第5章

壊された平穏



 初めて訪れたときと同じように、神殿から王宮へと繋がる地下通路を抜ける。


 そこから王宮内へと入り、なんの障害もなく王の居室まで通してもらえたから。謁見すら許されない場合も考えていただけに、望みはまだ絶たれていないと思えていたのだけれど。


「ただいま戻りました、アネモネです」


 そう告げたわたしに応える者が、部屋には誰ひとりいなかった。


 メリッサさまのお姿さえ見当たらなくて。

 閉じられた硝子扉越しに、青いモザイクタイルが敷き詰められた中庭へも目を向けてみたけれど。

 厚い雲が、空には広がりつつあるからか。無人の中庭は殺伐としていて、最悪な未来を暗示しているようにも思えた。


 不安に駆られるままに、誰もいない部屋から隣室へと足を踏み入れる。その刹那、わたしは驚きから立ち止まっていた。


 そこには、王がいらしたから。

 ベッドで横になられていて、そのお姿が瞬時に公爵と重なり、手遅れの場合を想像してしまう。お休みになっているだけのように見えても、不安は完全に拭いきれない。


 それとも、まさかとは思うけれど、苦肉の策が通じたのかしら。


 ——事が成った暁には現胡蝶を解任し、のちの座は、わたくしにお与えください。


 その願いを、確かに王は聞き入れてくださった。口約束に過ぎない、芯のない願いでも、メリッサさまの呪縛に打ち勝ったのならいいのだけれど。

 それにしては、静寂が不気味に感じられる。


 けれどこの機会を逃せば、つぎはないかもしれない。


 衰弱されたお姿に焦りを覚えたわたしは、ただひとつのことだけに集中し、王へと手を伸ばしていた。






   ******






 閉じていた瞼を上げると、場所は変わらず、王の居室だった。

 けれど流れる空気が違う。窓や扉、そのすべてが開け放たれていて。室内にも心地よい風がそよいでいる。


 そのように清涼な風を感じながら、王は肘掛け椅子にゆったりとお座りになっていた。心も穏やかに、会話を楽しまれているご様子で。

 相手は誰かしらと思っていると、中庭に向けられていた王の視線が真横へと移る。


 そこにはもう一脚、隣り合わせで据えられた肘掛け椅子があり、王と等しくくつろいだ姿勢で座る人物がいた。

 その人物へと、王がお声をかけられる。


『リベルタス領のことは、お前に一任している。むしろ、俺より議会を説得するほうが骨だろう』

『その点はいまより楽になると思いますよ。近々、ヴァルフレッドが宰相の座に就く予定ですから』


 笑顔で王に返答したのは、黒髪に琥珀色の双眸を持つ、二十代前半の男性で。どこか頼りなさそうな外見をしてはいるけれど、瞳には強い光があり、侮れない雰囲気があった。


 王はその男性を、なぜか羨ましいお気持ちを抱えながらご覧になっていて。自嘲するような感情が、わたしの胸にも流れ込んでくる。


『この国の王は、お飾りでしかないからな。たとえ王の提案であっても、最終的には議会が国益となるかを判断し、可否が決まる』

『拗ねないでくださいよ、兄上。最初に絹の自国生産を言い出したのは、あなたなのですから』


 そこでようやく、隣の男性が王弟レオパルドなのだと気づく。


『——ああ、来てくれたようですね』


 そう口にしたレオパルドの顔は、開け放たれた硝子扉のさきに向けられていた。追って視線を動かされた王の目にも、来訪者の姿が映っていたのだけれど。

 すでに立ち上がっていたレオパルドが率先して中庭まで行き、来訪者ふたりを出迎える。


『待っていましたよ』

『叔父上、ごぶさたしております。ごきげんいかがですか?』


 五歳くらいかしら。間違いないと思う。はにかんだ笑顔をレオパルドに見せたのは、幼いころの公爵だった。

 その横には微笑む魔女がいて。上手く挨拶ができた公爵を、嬉しそうに誉めていた。


『また大きくなったのではないですか? まあ、うちのシエロも負けていませんが』


 慣れた様子で公爵を抱き上げたレオパルドを見て、魔女がくすりと笑う。


『レオパルドさまも、すっかり父親の顔が板についてしまいましたね』


 冷やかしを口にした魔女に、レオパルドの視線が向けられたところだった。

 かすかな騒めきを、胸に感じる。


『ストラーダはどうしました?』

『眠っていたので乳母に預けてきてしまいました。けれど、お時間がありましたら顔を見ていってくださいね』


 そこでまた、ふたたび胸が騒めく。

 けれど、それは間違いなく王が抱かれた不快感で。細波さざなみのようにつぎつぎと、記憶の断片が心に流れ込んでくる。


 その断片のひとつ——。


 この記憶は、王と魔女が初めて引き合わされたときのものかしら。目のまえにいるのは、まだあどけない十一歳の少女で。よわい十四にして即位された王のために選ばれた胡蝶だった。

