裏切りと決意



 心を決め、王都よりリベルタス領へと戻ってきたその日の夜のこと。


 早朝から、馬車に揺られ通しの一日で。疲れもあるだろうし、日を改めたほうがよかったかしら。と、ぎりぎりまで思い悩んだすえに、扉を叩いたというのに。


「これは珍しい」


 言葉どおり、珍品でも発見したような顔つきでわたしを見ているのは、自ら執務室の扉を開いて出てきた公爵だった。


 公爵は、執務室からの続き部屋を私室にしていて。以前シエロから呼び出された部屋は、シエロ自身が寝泊まりするときに使っているらしいのだけれど。

 その、最大の難関でもあるシエロは、城館に住み込んでいるのではないかしらと思うほど、自邸に帰っている様子がまったくなかった。


 おそらく、今夜もそう。


「……夜分に、申し訳ありません」

「君なら深夜でも歓迎するよ。どうぞ、入って」


 笑顔を向けられ、促されるまま部屋へと足を踏み入れる。


 カーテンが閉めきられているのでわからないけれど、正面の窓からは中庭が見下ろせるのだと思う。

 飾り気のない部屋のなか、右奥の書棚には分厚い背表紙の本が整然と並んでいて。書棚を背にして据えられた執務机の上も、見る限り整理整頓が行き届いているようだった。


 かすかに香るのは、シナモンと珈琲かしら。

 気になるのは、手前のローテーブルに置かれた二客の珈琲カップ。けれどテーブル横の肘掛け椅子に、予想していた人物の姿はなく。


 背後で、扉を閉める音がぱたんと鳴る。間を置かず、公爵の声が間近に聞こえる。


「シエロなら、いないよ。仕事の邪魔だと追い払ったばかりだから」


 真うしろに立った公爵から耳もとで告げられたその内容は、瞬時にわたしを硬直させた。

 シエロを警戒していると、どうしてわかったのかしら。


「きょろきょろしているからだよ」


 まだ、なにも言葉にしていないのに——。なかなか手強い。


「ねえ、なにか悪巧みでもしているの?」


 横から顔を覗き込まれ、ぎくりとする。


「王命に従うことにした、とか?」

「……笑顔で、そのようなことを口になさらないでください」


 探られているようで、見つめられ続けるのは耐えがたく、わたしは公爵から目を逸らす。

 せめて、拗ねているように映っていればいいのだけれど。そう願いつつ、考えてきた用件を口にする。


「ルクスさまはお聞きになりませんでしたが……。やはり王のご様子は、お伝えしておくべきだと思ったのです。ですからわたくしは——」

「……うん。王命に従うことにしたとか、冗談でも口にするべきじゃなかったね」


 心から反省している様子の公爵に、この期に及んで罪悪感を覚え、わずかな迷いが胸に生じる。


「——お仕事の邪魔になるのでしたら、明日また出直します」

「仕事なら、明日に回しても問題ないよ」

「ですが、さきほど……」

「決裁しなければならない書類が留守中に溜まってしまったのは本当だけど。今夜くらいはゆっくりしたかったし、厄介者を追い払うには、仕事がもっとも効果的な口実だから」


 にこりと笑った公爵の、胸のうちにある真相はまったく見抜けないけれど。

 ただ、もう一日だって無駄にできないのは確かで。目的を果たすためには、遠慮などしている場合でもなくて。


「せっかく君から訪ねてきてくれたんだし、お茶でも飲みながら話そう」


 ちょっと待ってて。そう言って背を向け部屋を出ていこうとした公爵を、わたしは決意も新たに引き止めていた。


 それは一応の成功を収めたのだけれど。


「——どうしたの?」


 公爵が着ている上衣の袖を、無言のまま、しかも勢い込んで掴んでしまったものだから。振り返った公爵から、不思議そうな目で見られてしまう。

 けれど、これでよかったのかもしれない。わたしは躊躇いを捨て、口を開く。


「王はいまこの瞬間も、たったおひとりで胡蝶に抗い続けていらっしゃいます。元老院からの召喚を拒まれておいでなのも、理由がおありなのだと思います。王はけして、お役目を放棄なさったわけではありません。ですから、わたくしに下された王命もきっと……、王の本意ではないのです」

