわけじゃないんだがな」


 ペンを置き、一息つくことを決める。


「ここで話すのもなんだ。喫茶店にでも行くか」

「えっ」


 幼馴染が驚いたような顔をするが、何かおかしなことでも言ったろうか。

 周囲を見渡し、やはりここで話すのは適さないと思い、


「図書館では、雑談に花咲かせるのも難しいだろう?」


 ◆


「なんか意外。あんたが気を効かせられるなんて」

「そうか?」

「そうよ。高校の頃覚えてる? 何かに憑かれたみたいに朝も昼も夜もノートに向かって、『青春? そんなものは脳みそが空っぽな奴にでも食わせておけ』って感じで」

「そんなことを言った覚えは無いが」

「イメージだっつの」


 集中が切れた時、気分転換で訪れる近場の喫茶店。図書館と合わせて、家から近い最高の立地。ゆえに俺はよくここに来るのだが、幼馴染の方はそうでもないらしい。

 必死に隠そうとしているが、店の内装が気になって仕方ないらしく、視線があちこちを泳いでいる。こういうシックなところは慣れていないのだろうか。


「で、何を話そうか」

「は?」

「俺もおまえも暇だ。で、その余暇を埋めるため、何を話そうか、と」

「はぁ?」


 疑問符が浮かんだため、丁寧に言い換えてやったのだが余計疑問符が増えた。何か間違えただろうか。


「雑談って、何を話すか事前に決めるようなことしないんだけど……まあいいか。あんたにそういうこと期待する方がバカだもんね」

「いや、確かにおまえは、学校の成績こそ平均程度だったが、頭は悪く無いだろう。むしろ賢い。だからこそおまえの周りには人が集まるんだ」

「バカってそういう意味じゃないし、私の周りに集まったって……それはどうでもいい。んじゃまあ、最初の話題だけ決めようか。ずっと聞きたいことがあったの」

「なんだ? 改まって」


 などと聞くが、さすがに察しがつく。こいつにも話していなかったはずのこと。


「あんたの夢って、何?」


 ――俺たちは三歳頃、つまりは幼稚園に入園した頃からの関係だ。小学校も中学校も、高校ですら同じ。加えて大学も、違う学科ではあるが同じところに通っている。これだけ一緒にいて、しかしそれだけ一緒にいる間柄にも話していないことがある。

 それが俺の夢。幼い頃はそれを語るのが恥ずかしく、正直言えば今になっても、声を大にしては言いづらい。


「最近になって言い始めたよね、あんたが勉強熱心なの……いや、授業とか講義の間ですらノートとにらめっこだし、なんだろ、研究熱心? まあとりあえず、そうやってノートにひたすら何か書いてるのは、夢の為だって」

「言い出したのが最近ってだけで、実はずっと昔からの夢なんだがな。……俺の夢、か。笑わないか?」

「笑うかもしれない」

「少しは取り繕ったらどうだ」

「あんた相手にそれ、無意味でしょ」


 それもそうだ、と頷き、俺は鞄の中からノートを数冊取り出した。俺が長年愛用している無地のノートで、その表紙には申し訳程度に番号が振ってある。端々が擦り切れ、パッと見ただけでボロボロであることがわかる。


