掠め見た深層



 眠気を払いきれないまま、うっすらと開けた目に映った部屋は、まだ薄暗く、夜明けまえのようだった。


 横向きに寝ていたわたしは、そこでふと、背後に人の気配を感じる。起き抜けということもあり、深く考えもせず、気になるままに寝返りを打った。途端、人の顔が間近に迫り、一気に目が覚める。


 一緒に寝ていたのが誰なのか。そして、ここがベッドの上であることをあらためて自覚し、込み上げた気恥ずかしさに、焦って上体を起こしていた。

 ただ、それはわたしひとりが慌てていただけで。


「ルクス……さま?」


 横になったままの相手に、小声で呼びかけてみたものの、反応はなく——。わたしの動揺などわずかも気づかずに、彼は熟睡しているようだった。


 けれど目のまえの人物は、間違いなくジュラーレ公爵本人。


 公爵は、わたしが眠ってしまったあとも自室へは戻らなかったようで。この状況からして、わたしは疑われてはいないと、判断してもいいのかしら。

 シエロとなにを口論していたのかも気になるし、新婚初夜としては、泣きじゃくったあげく、さきに寝てしまうという、ありえなくて情けない結果を残してしまったようだけれど。


 待ち望んでいたそのときが、ついに訪れたのだ。そう思ったわたしは、高揚と未練を同時に感じていて。


 だからこそ、未練を断ち切るための正解を求めたわたしの指先は、惹き寄せられるように公爵の肩に触れていた。






   ******






 夢を渡り始めてまもなく。また、崖の上で覗き見た、あの少女の記憶に辿り着く。


 やはり、これが公爵の願望に繋がる記憶なのかしら。

 確かに、いますぐ叶えたい願望ほど表層にあり、容易く触れることができたりするけれど。このような秘密めいた記憶は、やすやすと覗き見られるものではないと思うし。


 それに気のせいか、少女の記憶に行く手を阻まれているようにも感じ、違和を覚える。けれど違和に関しては、触れるのを、わたし自身が躊躇っているだけかもしれない。


 大役を果たすためにも、もっと詳細に記憶を探る必要があるのに——。

 願望を正確に把握してこそ、心の奥深くまでくさびを打ち込めるような夢が見せられるのだから。


 わたしは目的だけに集中し、さらに深層を目指して進む。すると壁を越えたのか、ふとした瞬間に抵抗が消え去り、その反動で、公爵の記憶が一気に押し寄せてきた。

 なにも掴めないまま、見渡す限り真っ白な世界に放り出される。


 上も下もない、眩しいくらいに白い世界。だから見落としてしまいそうだったけれど。光が溢れたこの世界にも、染みのように、闇はぽつりと存在していた。

 きっと足がかりに違いないと、ひと息に、その闇へと手を伸ばしたのが正解だったのか。触れた途端、周囲には見覚えのある情景が広がっていた。


 崖の上ではない。

 円柱の並ぶ、古めかしい石造りの通路ではあるけれど。高い位置に設けられた窓からは淡い光が射し込み、足もとに落ちる円柱の影も柔らかくて。通路は厳かで静謐な空気に満たされていた。


