迫られる選択



 ひとりで迎える朝に変化があったのは、魔女が帰ってきた翌日のことだった。


「アネモネさま、起床のお時間です」


 それは久しく聞いていなかった声だったから。郷愁を感じたわたしは、住み慣れた我が家でもあった神殿を、まぶたの裏に思い描いていた。


 たくさんの修道女が暮らす神殿において、わたしは奥殿に住まうことが許される選ばれた者たち——王の花のひとりで。生まれてまもなく胡蝶候補として見いだされたわたしは、王の花のなかでも特別に扱われていた。


 神殿の外に広がる世界のことを書物や教師からの話でしか知らない以外は、貴族の娘たちと同等の暮らしが約束されていて。それには一生という保障がついていたわけではないけれど。

 大きな不満もなく、疑問すら抱かず、退屈さえも感じなかったのは、たとえ平穏な日々が終わりを告げたとしても、それがわたしの運命だと受け入れていたからだと思う。


 いまもそれは変わらず、自分が果たすべき役割も心得ている。そのために、わたしは育てられてきたのだから。


 ああ、また……。自分に言い聞かせていた。


 そう気づいた途端、涙腺が緩みそうになる。起き上がる気力も持てず、だらだらと寝返りを打ち、俯せになって枕に顔をうずめる。

 そこにふたたび、懐かしくすら思える声が届いた。


「夢でもご覧になっているのですか?」


 そう、これは夢で。目が覚めたら神殿の自室にいて。いまのようにソフィアが、優しくたずねてくれたらいいのに。

 けれど、幻聴まで聞こえてくるなんて。ソフィアを求める気持ちが募りすぎているのかもしれない。


「……ソフィア。いま、どこにいるのですか」


 枕に顔をうずめたまま、もごもごと呟いてしまう。


「わたくしなら、ここにおります。寝惚ねぼけるのもたいがいになさらないと、簀巻すまきにして冷たい海の底に沈めますよ」


 これは——。まさか、幻聴じゃ……ない?


「お目覚めですか? アネモネさま」


 顔を上げ、視線を向けたさきでは、見間違うはずのないソフィアが、わたしを見下ろしていて。


「わたくしがおそばを離れていたあいだに、ずいぶんと怠惰になられたようですね」

「——ソフィアっ!」


 引き離されるまえと変わらない凜とした口調のソフィアに、わたしは飛び起きた勢いのまま抱きついていた。


「遅くなってしまい、申し訳ありません」


 耳もとで謝られ、夢ではないことを、もう一度ソフィアの顔を見て確認する。

 わずかに精彩を欠く微笑みからは、疲れを感じはしたけれど。とくにやつれていたりとか、暴力を振るわれた様子はなくて……。


 気が抜けるに任せ、ベッドの上に座り込んだあと。わたしはふるふると首を横に振った。


「無事でなによりです。いままで、どこでどうしていたのですか?」


 そう質問した途端、ソフィアは不機嫌な表情を見せた。


「ジュラーレにあるフィーニ家の邸宅にて、下働きを強要されておりました。しかも実質あれは、軟禁でしたね」

「軟禁——。シエロの住まいに……ですか? あっ、ソフィアは、公爵とシエロが入れ替わっていたことは知っていますかっ?」


 重ねての質問に、ソフィアが頷く。


「昨夜、フィーニ家を訪ねてきた公爵本人から、直接、これまでの経緯の説明と、謝罪を受けました」

「……公爵が?」

「はい。ですが謝罪は上辺だけで、裏があるに決まっています。下働きの合間に、この国の現状について、ルカからさんざん講説を賜ったのですけれど。わたくしたちを取り込もうとしているにしても、まるで違う国の話を聞かされているようでしたし」


 その話とはおもに、王都が困窮している理由についてで。わたしが公爵から聞いたものと同じ内容だったらしく、ソフィアは呆れた様子で溜息をついていた。


「リベルタス領の返還命令など、通達すら受けていないのだとか」

「そのようなことが……あるのですか?」


 わたしの問いに、ソフィアはわかりませんと首を振る。


「軟禁されていたのがフィーニ家ということもあり、王弟についても聞いたのですが。王弟は現在、外交官としてブランに派遣されているというのです。王が望まれたのは国外追放。なのに派遣が真実ならば、王命を軽んじている証拠です。首謀者がいるとすれば、おおかた宰相に違いないのでしょうけれど」