「見てもいいの?」

「ああ。どうせ見てもわからん」

「言ったなぁ? 私、最近になってテストの成績とか上がってきてるんだからね」


 だとしても、わかるはずがない。


「そんじゃあ、拝見――、」


 その中に書いてあるのは無数の数式。それらは多くの問題を解いたという証ではなく、


「……う、わ。マジでわかんない」


 さらに言えば、学校で習うような数式など用いていない。


「これは、俺が幼い頃から答えを追い求めて、今でも解けていない『たったひとつの問』を解き続けてきたものだ」

「え、は? たったひとつ……? なに、これ全部、ひとつの問題を解いたもんだっての?」

「解いている、だ」

「嘘でしょ、だって、あんた、」

「そうだな、俺は天才だ。何度もそう言われてきた」

「嫌味にすら聞こえないわ……でも、その天才がずっと解いてきて、でも解けない問題って、なんなの?」


 それこそが俺の夢。自分が天才だと自覚したその日から、一日たりとも解くことをやめなかった、その命題は。


「神様の存在証明。俺はこの数式で、神様の存在を証明する」


 幼馴染は笑わなかった。というより、笑うために必要な理解を超えたといったところか。

 神様。いるかいないかもわからず、ただ人々が縋るための偶像として存在する、言ってしまえば名前だけの存在。それを証明するなぞ、正気の沙汰ではない。

 そんなことはわかっていた。いいや、むしろ、わかってしまったからこそ、この命題に取り組み始めたとでも言おうか。

 幼い頃は、そんなことをしなくても『神様はいて当然だ』と疑わなかった。しかし成長するに連れ、常識なるものを身につけるに連れ、それが間違いだということを知った。

 だが、


「神様はいる。それは間違いない。だから後は、それを他者にも見える形で証明しなければいけない。中学に上がるか上がらないかの頃に、そう思った」


 それと同時に、自分にはそれができる、と、理解を超えた本能で理解した。


「いや、いやいやいや。……あ、ごめんね? 笑うかもしれないって言ったのに、笑い飛ばすこともできなくて」

「そこは謝るべきところなのか……?」


 少しズレた謝罪をする幼馴染は、見てもさっぱりだったであろうノートから目を離し、


「まとめるね。あんたの夢は、『神様はいるってみんなにわからせてやること』。オーケー?」

「オーケーだが、まとめるも何も、今の話はそれだけだぞ」

「良いから、私の中での話だから。……んで、まあ、はい。笑わないかって聞いた理由もわかったわ。確かにこれは笑われても仕方ないっていうか、ね」


 一般的な感性からすればそうなのだろう。


「でも、あんただってそれわかってんじゃん。なのに諦めないどころか、本気でその夢追ってる。も一つ聞いていい?」

「ああ。毒を食らわば皿まで。ここまで話したんだ、いくらでも話してやろう」

「や、なんかそれちょっと使いどころ違う。……あんたは、神様の存在を確信してる……の?」


 こいつは、頭が良い。学校の成績は平均、今はもう少し良いのだったか。だがその数字に表れない部分、IQのようなもの。それはそこらの低能に比べて随分高いように思える。おそらくだが、しっかりと勉強すれば成績だってトップクラスを狙えるだろうに。

 そんな幼馴染だからこそ、俺の執着の理由、その根源があることに気づいた。


「ああ。神様は絶対いる。というか、会ったことがある」

「え。それはまったく想定してなかった」


 ……常識に囚われているだけなのだ、こいつは。


「会ったと言っても、記憶は曖昧で、いつのことだか覚えていない。だが何を話したのか、そいつと会って何を思ったのか、そして最後の言葉。それらは覚えている」

「へえ……何を話したの?」

「そうだな。『なんで世界は幸せじゃないの?』と問うてみたり、『神様なんだからなんでもできるんじゃないの?』と問うてみたり……」

「うわ、子供だ」

「俺もそう思う」


 そんな子供みたいな会話の最後に、俺の願いを叶えてくれると約束して、


「そのための条件を出された。神様だからと言って、なんでもかんでも願いを叶えられるわけではないらしい」

「なんかあるあるよね、そういうの」

「小説なんかだとな。で、その条件だが、」

「ああ、それが『神様はいるって知らしめる』ってこと?」

「……段々と言葉が変わっていないか?」

「伝わればなんだって良いでしょ」


 いつの間に運ばれてきたのか、幼馴染は味の無さそうなアイスティーに口をつけ一息ついた。俺の元にもメロン牛乳が届いていた。その中にガムシロップを三個ほど入れる。


「ところで、その神様は男? 女?」

「ん? ……女、だったと思う。ワタシ、って言ってたしな。それに髪が長かった」

「……へー」


 俺を見る視線の温度が3℃ほど下がった気がする。視線に温度があるなどとは思わないが、この世には理屈など無視した感覚があって、それを今身を持って経験しているのだと思う。


