刻まれた教理



 せめていまだけは、幸福な夢を——。


 願ったのは、誰にとっての幸福だったのか。

 ただ、願えばねがうほどに胸が痛み、込み上げる涙をこらえられなくなりそうで。

 どれほど公爵の温もりに満たされようと、心に刻み込まれた教理は、いまだわたしをがんじ搦めにし、自由を与えてくれない。


 だからわたしは夢を覗き見るため、隣で眠ることを許してくれた公爵に寄り添うしか、ほかに方法を見いだせなかった。


 どう足掻こうと、わたしは夢渡として生をけた、王の花なのだから。






   ******






『おいでになるのでしたら、先触れをいただければ、人払いをさせておきましたのに』


 慌てて椅子から立ち上がり、戸惑い混じりにそう零したのは魔女だった。


 容姿だけを取り上げるのなら、服装が大人しめだということ以外は、わたしが知っている魔女と、そう変わらないのだけれど。

 窓から漏れ入る陽の光により充分な明るさが保たれながらも、高い天井が寒々しさを感じさせるこの部屋は、間違いなく王宮の一室で。


 この記憶も、公爵がリベルタス領の領主になるまえのものなのかしら。


 魔女と同じテーブルに着いていた公爵は、誰に促されるでもなく、魔女にならい席を立っていた。笑顔をつくり、丁寧に頭を下げたのは、突然の来訪者——王に対してだったのだけれど。


 王は、公爵のその姿を一瞥されただけで、すぐに魔女へと視線を戻してしまわれる。


『先触れが必要なのは、突然来られたら困るからだろう』

『……なにが、仰りたいのですか』


 王のご様子に懸念を覚えたのかもしれない。魔女の表情が徐々に強張り始める。しかも比例するように王が苛立ちを募らせていかれるのが、傍目にも伝わってくる。


『げんにこの状況。男を連れ込んで、なんと釈明するつもりだ』


 魔女を責める声からは、怒気が滲み溢れていた。


 なぜ、王が怒りを顕わにされているのか。公爵は状況が理解できないまま、困惑から周囲の大人たちを見回す。

 最後に目を向けたのは、隣にいた、ひ弱そうに見える三十前後の男性だった。


 どうやらこの部屋には、公爵と魔女のほかに、もうひとりいたらしい。

 固唾を呑んだその男性は、ひどく怯えているように見えた。魔女に詰問を浴びせた人物が王であると気づいたのだと思う。


 そこに気丈にも魔女が、王へと言葉を返す。


『先日お話ししました歴史家のかたです。ルクスの教師にと、レオパルドさまからご紹介いただいた——』

『俺は許していない!』


 魔女の言葉を遮ってしまわれた王は、つぎの瞬間、背後に控えていた護衛の男性へと手を伸ばされていた。

 そのさきにあったのは、護衛が腰に佩いた細身の片手剣レイピア


 そこにいた皆がいっせいに息を呑むなか。王の手により、鞘から剣がすらりと引き抜かれる。


『なにを……なさるおつもりですか』


 王から庇うように、魔女は公爵を抱き寄せていた。


『この男は、俺の顔を見た。生きて王宮を出すわけにはいかない』


 不条理な罪状を押しつけられ、王に睨まれた男性は、おののき後退り、ぶつかった椅子を押し倒していた。

 派手な音とともに、男性も床に転がる。それだけでは収まらない。腰を抜かし青ざめた男性の眼前に、躊躇いもなく剣先が突きつけられる。


『ど、どうか……お許しをっ!』


 必死に懇願するも剣は引かれず、ひっ、と声を漏らした男性に、場の空気が凍りつく。

 背を這い上がった戦慄に、わたし自身が悲鳴を上げそうになったその刹那。脳裏を掠めた陰惨な光景は目に飛び込んでこず、公爵の視界はなにかに遮られていた。

 それは咄嗟に公爵へと覆い被さった、魔女の身体からだで。


 どうして。と呟いた魔女が床にへたり込む。


 そこで母が震えていることに気づいた公爵は、慰めなければという想いから、たどたどしくも魔女の首に腕を回し、抱きしめていた。

 そして魔女の肩越しに、王を垣間見てしまう。


 けれど、わたしが想像したようなおぞましい出来事は、なにひとつ起きていなかった。


 王はまだ、剣を手に男性の正面に立たれておいでだったけれど。頭を抱えて縮こまっている男性に、負傷した様子は見当たらない。思いとどまられたのか、剣が使われるような事態にはなっていなかった。


 なにより、王ご自身が、この場の誰よりも驚いた顔をされていた。


 ただ、公爵の視線にふと気づかれたときの目つきは違った。

 我が子をご覧になっているとはとうてい思えない。まるで仇敵をまえにしているようで。琥珀色の双眸にくすぶる炎に畏怖を覚える。


 魔女を抱きしめていた公爵の腕に、力がこもる。


 あの剣先を、実際に突きつけたい相手は自分なのではないか。母が庇うから、手を出せずにいるだけなのではないか。

 公爵は王から目を逸らせないまま、そのように感じていて。


 そしてこの記憶こそが、心のもっとも奥深い場所に刻まれた、いまだ癒えずうみを持ち続けている、公爵の傷。


 身を焼かれるような心痛に震えながら、わたしはそれを確信していた。







 目覚めは唐突だった。


「返事をしろ、アネモネ!」


 強く名を呼ばれ、意識が浮上するような感覚を味わう。


 目を開けると、カーテンの隙間から月明かりが射し込んでいた。その淡い光に照らされ、真上からわたしの顔を覗き込んでいるのは、逼迫した面持ちで眉間に皺を寄せた公爵だった。


「どうか……なさったのですか?」


 夢を覗いていたと、知られてしまったのかもしれない。一瞬、そう思ったけれど。

 横になって公爵に寄り添い、眠る振りをしていたのが功を奏したのか。


「……よかった」


 そのひとことで、わたしが目を覚ましたことに安堵したのだと、すぐに伝わってくる。


「うなされていたから心配した。何度呼びかけても起きないし——。体調は? どこも悪くない? エルマを呼ぼうか?」


 微塵も疑わず、優しくかけられた気遣いの言葉が、わたしの心を押し潰す。

 そこで半身を起こしたわたしは、だからこそ、公爵を睨んでいた。

 気遣ってもらったというのに。そうしなければ、いまにも張り裂けそうな胸の痛みが、公爵に伝わってしまいそうだったから。


「ルクスさま。少しおおげさではありませんか? そのように心配なさらずとも、わたくしなら大丈夫ですよ?」

「無理は、していないんだね?」

「はい、しておりません。それにわたくしは……、こうしておそばに置いていただけるだけで、嬉しく思えるのです」


 自分で、口にした言葉なのに。涙で視界が潤むのを自覚する。けれど、わたしは公爵から目を逸らさなかった。


 本気で心配してくれたり、なにより、容易く深層に触れさせてくれるほど、わたしに心を許してくれていたなんて。それを思い知らされても、わたしの決意は、もう、わずかも揺るがないから。


 そしてこれが、公爵と過ごせる最後の時間。そう区切りをつけ、わたしは琥珀色の双眸を見つめた。


「このままもう少し……、わたくしと一緒に、眠ってくださいますか?」

「いちいち了解を求めなくていい。断る理由が思いつかない」


 公爵は不機嫌そうな顔をしていたけれど。彼の腕に触れたわたしの手が、拒まれることはなかった。






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