果たした役割



 もっと深層まで、潜りたかったのに。


 夢から引き剥がされる感覚とともに突如として見舞われたのは、痛みと息苦しさだった。呼吸もままならず、両手が空を掻く。

 硬い床に背中を打ちつけたようで、薄く開いた目に映ったのは、わたしに馬乗りになった女性だった。


「……メ……リッサ——さま?」


 掠れた声でわたしが名を呟くと、応えるようにメリッサさまが口を開かれた。


「ようやく念願が叶ったというのに。いかにあなたの功績が大きくとも、レオーネ陛下に仕える胡蝶の座は、誰にも譲りません」


 王との会話を聞いていらしたのかもしれない。メリッサさまの両手がわたしの首へと伸びてくる。そのままゆっくりと体重をかけられ、増していく息苦しさに全力で抗おうとしたのだけれど。


 メリッサさまのお顔には平常どおりの淑やかな微笑みが浮かんでいて。逡巡の欠片さえ窺わせないその表情に全身がすくみ上がる。


「お礼は申し上げます。これで長年抱えてこられた陛下の憂いも払われ、元老院の召喚にも応じてくださるでしょう」


 メリッサさまがなにを仰っているのか。もう、言葉の意味を考える余裕すらなくて。目的を果たせないまま、わたしの命は終わってしまうのかしら。王をお救いするための糸口を掴んだばかりだというのに。

 このままではすべてが無駄になってしまう。それどころか、間違いなく状況は悪化する。


 しかも。ぎりぎりと首を締め上げられ、抵抗もままならず、朦朧として意識が落ちていくさなか。無慈悲な悪魔たちが、地獄からのお迎えとしてやってきたのかもしれない。

 確実に壊れたと思えるほど、荒々しく扉が開かれた。続いて複数の足音と——。


「胡蝶を捕らえろ!」


 聞き覚えのある男性の声が耳を突く。


「まだ、生きているな」

「……来て……っ——」


 来て、くださったのですね。そう声にしようとして息を詰まらせ、激しく咳き込んでしまう。

 苦しみから少しでも逃れたくて、横になったまま体を丸める。視線だけを上向けてみれば、涙で潤む視界に映ったのは、そのような状態のわたしを見下ろす、シエロの立ち姿だった。


 約束を違えず、助けに来てくれた。


 呼吸する自由を取り戻し、状況を理解し始めたころには咳も治まっていて。

 いつまでも寝転んでいるわけにはいかないと、ゆらりと上体を起こす。けれどまだ、立ち上がれるほどの気力は持てなくて。冷たい石床に両手を突いてへたり込む。


 そこでわたしが落ち着いたのを確認したからだと思う。シエロから声がかけられる。


「見捨てられたとでも思ったか」


 メリッサさまの拘束から解放されたばかりだというのに。不愉快そうに問われた内容に身が竦む。


 見捨てられたと思う以前に、助けは期待できないと、初めから決めつけていたから。この国の第二王子である公爵ですら、門前払いのような扱いを受けていたし。

 シエロがどのような策を講じたのかも、いまだ見当がつかない。


「……お気持ちはあっても、王の居室への立ち入りは難しく、シエロさまでは許されないと思っておりました」


 正直に告白すると、低い声がぼそりと落ちてくる。


「穏便に解決するのなら、それに越したことはない。そう古狸に言い含められてきたが——。もともと俺の性に合わないんだよ。それに現行犯なら、どこからも文句は出ない。いや、胡蝶がどのような弁明をしようと、もう、誰にも文句は言わせない」


 そう断言したシエロは、ベッドに横たわられた王を、厳しい顔つきで見やっていて。


「お前のおかげだ」


 あまりにも声が小さすぎて、聞き逃してしまいそうだったけれど。どうやらわたしは、シエロからお礼を言われたらしく。


「では……。おとりとしての役割は、果たせたのですね」


 ここに来てようやく、安堵から体の力が抜けていくのを感じていると、呆れ返った声が耳に届く。


「しかしまさか、お前ひとりで解決しようとしていたとはな。考えなかったのか? この国の命運をお前ひとりの手に委ねるのは、いくらなんでも無謀すぎる。なにより、お前を見捨てて、弟から恨まれるのはご免だからな」

「——おと……うと……?」

「ああ、いいかげん気づけ。ルクスは俺の、腹違いの弟だ」


 それはとても、解釈に困る言葉だったけれど。

 まさか彼は、公爵の従兄弟でも、ましてや補佐役などでもなく——。


「……第一王子、ラディウス殿下?」


 ぽつりと、わたしは名前を呟いていた。それを目のまえに立つ彼が、違うと否定する様子はなくて。


 そこで公爵が重ねてついていた嘘に気づいても、わたしは公爵を責めることができなかった。責めていい立場でもないし、そもそも公爵と会うこと自体、もう、望めない夢なのだから。


「立てるか?」


 わたしは頷いて、差し出されたラディウス殿下の手を取る。知らないうちにあちこちぶつけていたらしく、体中が痛んで顔をしかめてしまったけれど。


 手を借り、立ち上がったそのとき。メリッサさまの視線がラディウス殿下にひたと向けられていることに気づいた。






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