「つまりあんたは、幼い頃に会った女の子との約束を果たすために、こんなことしてるんだ」

「だから、言い方が、」

「解けそう?」


 俺の指摘は軽くスルーされた。代わりに投げられた質問。俺は渋い顔をすることしかできない。


「正直に言えば、心が折れそうだ」

「天才でも解けないの?」

「多分、あと一歩ってところまで来てる。だがな、去年の秋頃からか。数式がループするようになった。解いている内に、見たことのある数式に戻ってきてるんだ」

「数式がループするって、そんなことあるの?」

「さあ」

「さあってあんた」

「いろんな解き方を試した。だがどうしたって、俺の脳が先に拒否反応を示す。この問題は解けない、このループは抜け出せない」

「数式以外で証明する方法は無いの?」

「…………。ある、かもしれない、な。だが俺には無理だ、それを見つけられない。天才って言ってもな、できることとできないことがある。そう思い知った」

「神様と同じだね」

「ああ」


 口に含んだメロン牛乳。最初は喉が焼けるかと思った甘さも、今では苦いと感じるまでになっている。


「ループを抜け出すための虚数『i』……それを見つけられれば、なんて運に縋るしかないと思うくらいだ」

「……ほー」

「どうした?」


 カップに口をつけたまま唇を尖らせるという器用な真似を見せつつ、幼馴染はジト目で睨みつけてくる。

 何か気に障ることでも言ったろうか。


「あんたがそんな弱気になってるとこ、初めて見た」

「?」

「あ、そろそろ良い時間だし、私帰るわ。あんたはどうする?」

「あ、ああ? そうだな、俺も帰る……」


 夕餉も近い時間。大分長居したなと思う。自分の夢のことなんて語ったのは初めてだから、常より多く舌が回ったのだろうか。

 いいや、そんなことはない。相手がこいつだからだ。でなければ、こんな夢を他人に語ることなどできやしない。


「ありがとう。話、聞いてくれて」

「はっ、え、なに急に。怖い」

「いや、今も言われたばかりだが、どうも弱気になっていたみたいだ。おまえと話して、少し気が楽になった。だからお礼を、と」

「いや、いやいやいや。意味分かんないし。最初にあんたの夢聞いたの私だし」

「そもそも聞かれなければ話すこともなかった。だから、ありがとう」

「あんたってやつは……あー、うん。どういたしまして。……ほんと変な奴」

「自分でもそう思う」


 神様の存在を証明しようだなんて、頭がおかしくならなければ普通は考えない。たとえ過去の約束があったとしても、だ。

 だからきっと、俺は変な奴。


「肯定しないでよ、バカ。私まで変な奴になっちゃう」

「ん……? 俺が変な奴だと、どうしておまえまで変な奴になるんだ?」

「知らない」

「???」


 俺が困り顔で疑問符を浮かべていることの何が面白いのか、幼馴染は楽しそうに笑い、


「自分で考えてみれば? どうせ煮詰まってるんでしょ。良い気分転換じゃない」

「いや、おまえそれは、」

「じゃあ、また学校かどっかでー」


 伝票を持って席を立ち、あっという間に店外へと姿を消す幼馴染の背中を目で追い、俺はさらに疑問符を浮かべた。

 確かに煮詰まっていたし、気分転換にもなろう。だが、どうしたってその答えが見えない。

 俺は……天才だ。他者からいくらでもそう言われてきたし、自分でもそう思う。神様の存在証明なんていう命題に本気で取り組み、事実あと一歩のところまで来てしまった天才だ。

