第4章
選ばれた胡蝶
近年、サンファーロ王国の王宮には明るい出来事がない。
それは二年前、リーリエ王妃が病により急逝されたころから深刻さを増していて。
第一王子のラディウス殿下は、母ぎみである王妃のご逝去をきっかけに体調をお崩しになり、寝室から出ることもままならないと聞いている。
魔女が授かったもうひとりの御子。第三王子のストラーダ殿下は、政争を避けるためか神官への道をお選びになり、神殿へと上がられたようだけれど。
ベッドに伏されたままのラディウス殿下では、お世継ぎとして不安が残る。
そこにきて王都の困窮が続くとなれば、レオーネ王の治世に疑問を持つ者が現れるのは避けられなくて。
加えて、相反するようにリベルタス領が繁栄を見せるものだから。
その領主、ジュラーレ公爵に国民の期待が集まるのも、自然の流れだったのだと思う。
******
ジュラーレの城館を見慣れてしまったせいかもしれない。久しぶりに訪れた王宮だけれど。がらんとした、古めかしい石造りの室内は、どこか寒々しく感じられた。
壁に掛けられた大きなタペストリーには、建国の祖でもある初代国王が地上に降り立たれた瞬間のお姿が描かれていて。
大役遂行に躊躇いを覚えてしまったという背徳感を抱えているからか。以前は
そのようにうしろ暗い感情しか湧いてこないここは、謁見の間へと続く通路で。拝謁の許可を、公爵と並び立ち待っているところだった。
通常、王との謁見が許される者は限られている。わたしのように公爵のもとに嫁ぎ、王と親族関係が結ばれたとしても、自由にお会いすることはできない。
今回このような機会が設けられたのは儀式の一環で。
王の御前で王国のために尽くすと誓う、わたしが正式に王族と承認されるための、通過儀礼のようなものだった。
公爵ですら、爵位を授けられて以降、一度も王宮には来ていないというし。
ただ、公爵に関しては、覗き見た記憶を思い起こせば、そこに理由があるのかもしれないのだけれど。
あのあと公爵の夢を渡る機会は、今日まで一度も巡ってこなかったから。勝手に覗き見た記憶についてだし、公爵本人に聞くのも躊躇われ、結局、詳しい事情はわからないまま。
普通の親子関係とは根本から違うのかもしれないけれど。公爵は十年以上も、王にお会いしていないことになるのかしら。
王都への道中、さすがに王宮で殺生沙汰はありえないだろうと、軽く笑い飛ばしていたのは公爵なのに。
いま、謁見の間に繋がる扉を見据えている公爵の横顔からは、穏やかさの欠片も見受けられなかった。むしろ、怖いくらいで。
いつも以上に距離を感じてしまったけれど、幼いころの公爵が王に対して抱いていた不安と恐れを思い出したから。わたしは無意識のうちに、公爵の手に触れていた。
即座に公爵からは、驚いた顔を向けられる。
「あのっ、これは……っ!」
不躾なことをしてしまったと、咄嗟に手を引っ込めようとしたのだけれど。
「ありがとう。心配してくれたんだよね」
そう言って微笑んだ公爵に、わたしの手はしっかりと掴み返されていた。
けれどすぐにまた、公爵は笑みを消してしまう。睨みつけるような強い眼差しは、やはり扉へと向けられていて。
しんとした通路の中央。抑えられた公爵の声が、かろうじて耳に届く。
「あとひと月だ。あとひと月、待てばいい。王が元老院からの召喚を拒み続けて、もうすぐひと月が経つ。このまま王が召喚に応じなければ、譲位の儀が強制的に執り行われる」
「まさか……。元老院が、王の廃位を認可したというのですか?」
王はもう、サンファーロ王国のために生きることを放棄していると、魔女も言っていたけれど。傀儡の話に続き、にわかには信じがたく、動揺を隠せずにたずねると、公爵は扉を見据えたまま頷いた。
「王は
「王は、なぜ……」
そう呟いた途端、繋いでいた手に、ぎゅっと力が込められる。
「王が退位すれば、君は王命から解放されるんだ。王が召喚に応じない理由など、いまさらどうでもいい」
それは、本心なのかしら。今日、わたしが身につけている衣装を見れば、そう思わずにはいられなくて。
ただ、ここまで来ていながら、状況に甘え、なにも決断できずにいるわたしには、かける言葉がなにひとつ見つからなくて。
扉の開く音が、重く通路に響いたその瞬間。夢の終わりが間近に迫っていることを、残酷にも告げられたような気がした。
それに、どうして? 侍従長あたりが取り次ぐものとばかり思っていたのに。
確かに公爵の言葉どおり、女性ではあったけれど。出ていらしたのは女官ではなくメリッサさま——。
現胡蝶だった。
簡素な濃紺のドレスをお召しになっていて。華やかな魔女とは違い、亜麻色の髪に
王の御為にと敬虔にお勤めになる姿勢は、十二歳で胡蝶になられてから二十年が経ったいまでも、まったく変わっていないと誉れも高い。
胡蝶として、わたしたち王の花を束ねる立場にもあるメリッサさまだけれど。かけてくださるお言葉は、皆の生きる指針ともなっていた。
女官として振る舞われるおつもりらしく、わたしたちのまえに立ち、気品のある礼を取られたあと。メリッサさまの視線は公爵ではなく、なぜかわたしに向けられていた。
「ジュラーレ公爵夫人でいらっしゃいますね。国王陛下は夫人おひとりをお連れするようにと、お申しつけになりました」
「わたくしだけ……ですか?」
きっとこのとき、わたしの顔には迷いの色が出ていたのだと思う。公爵はメリッサさまの目も気にせず、わたしの耳もとに顔を寄せた。
「普通に挨拶をしてくればいいだけだから。君なら大丈夫。自信を持って行っておいで」
耳をくすぐる囁きと、そのあと頬に触れた温かな感触に、わたしは一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
頬に触れたのは、どう考えてみても公爵の唇で——。そういえばまだ、手も繋いだままではなかったかしら。
間を置いてそう思い至り、俯いて確認してみたのだけれど。
いつのまにか、お互いの指が絡んでいるのは、なぜ?
理解しがたい公爵の行動に状況の把握が追いつかず、しばし放心し、繋がれた手を眺めていたところ。琥珀色の双眸が視界に入った。
「ロベリア——。顔が赤いよ?」
「だっ……誰のせいですかっ!」
心配するふりをしながらも、微笑んで顔を覗き込んできた公爵のおかげで、いっきに正気づく。
けれどそろそろ、自覚するべきなのかもしれない。ソフィアだけでなく、わたしの睨みは誰に対しても効果がないということを。
「さらに真っ赤」
くすっと笑われ、公爵からもあっさりと
ただ、そのあとわたしと正面から向き合った公爵は、とても真剣な眼差しをしていて。
「君が戻ってくるまで、俺はここで待っているから」
公爵から背を押されたわたしは、考えるよりさきに、こくりと頷いていた。
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