第6章
公爵の結婚式
「公爵さまのご婚儀も、いよいよ一週間後だね」
のんびりとした口調で、気になるその話題に触れたのは、刺繍工房リベラの代表、アマンダさんだった。
彼女はわたしの雇い主で。
わたしの目のまえには、両腕を軽く広げたくらいの幅かしら。天板の代わりに、長方形の刺繍枠が載った刺繍台があって。工房で働いている女性たちの人数分、縦に六台、この部屋には並んでいるのだけれど。
皆がそれぞれ刺繍枠に張られた布に視線を向けながらも、沈黙が流れるのは稀だった。静かなのは、仕事の納期が差し迫ったときくらいで。
今日も変わらず、お喋りは絶えない。
ただ、刺繍を刺すとき手もとに集中してしまうわたしは、皆の話を聞いていないことが多かったりするのだけれど。「公爵さま」という単語が耳に飛び込んできた途端、わたしの集中力は見事に途切れていた。
いいえ、途切れたというより、耳に移ったと言ったほうが正しいかもしれない。
そこにひとりの女性が弾んだ声を上げる。
「教会で挙式なさるんですよね! 間違いなく周囲は見物人でいっぱいになりますよ。ああっ、仕事さえなければ、わたしも見に行くのにっ」
天井を仰ぎ、歓喜から一転して地団駄を踏み、悔しがっている彼女は、わたしが使っている刺繍台のひとつまえに座っていて。
アマンダさんを含め、工房に勤める女性の六人中四人が三十代、四十代というベテラン揃いのなか。唯一の二十代が彼女——クレオさんで。
すでに悔しさからは脱したらしいクレオさんは、どうやらまだ、婚儀への参列を諦めていないようだった。懐かしくもある話を、引き合いに出してくる。
「前回は婚礼衣装の公開だけだったのに、感激からか、人の多さに
行きたいねえ、と皆、口々にクレオさんに便乗し、期待半分、諦め半分で盛り上がる。その陰で、もしそうなったとしても、遠慮して仕事を選ぼうと考えていたのは、きっとわたしだけに違いない。
そこでアマンダさんが苦笑しながらも、心憎い提案を口にする。
「なら、その日は工房を休みにしようかね」
「いいんですか、アマンダさんっ」
「ああ、なんたって、ヴェールの制作は我が工房リベラが請け負ったんだ。日頃うちを零細扱いしている奴らが悔しがる顔も見てやりたいだろ。ただし、言わなくてもわかってるだろうけど、質は落とさず、納期は厳守だよ」
「当然です!」
俄然やる気が出てきた。と、クレオさんに気合いが入る。
そのように賑やかなクレオさんだけでなく、わたし以外の皆に言えることなのだけれど。会話をしながらも、手もとが疎かにならないだなんて。
彼女たちの手により日々着々と布地の上に表現されていく繊細で美しい紋様には、いつもただただ見惚れてしまう。
そこでアマンダさんがまた、そういえばと、新しい話題を持ち出す。
「さきの公爵——ルクスさまが逝去されて、もう一年が過ぎたんだね」
その話題に、わたしの手はいよいよ止まってしまいそうになる。
うしろめたさを覚えたからなのだけれど。幸運にもと、言っていいのかしら。わたしの心情を察する人は誰もいなくて。過去に思いを馳せるお喋りは、淀みなく続いていた。
わずかに首を傾げ、クレオさんが口を開く。
「表に出ないかただったから、亡くなられたという実感が、わたしは薄かったなあ」
クレオさんに続き、ほかの皆も一年前へと記憶を遡り始めたようで。すぐに、ひとつうしろの席に座るボナさんから、同情するような声が届く。
「そうだね……。あのときは、とにかくヴェントスさまが気の毒に思えたね。婚約を発表された矢先のことだったし」
「そうそう、ルクスさまの訃報に続き、婚約者にも逃げられたんだよね」
溜息とともに零されたドロテアさんのひとことで、わたしはうっかり針を取り落としそうになる。そこに最後のひとり、ビビアナさんが安堵を滲ませた言葉を口にする。
「でもまあ、落ち込んでるって話は聞くけれど、変わらずリベルタスにいてくださるのはありがたいよ」
皆の言葉が重なればかさなるほど、わたしの心境は複雑さを増していく。
居心地が悪く、公爵の話題もひと回りしたのだし、そろそろ皆の興味もほかに移らないかしらと思っていたところ。クレオさんが新たな疑問を投げかける。
「ありがたいといえば、レオパルドさまもそろそろ、外交官の任を解かれ、奥方と一緒にブランから戻っていらっしゃるんですよね?」
それにはアマンダさんが答えていた。