 しかし、この命題、


「神様の命題以上に、難問なんだが……!?」


 後に気づいたが、幼馴染は俺の分まで代金を払っていた。


 ◆


「なあ、教えてくれ」

「出題者に答えを聞いて、マジの答えが返って来ると思う?」

「思わない」

「でしょ」


 そう言ってサラリと俺をかわす幼馴染。このやり取りをもう一週間近く続けている。

 あれから三日ほど考えた後のことだから、すでに十日近い時間が経っているわけか。いつしか俺たちのやり取りは学内の名物になっていた。

 曰く、天才に解けない難問現る。

 曰く、天才に教えを請わせる女傑現る。

 曰く、曰く。噂の数々を挙げればキリがないのだが、総括すれば、


「あの天才に解けないって、どんな問題だ……?」


 とのことである。

 確かに俺は天才だが、それにしたってできることとできないこと、解けるものと解けないものがある。神様の存在を証明するだとか、幼馴染が変な奴になってしまう理由だとか。


「あ、私次の講義こっちだから。じゃあねー」

「待ってくれ教えてくれなんでもするから!!」


 なんなら土下座でも、という勢いでそれを口にし、ようやく幼馴染の足が止まる。


「ふーん、ほー。今なんでもすると言ったか」

「……? あ、ああ。言ったな」


 これまでとは違う反応に、俺は一縷の希望を見出し、


「俺にできることに限るが、なんでもしよう。あ、流石に社会的に死にそうなことは――、」

「なんでもって言ったのに、なんでもじゃないんだ」

「~~~~! ……なんでも、する。から、答えを教えてくれないか……?」

「よろしい」


 ようやく満足したかのように、幼馴染は頷いた。もしかしてこの一言を言わせたかったのだろうか。だとしたらなんと回りくどい。しかし、これで俺はなんでもするしかなくなった。きっと普通に頼んだのでは断られてしまうような、そんなお願いでも引き受けねばならない。

 ここまでするのだが、そういうものだというのは確定してしまっている。いったいどんな辱めを受けるのか。想像したくない。


「私と付き合って」

「……ん、ああ? それなら良いが。荷物持ちか、それとも旅行か? 付き合ってと言うからには、どこぞに連れて行かれるんだろう」

「うわー、テンプレ。そういうんじゃなくて、私と付き合って、って」

「言っていることが変わっていないが」

「私と、彼氏彼女の関係になって」


 そこまで噛み砕いてもらって、

 俺の脳はそれをようやく理解して、


「ああ、つまり交際して欲しいという旨の告白と受け取れば良いんだな。俺なんかで良いなら付き合おう」

「またまたテンプ――ん?」


 幼馴染の顔が固まった。


「どうした?」

「え、いや、んん!?」

「やれやれ、どんな無理難題を吹っかけられるかと思ったが、その程度か。おまえにしては意地悪が足りないな」

「なんだろ、あれ、んんんん? おっかしいなー、なんで私が動揺する側になってんの?」

「俺に聞かれても。おまえが言ったのに、なぜおまえが動揺している」


 幼馴染の顔は真っ赤。エアコンが効いた学内でダラダラと汗を流し、首元なんか酷いことになっている。


「一応聞くけど、付き合うって、彼氏彼女って、意味わかってる?」

「どこかで聞いたような質問、おそらく小説や漫画か。おまえもテンプレートな反応をするんだな。もちろんわかっている。手を繋いだり、デートしたり、キスをしたり、ゆく果てには結婚がある関係のことだろう」

「けけけっこけっけけっけここけけ結婚!」

「おまえはニワトリか?」


 しばらくして、ようやく落ち着いたのだろう。後ろを向き、頭を抱えしゃがみ込みブツブツと何かを呟いていた幼馴染は、すっくと立ち上がる。そのままこちらに振り向き、未だ赤い顔で、ジト目で。


「よ、よし。今から私とあんたは恋人同士。オーケー?」

「オーケーだが、なぜそう何度も確認を取る?」

「あんたが悪いのよ。それなりに勇気を振り絞っての告白を、そんな澄ました顔であっさりと受け入れて……これじゃ私がバカみたいじゃない」

「待った。だから、なぜおまえがバカになる?」

「さらに待った。その『おまえ』って呼び方、やめて。恋人でしょ? なら名前で呼んで。ほら、あんたの口から! 私の名前を! 聞かせなさい!」

「さらにさらに待った。ならばおまえも俺のことを『あんた』って呼ぶのをやめろ。恋人なんだろう? 俺だけというのは不公平じゃないか。さあ、おまえの口から! 俺の名前を! 聞かせろ!」