「宰相……。ヴァルフレッド・ベルトーニ、ミネルヴァの父親……ですね」

「はい。当時、すでに宰相はヴァルフレッドでしたから。王弟が受けた処罰については、宰相が王に嘘をお伝えした可能性が考えられます。きっと都合のいいように、事実を捩じ曲げたのでしょう」


 気のせい、かしら。非難の色を滲ませながらも、ソフィアの言葉には迷いが見え隠れしているようにも感じた。それはとても珍しいことで。


「あの……ソフィア。王が王弟のレオパルドに対して、お怒りになった理由に関すると思われる記憶なら、公爵の夢を介して見たのですが」


 そこで、レオパルドが魔女と公爵を王宮から連れ出そうとしていたことを伝える。


「力及ばず、連れ出そうとした理由までは読めなかったのですが……」

「感心です。わたくしがおそばを離れていても、お務めを果たされていたのですね」


 ひとまずは、称讃の微笑みを見せてくれたソフィアだけれど。話題の選択を間違ったかもしれない。続けて容赦なく、ソフィアは事の進捗具合をたずねてくる。


「ところでアネモネさま。いまお伺いした夢を渡られたあとも、公爵とは良好な関係を築けているのですか? というよりこの状況——。まさか婚儀まで執り行っておきながら、進展なしとは仰いませんよね」

「その……まさかです」

「——あの男。どういうつもりかしら」


 憤りの矛先を公爵に向けたソフィアに、わたしは力なく苦笑するしかなかった。


「警戒しているとかそれ以前に、異性として見られていないのかもしれません」


 自虐的な言葉を口にしつつ、慰めを期待したのだけれど。こちらも求める相手を間違ってしまったらしく。


「それは、おおいに考えられますね」


 見事にとどめを刺される。


「……そうなると、望みは薄いですよね」


 へこみついでに弱音まで吐いてしまう。けれど、ソフィアは強気な姿勢を見せた。


「いいえ、結論を出されるのはまだ早いです。一度でも公爵の記憶に触れられたのでしょう? でしたら公爵に近づける機会が残されている限り、諦めるべきではないと思います。夢渡の力で——というのが王のお考えでもありますし、せめてものお慈悲なのでしょう」

「そう……ですね」


 意識せず、覇気のない返答をしてしまったためだと思う。ソフィアから怪訝な顔を向けられる。


「どうかされましたか?」


 王が傀儡と化している。魔女から告げられた、真偽が不確かな話だけれど。ソフィアも聞かされたのかしら。

 気にはなっても、その疑問を口にすることに躊躇いを感じる。

 それは、公爵に対して抱いてしまった想いを誤魔化すため、問題をすり替えようとしている自覚が少なからずあったからで。


 夢渡ではないけれど、ソフィアもわたしと同じ、選ばれた王の花。その事実は、ソフィアが協力者であると同時に監視者でもあるのだと、わたしに思い出させる。


 気づけば、わたしはソフィアに笑顔を向けていた。


「大丈夫です。少し自信を無くしかけていただけで、わたしの役目は心得ていますから」


 この言葉だけでソフィアが納得してくれるのか、難しいところだと思ったけれど。


「アネモネさま——。公爵は、あなたが想い悩まれるのに値するほど、眠りをいざなうには惜しい人物なのですか?」


 本当に、なんと答えればいいの。

 やはりソフィアには、追及の言葉すらないまま見抜かれていたらしく。うしろめたさを感じたわたしは、ソフィアの視線から逃れるように俯いていた。


「ソフィアに、隠しごとは……できませんね」

「感情がぽろぽろと表に出てしまわれるアネモネさまが公爵に好意を抱かれることは、むしろ有益な情況を生むのではないかと思います。ですがこれだけはお忘れなきよう。公爵は夢渡であるあなたを、利用しようとしているに過ぎません」


 このときソフィアが口にしたのは、わたしの想いを肯定しながらも否定する、苦い忠告だった。






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