「ああ。年若い公爵さまのため、後見に就かれるそうだね。リベルタス領が返還されるって話になったときには、新しい領主も決まっていなかったし、自由を奪われるような気がして、どうなることかと思ったけど。世のなか、悪いことばかりじゃないね」
一連の話を、アマンダさんはそのように締め括ってくれたのだけれど。
そこでふと、クレオさんがなにかに思い至ったようで。珍しく手を止め、まうしろの刺繍台にいたわたしを振り返っていた。
「そういえば逃げた婚約者って、あんたと同じ名前だったわね」
心構えのないまま、クレオさんから指摘され、苦しいくらいに心臓が跳ね上がる。顔に、出ていなければいいのだけれど。そう思いつつ、おそるおそる頷く。
「そのよう……ですね」
「あんたがこの工房に来たのも、婚約者がいなくなった時期と、同じだったわね」
「…………そう、でしたか?」
「——まさか、ねえ?」
声を小さくしていったわたしに、クレオさんはますます疑惑の目を向けてきたのだけれど。
「いいかげんにしな、クレオ。逃げたはずの娘が、こんなところでちまちま針なんか刺してるわけないだろう?」
「アマンダさんっ、自分でこんなところなんて言っちゃ駄目でしょう!」
クレオさんの疑念は、アマンダさんの台詞ひとつで、あっさり掻き消されてしまったらしく。追及から逃れられたわたしは、ほっとしていたのだけれど。それも、一瞬だった。
今日はきっと厄日に違いない。いいえ、今日までの日常が奇跡だったのかもしれない。
「アマンダ、ちょっと来てくれないか」
工房の雑務をこなしてくれている男性——アマンダさんの旦那さんが、後方の出入口から顔を出す。いったい、なにが起こったというのか。耳を疑いたくなるような事態を、困惑ぎみに告げる。
「外にな……、ヴェントスさんがお見えなんだよ」
「ヴェントスさまがかい? 納品したヴェールがお気に召さなかったのかしらね。依頼主からのご指名でもあったし、彼女が刺したものなら文句も出ないと思ったんだけど……」
首を傾げつつ、アマンダさんが視線を送ったさきには、事態が飲み込めず、困惑しているわたしがいた。
けれど、そんなわたしにアマンダさんは頼もしい笑顔を見せてくれる。
「待ってな、話を聞いてくるから。大丈夫、きっとお誉めの言葉をいただけるよ」
困惑している理由を誤解してくれたようで。
それなのに……。わたしには安堵する時間さえ与えられなかった。
「勝手に失礼するよ。工房を見学させてもらっても構わないかな」
背後の出入口から、一年振りに聞く、懐かしい声が聞こえてきて。過ぎたはずの時が、いっきに巻き戻された気がした。
けれど、わたしは手もとに目を向けたまま、わけがわからず硬直してしまう。それでも頭では必死に、今日の自分の服装を思い返していた。
髪は、頭をすっぽりと覆う形のボンネットで隠れているし、服も装飾のないものを着ている。周りの女性たちも似たような服装ばかり。
座っているのはうしろから四番目の席で、入口からは離れている。加えて彼のことだから、俯き、背を向け皆に紛れていれば、絶対に気づかれない。
そう、期待していたのに。床板が響かせる靴音は、わたしの真横でぴたりと止まった。
「ねえ、君。顔を上げてみて」
冷水を頭から浴びたような感覚が体を走る。凍りついていると、視界のはしに、躊躇いもせず腰を落とす男性の姿が映った。
「君だよね。花嫁のヴェールに刺繍を施したのは」
しゃがみ込み、わたしの顔を下から覗き込んだ男性——公爵の問いに、いまだかつてないくらい、工房が、しんと静まり返る。
「ここで、なにをしているの?」
久しぶりに見る、公爵の笑顔——だけれど。まえにも増して迫力を感じるのは、気のせい……かしら。
「……なにをと、言われましても——。見てのとおり、お針子ですが」
「そう、わかった。じゃあ立って」
公爵がそう口にしたときには、もう手を引かれていたわたしは、抵抗を考える暇もなく椅子から立ち上がっていた。
「仕事中に申し訳ないけど、しばらく彼女を借りるよ」
続く静寂のなか。公爵の頼みに、かろうじてアマンダさんだけが、こくこくと頷いていたけれど。
きゃあっ、という甲高い叫声が、わたしたちがあとにした工房には湧いていて。まっさきに声を上げたのはクレオさんに違いないと、わたしは確信していた。
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