 互いが互いを指さし沈黙。その口からは、ぐぬぬ、といった唸り声ばかりが聞こえた。

 そして、どちらからともなく、


「……瑛二えいじ

「……志帆しほ


 こうして俺達は晴れて、かどうかは知らないが、付き合うこととなった。


 ちなみに、白熱していて気付かなかったが、俺達のやり取りは、周辺に野次馬ができるほど目立っていたらしく、知らず知らずの内に公開告白という形となった。それに気づいた幼馴染――志帆は、学校の敷地内を、しばらく顔を上げて歩くことができなかった。



 俺達が付き合い始めて七ヶ月。年を超え、新学期が始まった頃のこと。


「そういえば、なぜ俺が変な奴だと、志帆も変な奴になるんだ?」

「ブフッ」


 志帆が飲んでいたメロン牛乳を吹き出した。


「もったいない……」

「瑛二のせいでしょうが!?」


 例の喫茶店。店員に拭くものを借り、テーブルの上に滑らせる。その間に落ち着きを取り戻し、


「なんで今さら、そんなこと」

「いや、そろそろ良いかと思ってな。ほら、元はと言えば、その答えを聞くための条件ということで俺たちは付き合い始めたんだから。半年以上この関係は続いたし、聞いても良い頃合いだと」

「……なにそれ、答えを聞くためだけに付き合ったってこと?」

「そんなわけがあるか。そもそも恋人関係というのは互いが好き同士ということが前提条件だ。好きな相手と付き合っているのに、それだけということはないだろう」

「…………あ、そう」


 一瞬、視線に苛烈さを秘めたように見えたが、それは見る間に萎んでいく。


「じゃあ、つまり、その、あんたは――瑛二は、私のこと、好きなんだ?」

「??? でなければ、どうして付き合うんだ? 言っただろう。自分にできることであればなんでもする、と。そしてその後に、その程度か、とも言った。つまりだ、俺はおまえと――志帆と付き合うことに、抵抗なんかなかった。さらにつまり、だ。……これ以上、言わないといけないか?」

「うん」


 即答だった。


「……俺は、志帆のことが、好き……だった、んだ、よ」

「……そ、そっか」


 沈黙。鏡を見なくてもわかる。きっと、今の俺の顔は真っ赤に染まっている。だがそれは志帆も同じこと。


「さ、さて、わかってくれたのなら話を戻そう。答えは?」

「あー……うん、そう、そうね。答え。……え、いや、言わないとわかんないの?」

「え、言わなくてもわかる程度の問題だったのか? 俺にとってはとっかかりすら掴めない、神様の存在証明よりも難題だったのに?」


 またしても互いに沈黙。今度のこれは、絶句と言うべきか。


「私、こんなバカを好きになったのか……」

「自分が天才であることをこれほどまでに疑った日はない」


 珍しく気が落ちる。ある意味では数式がループを始めるようになった日以上にショックを受け、うなだれてしまう。


「答え、ね。本当に、本当に簡単。瑛二、あんたって、本当に変な奴だわ」

「ああ、そうだな。それは否定しない」

「あんたがそれを否定しないとね、私は『そんな変な奴を好きになった、より変な奴』になっちゃうの」

「……あー」


 なるほど、言われてみれば至極明快。答えを聞く条件、『私と付き合え』というそれそのものが、ズバリ答えだったというわけか。

 納得した。これならば志帆が呆れるのも道理である。俺はなんてバカなんだ……。


「満足?」

「ああ、満足した。ようやく疑問が解消された。これでようやく存在証明を再開できる」

「え、もしかしてこの半年、ずっと解いてなかったの?」

「ああ。気になって集中できないというのもあったが、やはり『i』を見つけ出せなくてな。それ以上に志帆と一緒に居る方が大事になっていた。だが、そろそろ本気で取り掛からなくては一生かかっても終わらない」