 それが魔女だったわけだけれど。幼すぎる魔女を、王は胡蝶ではなく妹のように扱っておいでで。魔女と同年でもあるレオパルドに、たびたび相手を押しつけてしまわれていた。


 そのころから魔女とレオパルドは、なにをするにも気が合い、仲がよくて。王のお気持ちが恋心へと変わり始めてからも、つかず離れず関係は続いていた。


 そしてこれは、いま覗き見ている記憶——。


 いいえ、ジュラーレの港街が一望できる崖で、魔女に想いをお告げになったころから胸に抱えていらした消せないわだかまり。


 側室ではあるけれど、最愛の妻として迎え入れたはずの魔女は、いまの待遇に幸せを感じてくれているのか。

 愛していると、そのひとことさえ口にしてくれたことがなくて。


 なにを望んでも拒まれないのは、魔女がいまも王の花であり続けているからではないのか。魔女から向けられるのは愛情ではなく、刷り込まれた忠誠心なのではないのか。そのように王は、心の片隅で感じておられて。


 いくつかの要因が積み重なった結果なのかもしれない。


 他愛ない会話で微笑み合う魔女とレオパルド。そして大人しく、レオパルドの腕に抱きかかえられた公爵。まるで親子のような光景を目にした瞬間、王のお心に灯ったのは、小さな疑惑の炎だった。

 それは真実、思いつきのようなお考えで。


『ルクスは……、本当に俺の子なのか?』


 声に出されるおつもりはなかったから。しかも不機嫌な物言いをしてしまい、王ご自身も戸惑いを感じていらして。

 公爵を床に下ろしたレオパルドからは、咎めるような視線が向けられる。


『冗談にしては度が過ぎますよ』

『レオパルドさまの仰るとおりです。ルクスが驚いているではありませんか』


 ふたりからたしなめられ、王はますます不機嫌になられていく。


『——こっちへ来い、ルクス』

『兄上。またそのように怖い顔をされては……』


 レオパルドの言葉が終わらないうちに、とことこと歩を進めた公爵は、王のもとへと辿り着き、不思議そうな顔をしていた。


『父上は、なにか悪いことでもなさったのですか?』


 公爵から受けた無垢な質問に、王の胸のうちにあった疑惑のことごとくが、あっさり吹き飛ばされる。

 視線を感じ、そちらに顔を向けてみれば、意味ありげな含み笑いを浮かべた魔女がいて。


『ミネルヴァ。まだ、俺に言い足りないことでもあるのか』

『いいえ。ただ、ルクスもわたしも、あなたの怖い顔には慣れていますものね』

『妻子のまえでは、王の威厳も形なしといったところですか』


 魔女に続き、レオパルドまで好き放題に言ってくれる。そこに今度は、王を見上げて首を傾げた公爵が口を開いた。


『……父上は、カタナシですか?』

『そうそう、形なしです。覚えておくといいですよ』

『——レオパルド。そのくらいにしておけ』


 それは本気の忠告だったと思うのだけれど。ついに魔女が吹き出してしまう。忠告を受けたレオパルドまで一緒になって笑っていて。

 王の肩からは、ゆるゆると力が抜けていく。


『国王である俺を、少しは敬え』


 そう、ぼそりと呟かれた王だけれど。その両腕で公爵を抱き上げられたときには、頬が緩むのをご自身でも感じていらして。

 このころまでは王も、皆と心から笑い合っておいでだったのに。


 王は現在も変わらず——。いいえ、まえにも増して疑念を強めていらっしゃる。公爵が、不義によってできた子ではないのかと。


 けれどこの記憶を見る限り、思いつきのような疑念が膨れ上がってしまったのには、よほどの理由があったとしか考えられない。


 たとえばその始まりが、メリッサさまの干渉によるものだとしたら。

 王であるがゆえに夢渡という異能を熟知されていた王は、だからこそ魔女を信じ抜くことができず、そこにメリッサさまがつけいる隙を生んでしまったのかもしれない。


 そして知らぬまに心を操作され、お気づきになったときには、心の奥深くにまで呪縛は及んでいて。延々と葛藤を繰り返す結果を招いてしまった。


 おそらく、それが真実なのだと思う。






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