アネモネの花



「……モネ!」


 違う。気のせいでは……ない?


「アネモネ。聞こえているのか? 落ち着いて、俺を見るんだ」


 言われるままに顔を上げると、目のまえには、悲痛にも感じる真剣な双眸があった。


「……ルクス……さま?」

「そうだよ」


 返事をしたわたしを見て、深く、公爵が安堵の息をつく。


 夢を渡っているあいだに夜が明けたようで。まだ薄闇は残っていたけれど、公爵の表情がありありと見て取れ、視線が結ばれたそのときには、わたしは抵抗するのをやめていた。

 わたしの肩を引き寄せたのが公爵だと、ようやく気づいたから。


「わたくしは……勘違いを——っ」

「俺の記憶に、深く潜るからだ」


 その言葉で、確信するしかなかった。公爵はやはり、知っていたのだと。


 カネレ伯爵の懐柔は、ほかの者の仕事だった。

 それは上手くいき、ディアーナがドレスの採寸にやってきたときには、わたしはすんなりと伯爵家に入り込んでいた。カネレ伯爵の遠縁に当たる、ロベリアという実在する少女に成り代わることで。


 けれど初めから疑われていたのは明白。根回しが完璧ではなかったのかもしれない。

 なのに公爵は、躊躇いも見せず、わたしに手を差し伸べてくれた。王家に名を連ねる彼は、王の花——とくに夢渡と呼ばれる異能者を熟知しているはずなのに。


「なぜ……ですか? なぜわたくしを、正妻として迎え入れたのですか?」

「君となら、上手くやっていけると思ったからだよ」


 まだ、肩に手を置かれたままではあったけれど。公爵の口調は穏やかで、腕の力も緩んでいて。


「わたくしの、本当の名も……?」

「知ってる」


 夢を覗かれてもなお、公爵はわたしに、優しい微笑みをくれた。


「本当の名といえば、あれだね。中庭で君がくれた返事は、元気だったよね」


 笑い混じりの台詞に、咲いていたアネモネの花をまえに、彼と交わした会話を思い出す。足音を忍ばせやってきた彼が、ただひとこと、『アネモネ』と口にしたときのことを。


「あっ……あれは……っ! その……。やはり……故意にだったのですね」


 だんだんと声を小さくしたわたしに、笑いを収めた公爵の視線が注がれる。


「真実を言うと、君を実際に目にするまでは、君との結婚をどう回避するか、俺はずっと悩んでいたんだ。親密な関係など、築くつもりもなかった」

「……わたくしが王の花——それも夢渡だったから……ですか?」


 警戒されて当然だと、わかっていても。胸に走った鈍い痛みに、たずねた声が震えた。


「聞くまでもない……、質問でしたね」

「そうだね、俺は最初から、君が夢渡だと知っていた。だからシエロと入れ替わっていたことも、すぐにばれて構わないと思っていた。疑われていると感じれば、君の行動も少なからず慎重になるだろうと考えたからだ」


 だけど——。と、そこでまた、公爵は笑みを見せた。


「アネモネの花のまえで見せてくれた君の反応が、最高の決め手になった」


 そしてわたしは、つぎに囁かれた誘惑に逆らえなくなる。


「君が夢渡だと承知のうえで、俺は君を選んだんだ。だから逃げようとするな。いいね」


 いつにも増して異論を許さない言葉だったけれど。わたしが頷いてみせると、公爵は気が抜けたようにベッドへと倒れ込んでいた。


 そしてそれも、一瞬の出来事。


 不意打ちで腕が引かれ、なにが起こったのかわからないまま、わたしも公爵と一緒に横になっていた。というよりこれは——、向かい合って抱き止められている……のでは。

 遅れてわたしは、自分の置かれた状況を把握する。直後、公爵を下敷きにしている焦りから、すぐに体を起こしたのだけれど。

 間近に見えた公爵の笑顔が、これ以上距離を開けることを許さなかった。


「逃げないって、しっかりと頷いたよね」


 その言葉で、退路を断たれる。

 おいで、と伸ばされた公爵の腕を枕にし、躊躇いながらも、あらためて横になる。公爵の胸におずおずと頬を寄せると、彼の手が、わたしの髪を優しく撫でた。


「疑いもせず俺とルカ、男ふたりに連れられ、崖っぷちまでついてくるし。昨夜は昨夜で、睡眠薬入りのお茶を、君は勧められるままに飲み干してしまっただろう? 王の花として大丈夫なのかと、逆に心配してしまったけど……。油断させられたよ」