「なんか、ごめん?」

「なぜ謝る」


 相変わらず、ズレた謝罪を口にする。


「むしろありがとうと言いたいくらいだ。今『i』がわからないと言ったばかりだが、なんとなく、おぼろげではあるがわかってきたように思えるんだ」

「それホント!?」

「ああ。そして、そのヒントをくれたのは志帆だ」

「え、私?」


 俺は覚えている。彼女の吐いた言葉を。その条件を。


 ――今の世界も十分、寂しいよ。……とても、寂しいよ。


 今になってわかった。その言葉の意味。数式がループする理由。

 彼女は寂しがっていた。

 一人、誰も辿りつけない円環の内で、寂しがっていた。


「俺は志帆と付き合うことで、今まで以上にハッキリとしたことがある」

「それは、……なに?」


 なに、わかりきったこと。それこそ答えならもう出ている。


「俺は、志帆のことが好きなんだ、ってこと」


 そもそも始まりが、その感情からだった。


「さて、そろそろ出ようか。いつまでも先延ばしにはできない」

「え、あ、ちょっと。まだ心の準備が……」

「幼馴染の両親だぞ、何を準備することがある」

「なんで瑛二はそんな澄ました顔で……って、顔真っ赤」

「……さ、出るぞ」

「もう」


 伝票を手に取り、会計を済ませようとレジに向かう。


「あ、お金」

「いや、いい。今日は俺が奢る」

「ん? どうしたの急に」

「……別に」


 ただ、借りを返すだけだ。


 ◆


「しほ、おっきくなったらおはなやさんになる!」

「けーきやさんになる!」

「さっかーせんしゅになる!」

「およめさんになる!」


 その子はいつも夢が違っていて、その度に「ゆめがたくさんあってすごいなあ」なんて口にしたりしていた。

 しかし、最後のだけは聞き逃せず、


「お、およめさんってだれの?」

「え? うーん……おかねもちで、かっこいいひと」


 ショックを受けた。自分の名前が出ないのはともかく、お金持ちでかっこいい人。その理想はあまりにも自分からはかけ離れていたからだ。

 お金持ちなんてなろうと思ってなれるものでもないし、かっこいい人なんてなおさらだ。

 しかし、自分はこの子が好きで、なればこそ、この子の夢を応援したくて。


「そ、そっか……うん、がんばってね! しほちゃんなら、きっといいひとがみつかるよ!」

「え? へへ、そうかな?」


 その笑顔のためなら、いくらでも傷ついてみせよう。自分の感情なんて、いくらでも犠牲にしてみせよう。子供ながらに大人ぶって、強がって、でも心の底からこの子の幸せを願っていた。


「しほちゃんのゆめが、かないますように」


 幼い自分の、俺なりの、それこそが夢。


 ――えっとねー、みんながね、ゆめとかきぼうとか、そういうのをすきなだけねがえるせかいをね、つくりたい! ねがって、そんでそんで、かなえられるせかい!


