偽りの婚約者



 公爵の一日は本当に多忙だったのだと、わたしはいまさらながらに実感する。


 それは魔女のお茶会以来、ヴェントスの婚約者、アネモネとして公の場に出るようになったからなのだけれど。

 ほぼ毎日、賓客の接待も兼ねた午餐会や晩餐会が待っていて。週に一度は国内外から貴人を招き、舞踏会も開かれる。


 一面だけ見るなら、豪奢な生活ぶりは真実だったわけだけれど。サンファーロ王国の威信を保つためには必要な投資なのだと公爵は言う。

 自国の絹織物やレース、刺繍の秀逸さを披露する場としても、ひと役買っているのだと。


 それを聞いて、公爵が衣装に妥協を見せない理由はわかった気がするけれど。

 やはり公爵は、どのような重鎮が相手でも、常にヴェントスと名告っていて。それだけは、いまだに理解しがたかった。


 そんなわたしの視線に気づいたのか、向き合ってテーブルに着いていた公爵が、にこりと微笑む。


「急に人前に出るようになって、疲れてはいない?」

「いえ……大丈夫です。いつもルクスさまが気遣ってくださるので」


 中庭に面した談話室で過ごす、午後のひととき。忙しいなか、今日も公爵はわたしとお茶を飲む時間をつくってくれて。

 もれなくシエロが同席しているけれど。リベルタス領入りをしてからひと月半が過ぎたいま、無口で無愛想なシエロにもいいかげん慣れてしまい、存在を無視して公爵との会話を続けるという技を、わたしは身につけつつあった。


「ひとつ、伺ってもよろしいですか」

「うん、なに?」

「なぜ、ジュラーレ公爵本人として公の場に出られないのですか? 王族の慣例も、王宮を出られたルクスさまには遵守じゅんしゅの義務もないはずです」


 サンファーロ王国の王族は、姿を見せないことで神秘性を高め、神格を保っている。それを放棄せずにいるとなれば、王位簒奪さんだつ目論もくろんでいると勘ぐられても仕方がないのに。


「なにか……理由でも?」

「理由というか、きっかけならあるよ。リベルタスに来たばかりのころ、俺は部屋に閉じこもってばかりいてね。そんな俺を見かねた母が名をくれたんだ。それがヴェントスなんだけど。その名が、俺に自由をくれた」

「——自由、ですか?」


 わたしの問いに頷いて、一瞬、苦笑してみせた公爵だったけれど。


「その自由を謳歌しすぎたせいで、いまではルクスよりヴェントスのほうが、このリベルタス領には必要な存在となってしまってね。いまさら、引くにひけないんだ」


 そう話す公爵の目には、悪戯いたずらを仕掛けて喜ぶ、たちの悪い輝きが見て取れた。


「だから思うんだよね。君の行動範囲を制限しておいてよかったって。おかげで公爵夫人であるロベリアの顔を知っているのは、信頼できる使用人たちだけだからね。君がアネモネと名告っても、支障はないだろう?」


 わたしの顔、そしてアネモネという本名自体、知る者は限られていて。名告るぶんには公爵の言うとおり、支障はないと思うけれど。

 ヴェントスの婚約者として紹介してしまって、公爵はよかったのかしら。広く知られているだけでなく、ヴェントスは大切な名でもあるようなのに。


 いいえ、それよりも。


「見張られていると感じたのは、気のせいではなかったのですね」

「ニーナやエルマは、最初から君に好印象を抱いていたようだよ。それだけは信じてあげて」


 否定するでもなく使用人を擁護した公爵は、続けて理解に苦しむ台詞を口にする。


「あとさ、アネモネをヴェントスの婚約者だと紹介したのは単なる独占欲だから。公爵夫人だと紹介するのは、もどかしいからね」

「……意味が、わかりません」


 独占欲という言葉自体、よく理解できないのだけれど。アネモネでも公爵夫人でも、わたしであることには変わりないのに。本当に意味がわからない。


「じゃあ、別の表現をしようか?」

「……お願いします」


 意味がわからないと伝えただけで、とくに説明を求めたわけではなかったのだけれど。なぜだか嬉しそうにたずねられたので、わたしは思わず頷いていた。


「いいかい? アネモネとヴェントス、しかも婚約者なら、人前でも堂々と一緒にいられるだろう?」

「……もっと、意味がわかりません」


 今度はちゃんと意味もわかっていたし、にやけそうなくらい嬉しかったのに。わたしは本心を伝えられず、顔を背けてしまう。

 そこにぽつりと、重い声が落ちる。


「不愉快だ」


 派手な音を響かせ席を立ったのはシエロだった。

 言葉どおりに、しかめた顔を公爵とわたしに見せたあと。呼び止めるまもなく談話室を出ていってしまい——。

 わたしはようやく、シエロの存在を思い出していた。


「彼——、最近は空気だよね」


 この人はまた、さらりと酷い台詞を……。


 存在を忘れていた自分の勝手は過去へと置き去りにし、公爵に対してはそのような感想を抱いていたところ。

 シエロの姿が扉の向こうに消えたあと、わたしへと視線を戻した公爵から、琥珀色の双眸でじっと見つめられる。


 そこでわたしは、公爵が口にした酷い台詞に賛同したくなる。シエロは本当に、空気なのかもしれない。だって、いなくなった途端に、こんなにも息苦しく感じるのだもの。

 それを察してか、公爵が苦笑を浮かべる。


「俺ばかり、君に望みを押しつけてしまっているね……。だけど、こうやって君と過ごす時間が、いまの俺にはなによりも大切に思えるんだ」


 それは少なからず、わたしの胸のうちにも居座っている感情で。


「俺の我儘わがままに巻き込んでしまって、すまない」


 最後にそうつけ足した公爵だけれど。微笑みのおまけつきだったから。やはり、露ほども悪いとは感じていないのだろう。

 おそらく、嬉しさから頬を染めたわたしに気づいていたのだと思う。


 王と謁見する日が、永遠に巡ってこなければいいのに。

 問題を先延ばしにしている自覚があるからこそ、密かに、願わずにはいられなかった。


 明日には王都へ向け、リベルタス領を出立することが決まっていて。

 期日はもうそこまで、迫っていたから。






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