 確かに、崖っぷちまでついていった行動は、自分でも無警戒すぎたと思う。でも、とりあえず脇に置いておくとして。それよりも、まずは——。


「……睡眠薬、ですか?」

「ああ、間違いなく彼の差し金だよ」

「彼とは……、シエロのことですか?」

「ほかに誰がいるの?」


 ふっと、公爵は呆れたように笑っていた。


「まあ、結婚を渋っていた俺が、母を待たずに予定どおり婚儀を進めてしまったから。俺が君に操られている可能性を提示するなりして、さんざん不安を煽ったうえで、エルマを抱き込んだんだろうけど」

「……ですが、ルクスさまもお飲みになっていましたよね?」

「うん、そこがエルマなんだよ。安眠効果があるだけの、軽いものを選んでくれたようだね。しかも飲み慣れている俺には効かない。君は慣れない生活で疲れてもいたんだろうね。相乗して強い効果が出てしまったようだけど……。薬自体には味も香りもないから、情けないけど、俺も気づけなかった」


 そこでまた、わたしの髪に公爵の手が触れる。そのたびに、心臓が止まりそうになるのだけれど。自分の身がどのような状況下に置かれているのか、のぼせた頭ではますます見極めがつかなくて。


「……なぜ、わたくしを置いて自室に戻られなかったのですか?」

「シエロの思惑どおりに動くのはつまらないしね。それに、せっかくだし、君の寝顔を少しでも長く見ていたかったから」

「そんなに……見ていて面白い顔を、わたくしはしていたのでしょうか」

「いや——。うん、まあ、そういうことにしておいてもいいよ」


 くすくすと笑う公爵から、わたしは上体を起こして離れる。ベッドに両手を突いて、公爵の顔を覗き込んだ。


「違うのでしたら……よくありませんっ!」


 そう抗議してはみたものの、睨んださきにあった琥珀色の双眸は真剣で。そこはかとなく、怖さを感じる。

 そしてつぎに問われた内容で、公爵がなにを考えていたのか、わたしは思い知らされる。


「ねえ、アネモネ。王は俺を、なんでも言うことを聞く傀儡かいらいに仕立て上げろとでも命じたの? それとも手っ取り早く、命を捧げさせろと?」


 わたしはその問いに、返答できなかった。


「いいよ、無理に答えなくても。俺はどちらにも、乗る気はないから」


 本当に追及するつもりはないらしく、公爵は静かに目を閉じていた。


「……ルクスさま?」


 呼びかけると、公爵がわずかに微笑む。


「君が夢渡だからかな。君といると、俺は悪夢を見ずに眠れるらしい」

「それは……思い違いです。わたくしは悪夢を払ったりなど、していま——っ」


 不意に手を握られ、思わず身構える。けれど公爵の手に力はなくて。


「……あの、ルクスさま?」

「起きるには、まだ早い……君も……」


 途切れとぎれに呟かれた言葉を、最後まではっきりと聞き取ることはできなかった。


「まさか……。眠ってしまわれたのですか?」


 話しかけても反応のない公爵の様子に、わたしはあっというまに気が抜ける。おかげで眠る公爵の傍らに座ったまま、途方に暮れるしかなかった。


 いましがた、夢を覗かれたばかりだというのに。なぜ公爵は、こうしてそばに置いてくれるのか。眠りに落ちてもなお、わたしの手を放さず掴んでいる公爵の真意を、夢渡の力をもってすれば知り得もするのでしょうけれど。


 目的を果たすためには気を許し合う関係にあることが必要で。しかもそれは、夢渡だと知られていない場合にしか通用しない。知られれば、その状況は一変する。

 夢を覗いているあいだ、夢渡は無防備になってしまうから。


 ただ、このときのわたしは、公爵の手の温もりをもっと感じていたくて。それを捨ててまで、ふたたび公爵の夢を覗く気にはなれなくて。繋がれた手が離れぬよう、そっと公爵に寄り添い横になる。眠る公爵の横顔を確認したあと、わたしも目を閉じていた。


 彼が警戒していないのならば、機会はこれからもある。焦る必要はない。

 そう、言いわけを繰り返しながら。






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