 成長した志帆がどんな夢を抱くのか、俺にはわからなかった。だからそんな、曖昧で、不鮮明で、だけどきっと間違いなんてない、そんな世界を夢願った。

 その世界を実現するためならば、


 『神様の存在を証明する程度』の難問だって解いてみせる。


 ◆


 そうして、俺達が付き合い始めて五年。就職して、収入も安定した頃。


「結婚しよう」


 やはりどちらからともなくそう切り出し、夫婦となった。


 さらにその数十年後、俺はひとつの数式を完成させ、寿命を迎える。


 ◇


 数十年ぶりに出会った神様は、記憶とは違いつまらなさそうな顔をしていた。


「神様か?」

「ええ、そう。キミが幼い頃に出会った神様」


 彼女の背丈は、記憶にある限りでは変わっていない。そもそも成長するのだろうか。そんな疑問はさておき、昔と比べて変わった点が二つある。その一つは表情だが、もう一つ。


「髪、短くなってる」

「切ったの。失恋しちゃったから」

「神様でも、失恋したら髪を切るとか、そういうことをするんだな」

「……ワタシだって、女の子だもの。構わないでしょう?」

「ああ、全然構わない」


 それよりも、


「俺の数式、見てくれたか?」

「もちろん。正直、本当にできるなんて思わなかった。――『どんな方法でもいい、ワタシという神様の存在を、証明してみて』。こんな無理難題、できる方がどうかしてる」

「無理難題って自覚はあったのか」

「意地悪のつもりだったんだけど」


 しかし俺はそれを成した。数式という形で、この意地悪な神様の存在を証明してみせた。


「だけど、あの数式を見てわかる人なんているのかしら」

「いるさ。俺は天才だが、天才は一人だけじゃない。今の世の中だって、幾人もの天才が作り上げてきたんだから」

「天才、ね……」


 一貫してつまらなさそうな表情をやめようとしない神様は、退屈そうにあくびを一つ。


「それで、約束は守ってくれるのか?」

「そのつもり。えっと、確か、『誰もが夢や希望を願え、それを叶えられる世界』だったっけ? 努力はするけれど、できることには限りがある。叶えられない願いも出てくる。それでも良い?」

「十分。少しでも多くの夢や希望が、叶えられるなら、俺のしたことは意味がある」


 だが、一つだけ心残りがある。


「なあ、神様。聞きたいことがあるんだ」

「なあに? 答えられることなら答えてあげる」

「あいつは……志帆は、満足してるのかな」


 俺と結婚して、その後も特に変わることはなく、結局俺が死ぬまで隣に寄り添い続けた彼女は、彼女自身の夢を果たすことはできたのだろうか。


「志帆の夢はいっぱいあった。でも、そのどれも叶えられたようには思えない」

「――――」

「志帆は――俺は、夢を叶えられたのかな」

「――――」


 神様はため息をつき、本当に、心の底からつまらなさそうに呟いた。


「キミが愛する志帆って娘は、もうじき死ぬ。キミの後を追うように。そうしたら直接聞くと良いよ。きっと、答えは決まりきってる」

「……そうか」

「今度はワタシが聞いてもいいかしら? キミは一時期、ワタシを証明する過程で手が止まっていたと思うんだけど、どうやってその時期を抜け出せたの?」


 ああ、そんな時期もあったか。今思えば懐かしく、それだけ遠くなってしまった思い出だ。

 だが、今にして、とても単純だったと思える。


「ある虚数を見つけたんだ」

「虚数?」

「ああ。その虚数がなんなのかわかってから、驚くほど順調に行ってな。あとは時間の問題だった。あれだけ苦労したループも、迷うことなく抜け出せた」

「その虚数って?」

「あんたはさ、寂しそうだった。とても、寂しそうだった。多くの人がいて、だからこそ寂しがっていた。あんたは、ここにひとりぼっちだった」


 抜け出せない数式のループ。見つけられない『i』。しかし、あるのだとわかってしまえば手が届く。


「……っと、もしかして、もう時間切れか?」


 ふと己のしわがれた手を見れば、どうにも薄くなっているように思える。先ほどから意識が点滅を繰り返し、空白も生まれ始めた。そろそろ本当に死ぬのかもしれない。

 最後にこうして神様と出会えて、よかった。


「待って、答えは――」

「わかりきっている」

「だから、どういう……!」

「……ひとりぼっちで寂しがっていた神様が、欲しがっていたものだ」

「ぁ――」


 意識が薄れていく。これで本当に最後だ。しかし、神様の口ぶりからして、死後の世界なんてものもありそうだ。そこで、そろそろ死んでしまうという志帆を待つことにしよう。

 再び出会えたら何を話そうか。先に死んでしまってごめん? また会えて嬉しいよ? 死んでも愛し合おう? それとも、


「最後にヒントだ。――虚数は、『i』」


 それで、神様との邂逅は終わる。それと同時に、志帆と再開した際の最初の話題も決定した。


 ――どこまでも辛そうで、寂しそうな、別れ際の神様の顔。


 いつか彼女が、誰かに愛される日が来ると良いね。

 そんな風に、神様の幸せを願い、語ろう。







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