 ここはおそらく、王宮の中心。通された経験があるので間違いない。


 どうやら公爵がまだ、王宮に暮らしていたころ——。ジュラーレ公爵の称号を授けられるまえの記憶のようで。

 誰かに手を引かれるまま、公爵は通路を進んでいた。


 そこに平穏を切り裂く、尖った声が反響する。


『どこへ行くつもりだ』


 真正面から投げられた男性の詰問に、わたしの——いいえ、公爵の手を握っていた女性が、びくりと肩を震わせる。


 事の成り行きは把握できないまでも、女性の動揺を感じ取った公爵は、立ち塞がった男性を、ただ、ひたすらに見据えていた。

 そして、手を繋いでいる女性が公爵の母親、ミネルヴァであると、公爵の意識に入り込んでいたわたしは難なく理解する。


 そこに再度、男性が詰問を投げてくる。


『どこへ行くつもりだと聞いている。答えろ、ミネルヴァ』


 常と比べ、男性はずいぶんと冷静さを欠いているようだった。優しい雰囲気の外見とは裏腹に、男性の表情には苛立ちが色濃く落ちている。

 けれど、間違えようがない。男性の面立ちは公爵とよく似ていて——。褐色の髪と琥珀色の双眸を持つ男性は、レオーネ王、そのかただった。


 わたしがそれを認識すると同時に、公爵の心を不安と恐れが侵食していく。それは等しく、わたしの心をも侵し始めた。

 そのとき。流れ始めた不穏な空気を払う、王とは別の男性の声がミネルヴァ越しに聞こえてくる。


『ルクス。さきに行って待っていなさい』


 ミネルヴァの隣にいるらしい、頼もしく感じる声の主から、この場から去るよう促される。

 けれど、なにが理由になっているのか。公爵は、いっときでも王から目を離してはいけないという危機感を持っていて。男性の言葉に従いそうになるのを必死にこらえ、王を警戒し続けていた。


 それでも自分ひとりではどうにもならない現実を、公爵は知っていたのかもしれない。


『……叔父上』


 王に目を向けたまま零れ落ちたその声は、不安で掠れていた。


 ただ、呼びかけた相手が問題だった。まさかとは思っていたけれど。叔父上というからには、男性はあの大罪人——、王弟レオパルドに違いない。


『心配は要りません。君の母上を連れて、すぐに追いつきますから』


 ふたたび、レオパルドから優しく促される。それでも公爵は、さきへ進もうとしなかった。

 かけられた言葉を疑っているわけではない。ミネルヴァが公爵の手を握ったまま、この場に縫い止められ、一歩も動けずにいたのが一番の理由で。


 なぜ、王とミネルヴァが、このように険悪な対立をしているのか、いまだに見えてこないけれど。母をこれ以上、悲しませたくないという公爵の想いは、もっとも強く、明確に感じ取れた。


 そして公爵が見据える相手、王の双眸に宿っているのは疑惑の炎。それを王は、今度はレオパルドに対しお向けになった。


『お前もミネルヴァにたぶらかされたか。いや、とうの昔に隷属させられていたのだったな』

『——兄上。またその話ですか。何度否定すれば、納得していただけるのです』

『納得? ならば説明してみろ。お前がなぜ、いまこのとき、俺からミネルヴァを奪おうとしているのかをな!』


 きっと皆が警戒していながら、誰ひとりとして王の行動を止められなかった。怒声とともに王から殴られたレオパルドは、つぎの瞬間には床に倒れ伏していた。

 さらに王は、幼い公爵の目のまえでレオパルドに掴みかかり、続けざまに殴りつけようとなさった。


 けれど、王が拳を振りおろされる寸前。


『いけません、父上っ!』


 体を張って抱きついた公爵が、王の暴挙を阻止していた。

 それなのに——。


『邪魔をするなっ!』


 相手は子供で、実子でもあるはずなのに。手加減なく王から肩を掴まれた公爵は、あっけなく引き剥がされそうになる。

 けれど肩に感じた痛みに顔をしかめながらも、公爵は引き下がらなかった。


『……もう、おやめください!』


 なおも抵抗を試みるも、やはり幼い公爵の力では王を押しとどめられず。


『お願いします、父上っ!』


 心からの懇願にも、王の冷徹な双眸に慈悲は宿らなかった。それどころか、ぐっと引き寄せられ——。

 いいえ、違う。公爵はまだ諦めようとせず、王に抱きついたままなのに。


 引き寄せられた感覚は、誰のもの?


『お願いですから、お放しください!』


 無情な王をまえに、恐怖し、解放を願っているのは誰——?


 このときすでに、公爵の記憶にはぶれが生じていて。


「どうか……お放しくださいっ」


 ——ああ。解放を願っているのは、わたしの声ではないか。そうだと悟った瞬間、誰かに名を呼ばれたような気がした。


 わたしの、本当の名を。






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