状態異常―不死身―

 赤、という言葉を聞いて僕が連想するものは三つだ。

 信号、トマト、そして夕焼け。

 赤、という色を見て僕が連想するのはたった一つだ。

 血液。

 だから僕は最初、天井に広がる赤い模様を血の跡だと勘違いした。勘違いして、驚くほどに驚いて、もう一回気絶した。今度は悲鳴だけじゃなくて、人間としての尊厳に関わる何かも漏らしてしまった。再び目を覚ました僕の目には、先ほどと変わらない赤色が広がっていて、もはやこれは悪夢などの類ではなく、どうしようもない現実なのだと諦めがついた。こういう時は諦めが肝心だ。でないと僕は、ここから一生気絶しては覚醒するというループを無限に繰り返すはめになる。しかも、まだ天井のアレが血液だときまったわけじゃない。ほんのり鉄の臭いが漂ってくるけど、成分検査とかしたわけじゃないんだから、血液とは限らないじゃないか。そうだそうだ。

 さてと。

 諦めとともに心も落ち着いたところで、僕が次にすべき行動はすでに決まっている。なにはともあれ、先ずは現状の把握である。天井が赤いという情報以外、僕の手元には何の情報もない。これではさすがに手の打ちようがないし、非の打ちどころなく絶体絶命である。

 とういうわけで僕は、貧相な腹筋に力を込めて上半身を持ち上げガシャン。

 持ちあガシャン。

 ガシャン。ガシャン。

「…………。」

 上半身を持ちあげることは、ついぞ叶わなかった。何度身体を起こそうとしても、謎の異音に体の行く先を阻まれる。そしてちょうど足首の辺り、さらに手首辺りに不可思議な締め付けが、というかぶっちゃけた話『手錠のような何かの』感触があった。手錠のような何か、という物体に該当するものとして手錠以外の何があるんだという疑問は捨て置いて、とにもかくにも異音の正体はこれか。ベッドの金具とぶつかってたんだな。ふむふむ、なるほど。

 なるほど?

 納得している場合ではなかった。断じてそんな場合ではなった。なんだこれ、気絶して、目が覚めたら知らない部屋のベッドで寝かされていて、しかも両手両足がベッドに拘束されている? まあ確かに、起きた時点で両手が上に上がっているなあとは感じていたけど。

 いやしかし、この現状から鑑みるに。

 軽い気持ちで集めてしまった、状況証拠たちを元に考えるに。

 僕はもしかしなくても、監禁されていた。

「えー、と」

 上手く言葉が出てこない。頭が混乱しているというよりは、体が理解を拒絶しているようだった。手足が微かに震え始め、背中は冷や汗と脂汗で大洪水になっている。拘束されている部分が熱を持ち始め、否が応でも僕の意識は現状を認識させられる。

 これは、何だ? ここは、何処だ?

 分からない、分からない。不可解と無理解が僕の心で渦を巻き、それは怨嗟のような声とともに、体外へと吐き出される。燻らせた紫煙のような僕の吐息は、天井の赤に融けていった。ドロっとした液体で満たされていく僕の瞳は、その様子をただボンヤリと眺めることしか出来ない。

「えっと……えっと……どうしよう」

 不意に口をつく僕の呟きは、なんとも頼りがいのないものだった。貧弱で衰弱していて、もう救いようがない。救われず、報われず、僕の嘆きは誰の耳にも届かなかった。

 しばらくすると、ようやく体の変調が収まり始める。数回の深呼吸を経て、どうにか通常の思考回路に戻っていく。そのタイミングで僕はふと、とある疑問にぶつかった。

 そういえば、僕は一度死ななかったか?

 どうして今、生きているのか。

 いや待て、死んだというのは僕の思い違いで、本当は上から落ちてきた人間は僕にぶつからず、そのまま地面に直撃して死んでしまったのかもしれない。そしてそそっかしい僕は愚かにも自分にぶつかったと信じ込んで、自分も死んだと思い込んでしまっただけなのかもしれない。

 なんだ、そう考えてしまえば気が楽だ。僕は決して不死身なんかじゃなく、ちょっとばかり思い込みの激しい一般市民で、ここは路上で気絶した僕を運び込んだ病院なのだろう。

 そうだ、そうに違いない。そうであってくれ。

「残念、キミの考えはおそらく全て間違っている」

 僕の真横から、声がした。

「…………!」

 僕は声のした方向へ、首を急旋回させる。身体の向きを変えられないため首筋が非常に痛んだが、そんな痛みは些細で瑣末な問題で、大問題は僕の視線の先にいた。

「やぁ、おはよ。気分はどう? 最悪?」

 僕の視界に入った何者かは、右手を軽く振りながら愛想よく微笑んだ。

「……最悪ですね」

 得体の知れない人間に、僕は思わず敬語で答えてしまう。だが、それも仕方がないというものだろう。

 なにせ僕の視線の先にいたのは、『ナニカ』で赤くまだらに染まった白衣を身に纏った、見るからに危険なタイプの誰かだったからだ。ここまでテンプレート的に全身で危険信号を発している人間を、僕はついぞ目にしたことがない。ご丁寧に服の色まで警告色だ。人生初で、そして僕の人生が終わりそうだった。

 みてくれから判断するに、恐らくは女性だろう。ロング、というか切っていないから伸びてしまったというような黒髪に、陰鬱をそのまま形にしたような不健康そうな顔。黒縁眼鏡と、眼の下の濃いクマの境目が、僕の位置からでは良く分からない。しかし健康な時であれば、彼女は多分そこそこの美人なのだろう。スッと通った鼻梁に、大き目の瞳。綺麗な二重まぶた。勿体無いな、なんて暢気にそんなことを考えてしまった。

「もう一度聞くぞ、少年。気分はどうだ?」

「いや、その……なんというか」

「なんだ、はっきりしない奴だな。自分の体調くらい分かるだろう」

「え……元気、は元気みたいですけど」

 なんとかひねり出した、あまりに他人事過ぎる僕の返答に、しかし彼女は満足しなかったらしい。あからさまに口をへの字に曲げて、つまらなそうな顔をした。

「な、なんですかその顔は」

 なんだか頭にきて、僕は語調を強めて彼女に尋ねる。彼女は僕を馬鹿にしたような目で見つめ、鼻で笑いながらこう言った。

「察しが悪いな、少年。全部言われないと分からないのか? それとも、分かっていてとぼけているのか?」

「は……?」

 ぽかんとする僕の顔面に、彼女は言葉を投げつける。


「不死身になった気分はどうだ、と聞いているんだよ。少年」

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クジラの唄―52― よしたつ @xxusodakedo

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