望めない未来



 ティーカップに半分ほど残っていた紅茶も、すっかり冷めてしまったようで。手にしていた刺しかけの刺繍をテーブルの上に置き、わたしは小さな溜息をついた。


 目のまえで揺れる蝋燭の炎を、ぼんやりと眺める。


 蝋燭の明かりでは手もとが狂い、翌朝あらためて見てみれば、出来の悪さに放り投げたくなるのはわかっていたけれど。それでも少しは気が紛れるかと、刺繍を始めてみたのに。

 なにをしていても、頭に浮かぶのは公爵のこと。

 リベルタス領入りするまえは、時が過ぎるのも忘れるほど没頭できていた刺繍でさえ、まったく手につかないものだから。


「今日はもう、お休みになりますか?」


 カップを下げようとしていたソフィアから、苦笑混じりに気遣われる。


「……そうします」


 頷きながら、あまりの進展のなさに情けなさが募る。かといって取れる行動など皆無に等しく、あるかないかの好機をただ待つことしかできなくて。

 けれど変化が、ないわけでもないから。


 もう、惑わされたくないのに。


 もともと魔女つきの侍女だったニーナは本来の仕事場へと戻り、代わりに、わたしのもとにはソフィアが帰ってきて。それはとても嬉しく思っているし、この処遇は公爵が約束を果たしてくれた結果に違いなくて。

 誠意として受け取れば、いっそう使命感を揺るがせる要因となってしまう。


 それ以前に今日は、公爵と顔を合わせるひとときさえないまま、夜も更けていこうとしていて。また、ひとり寝の夜を過ごすのかと、失意と安堵の狭間で、性懲りもなくやきもきしていたのが実情なのだけれど。


 それは、テーブルの上を片づけ終えたソフィアが部屋から出ていこうとしたときだった。


「ようやく、シエロから解放されたよ」


 前触れもなくやってきた公爵が、ソフィアの退出を待ち、そのような倦怠感溢れる台詞を声にしたのは。

 椅子から立ち上がり出迎えると、わたしのそばまで来た公爵は、疲れた様子で額に手を当てていた。


「毎晩のように俺の私室まで押しかけてくるんだ。いいかげん参った」

「毎晩——。あの、今日も……ですか?」

「ああ。だから眠らせてきた」


 このまえの仕返し。そう笑顔でつけ足した公爵に、どうやって眠らせたのか聞くのは、きっと愚問で。目覚めたときのシエロの憤慨ぶりが目に浮かびはしたけれど。公爵にとってはさほど問題ではないのかもしれない。


「また一杯盛られでもして、君との時間を邪魔されるのはご免だからね」


 じっと見つめられ、公爵がなにを言いたいのか察する。


「……わたくしでは、ルクスさまのお相手は務まらないのかと思っておりました」


 そう口にすると、公爵はわずかに目を瞠り、さきほど以上にわたしの顔を見つめていた。

 愚痴のように聞こえてしまったかしら。もしかすると意味を履き違えて、あさっての返答をしてしまったのかもしれない。そのように心配していたのだけれど。


「そこまで思い悩ませてしまうなんて、ちゃんと言葉にしておくべきだったかな」


 両手で包み込むようにして、公爵はわたしの頬に触れていた。

 まっすぐな視線を間近で受け止め、気恥ずかしさから頬が熱を持ち始める。そのせいか、公爵の手は思いのほか冷たく感じられ——。

 かといって、それで心構えをする余裕が生まれるわけでもなく。


「君は充分、魅力的だよ」


 耳に落ちてきた言葉に、熱は奪われるどころか上昇する。


 もう公爵に女性の影はなく、そのことで思い煩わずに済むようになったからかもしれない。どんなに閉め出そうとしても、胸には期待がじわじわと溢れ出す。

 けれど忘れてはいけない。公爵とともに歩く未来は望めないという現実を。


 それに、これは睦言むつごとに過ぎない。雰囲気づくりのためであって、お世辞と同じ。ねやで男性が囁く言葉は絶対に信じてはならないと、さんざん注意されたもの。

 そう自分に言い含め、舞い上がる心をいっしんに抑えようとしていたというのに。どういう了見からなのか。公爵はわたしの両の頬を、ふにっとつまんでくれた。


 思わず、公爵を睨んでしまう。


「——ルクスさま?」


 むっとしたまま名を呼ぶと、公爵はすぐに手を離してくれたのだけれど。まだ、わたしの顔を覗き込んだままで。そこには苦しげにも見える琥珀色の双眸があって。


「君はいつになったら、俺を見てくれるの?」


 そう零した公爵の声音は、怒っているようにも聞こえた。


「言っておくけど。俺が欲しいのは、君の心だから」


 わたくしの心はすでに、ルクスさまとともにあります。適当にでもそう口にすればいいだけなのに。

 公爵から目を逸らせないまま即答できずにいると、ぽんと頭に手を置かれる。

 微笑んだ公爵の表情は、気が抜けるほどいつもと変わらなかった。


「一日に一度は君の顔を見るという目標は果たせたし。今日はもう遅いから、自室に戻るよ」

「……あの」


 本当に顔を見に来ただけなのかしら。言葉どおり部屋から出ていこうとした公爵を、わたしは遠慮がちに呼び止めていた。

 応じて振り返った公爵と目が合った途端、口が勝手に言葉を紡ぐ。


「わたくしは……っ、ルクスさまの胡蝶にはなれません!」


 自分でも、さすがにこれは不必要な発言だとわかっていた。けれど優しい眼差しをまえにして、黙っていることができなくて。


 わたしとなら上手くやっていけると、夢渡だと承知のうえで、わたしを選んだのだと、公爵は言ってくれたけれど。

 それらすべて、出任せだったのだと簡単に思えたらいいのに。






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