「……うん。君がそう言うのなら、信じるよ」

「でしたら、お願いします。すべてが解決したとき、王と直接、お話をされてください」

「それは……。善処する」

「善処、ですか?」


 返答が不満だったので、とりあえず睨んでみる。どうせ、無駄でしょうけれど。


「わかった、約束する」


 思ったとおり、笑顔で軽くあしらわれてしまう。けれど公爵の言葉は、それだけでは終わらなくて。


「ほかには?」


 公爵の優しい眼差しに、わたしは負けてしまいそうになる。俯きたい気持ちを振り払い、喉の奥につかえ、ずっと表に出せなかった想いを、ここぞとばかりに打ち明ける。


「聞いて……くださいますか。わたくしの望みを——」

「喜んで聞くよ」


 そう言って、公爵が嬉しそうに微笑むから。たとえここで、国を傾けてしまうほどの望みを口にしたとしても。笑って赦してくれるような気がした。


 結局わたしは、公爵の好意に甘えることしかできなくて。しかも、いまからそれを利用しようとしている。

 そうと自覚したうえで、わたしは浅ましくも告げる。


「あとひと月と……、ルクスさまは仰いましたけれど——。わたくしはそのさきを、望んでもよいのでしょうか」


 芝居をするまでもなく、わたしの頬は羞恥で赤く染まっていたと思う。偽りではない、真実の告白をしようとしていたから。


「もし、望めるのなら……。これからさきも……、わたくしはルクスさまとともにありたいと、心より願っています」


 この想いは偽りではなく、ようやく言葉にできた真実で。だからこそ、わたしが使える最良の手段でもあり。信じてもらえなかったときの対応策など、考えてもいなくて。


 それなのに、なぜ——? 伝えた途端、公爵の顔からは笑みが消えていた。

 ここで失敗するわけにはいかないのに。わたしは焦りを抱きながらも、慎重に言葉を重ねる。


「わたくしの望みを、叶えてくださいますか?」


 たとえ嘘でも構わない。気まぐれでもいい。一夜限りでも受け入れてくれさえすれば、そもそも真実である必要はないのだから。

 どうか拒まないでという想いで懇願すると、公爵は困り果てたような表情をしていた。


「ごめん。少しだけ、頭を整理する時間をもらえるかな」

「なぜ……すぐに答えてくださらないのですか? やはりわたくしが、夢渡という異能を持つ者だからですか?」


 込み上げた疑問を口にしてしまったあげく、さらに言い募ろうとしたわたしを、公爵は強い視線で遮る。


「違うんだ、アネモネ。俺は君が何者でも構わないし、君を拒みたいわけでもない。ただ、君が王命から解放されるのを待って、そしてあらためてと……心に決めていたから——」

「わたくしの告白を……お疑いなのですか?」

「疑ってなどいないし、俺の望みも、君と同じだよ」

「でしたら……」


 わたしは自分から距離を縮め、そっと公爵の腕に触れた。


「……でしたら、わたくしに証をお与えください。言葉だけでは不安なのです。せめて隣で眠ることだけでも……、わたくしにお許しいただけませんか?」


 言い終わるころには、願い出た内容の恥ずかしさから、たまらず俯いてしまったのだけれど。


「——それは、新手の拷問かなにかなのか?」


 重い溜息とともに零れ落ちてきた言葉に、つられて公爵を見る。


「……拷問、ですか?」

「ひとりごとだから、そこは聞き返さない」


 笑顔で凄まれたため、すみませんと、わたしは反射的に謝ってしまったのだけれど。

 拷問だなんて。それを聞き返すなと、理不尽な要求を寄越したとうの公爵からは、顔を背けられてしまう。


「あの……。ルクス……さま?」


 夢渡であるわたしには不相応な願いに、彼を怒らせてしまったのかもしれない。そう感じ、不安から名を呼んだのだけれど。

 なにが……起きたのかしら。わたしはいくらも待たずに、ふわりと抱き寄せられていた。


 突然のことに、混乱してしまったわたしの耳もとで、公爵がたずねる。


「ねえ、アネモネ。今日はこのまま、俺のそばにいてくれるつもりなの?」

「……ご迷惑、ですか?」

「迷惑なわけがない。そばにいてくれと、俺から願いたいくらいなのに」

「では……、お許しいただけるのですか?」


 これは……。想いを受け入れてくれたと、思ってもいいのかしら。だとしたら、ひとまず、目的達成のための第一歩は踏み出せたのかもしれない。

 その安堵も手伝い、じわりと胸に、温もりが広がる。


 けれど、窺うように顔を上げると、思ったよりも間近に、琥珀色の双眸があって。そこにこもる熱に気づき、咄嗟に逡巡を感じたわたしは、公爵の腕から逃げ出してしまいたくなる。


 そんなわたしを繋ぎ止めたのは、やはり公爵の声だった。


「ずっとお預けを食らっていたんだ。このような告白をされては、帰したくなくなるに決まっている……」


 視線が絡んだのは、ほんのひとときだったと思う。

 初めて交わした口づけは、軽く触れるだけの、とても優しいもので。けれどわずかにできた距離が、ふたたび近づくのにそう時間はかからなくて。


 わたしはうずく心をなだめ、想いが結ばれる喜びだけを感じていようと、公爵の背に腕を回し、ぎゅっと力を込めた。






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