零れ落ちた涙
「はい、君はこっちに座って」
優しく微笑んだ公爵は、手ずから椅子を引き、席に着くようわたしを促した。
燭台に灯る暖かな光に満たされたここは、与えられたとはいえ、わたしの部屋だというのに。当然といえばそうなのでしょうけれど、公爵の行動には遠慮がなくて。
さきほどまではニーナもいたのだけれど、公爵が下がるよう命じたため、必然的にふたりきりになっていた。
さすがのシエロも諦めたようで、婚儀のあいだもことのほか静かだったし、もちろんこの場にもいなかった。
それから公爵もわたしも、身につけている服が普段とは違う、ゆったりとした
椅子に座ったいまも緊張の解けないわたしは、公爵と目を合わせられずにいた。
彷徨って辿り着いた視線のさき、丸テーブルの上には、ニーナが運んできてくれたばかりの白磁のティーセットが並んでいて。給仕さながら、ポットを持ち上げたのは公爵だった。
カップに注がれる紅茶から、薔薇の香りがふわりと広がる。
入浴のとき、バスタブにも薔薇の花びらが入れられていたし。
薔薇はもうたくさん。
薔薇づくしの一日に、最初はそう思ったのだけれど。
給仕を終え、正面の席に座った公爵が、どうぞ、という顔で待っているから。仕方なくカップに口をつけてみれば、紅茶には、ほのかな甘みがあって。
やんわりと緊張を和らげてくれた。
そこでようやく公爵もひと口、紅茶を飲んだのだけれど。カップをソーサーの上に戻すと、行儀悪くテーブルに頬杖をつき、わたしを見ていた。
「さて。俺のそばに置いてくれという君の望みは、これで叶ったわけだけど。君はつぎに、なにを望む?」
「つぎに……ですか?」
「君にもあるよね? 好きなものや手に入れたいもの。たとえば、ほら。綺麗な花だったり、フリルたっぷりのドレスだったり」
誰かを思い出しながら、公爵は例を挙げているように見えた。
あの少女以外、心当たりはないのだけれど。彼女への想いを胸に秘めながら、公爵はどのような心境でわたしといるのかしら。
また、知ったところで毒にしかならない公爵の想いをつらつらと考えていたわたしに、再度、公爵が問う。
「君には、ない?」
「……すぐには、思いつきません」
「思いつかないのなら、これからゆっくり探すといい」
「わたくしの望みをおたずねになって、ルクスさまはどうなさるおつもりなのですか?」
「可能な限り、叶えてあげたいと思っているよ」
公爵のこの甘さが、彼の母親にも向けられているのかもしれない。そう思うと、わたしは我慢ならなかった。
「それが、国を傾けてしまうような望みでも、ですか?」
「そんな無茶なお願いをするつもりなの?」
興味津々といった表情で問い返され、慌てて首を横に振る。
「とんでもありません! たとえそのような望みができたとしても……。わたくしは、けして言葉にいたしません」
「そう? 言葉にするだけなら、罪にはならないと思うけど?」
「不謹慎です」
「さきに例を挙げたのは君じゃないか」
もう忘れたの? そう言った公爵の口調は呆れていて。お決まりの笑顔がついてくるところには、さすがに腹立たしさを感じる。
基本は紳士的なのだけれど、よくよく思い返さなくとも、シエロと名告っていたときから、公爵は歯に衣着せぬ物言いをしていた。
それは性格までは偽っていなかったのだという証明にならないかしら。
けれど、わたしはすぐに自嘲する。その証明が免罪に繋がるわけでもないのに。
「……なぜ、わたくしの望みを叶えようとしてくださるのですか?」
「君の笑顔が見たいから。それ以外に理由なんて必要かな」
ああ、また……。この表情。
わたしを仲立ちに、カネレ伯爵との関係を良好に保つためだとしても。こんなにも優しい微笑みなど、わたしに向ける必要はないのに。
視線が絡むだけで、呼吸が止まるほど胸が苦しくて……。彼への想いは喉の奥につかえたまま、真実だからこそ吐き出せなくて……。
ぎゅっと口を噤み、息苦しさに耐えていると、言葉の代わりといわんばかりに、ひと粒の雫が、握りしめた手の甲へと落ちていった。
それはわたしの目から零れた涙で……。ここで泣くわけにはいかないのに。
そう思っても、一度溢れてしまった涙を止める方法など知らなくて。
「どうして、泣いているの?」
伝えられない想いが溢れ、零れた涙だから。まっすぐに向けられる公爵の視線から、わたしは逃れるように俯くしかなかった。
「……すみ……ません……っ」
「謝らなくていい。泣きたいのなら、我慢なんてしなくていいから」
公爵の声音は穏やかで、惑う心を優しく包んだ。けれどそれがまた、いちだんと胸を重くする。
「好きなもの、やりたいことでもいいな。なにかひとつでもできたなら、俺にも教えて」
目のまえに、白いレースハンカチが差し出される。
そのあと公爵は無言で、涙が止まるまで待っていてくれた。
どれほどの時間、わたしはそうしていたのかしら。
受け取ったハンカチがぐしゃぐしゃになってしまうほど、子供のように泣きじゃくってしまったから。ハンカチで目を覆いながらも、正気に戻ったいま、情けなさと恥ずかしさが頭を駆け巡っている状態で。
その片隅で、どうして公爵がこんなハンカチを持っているのか、準備のよさがまた、いらぬ疑いを生みそうにもなっていて。
再度、公爵から泣いた理由を問いつめられれば、上手く誤魔化せる自信もなかったわたしは、俯いたまま顔を上げられずにいた。
けれど、それを公爵が見過ごしてくれるはずもなく。
「落ちついた?」
ちょうど、そうたずねられたところだった。目眩を覚えるように、じわりと眠気が襲ってくる。
慣れないことが続いて、疲れが溜まっているのかしら。
そう思いつつ、いつまでも、ぐじぐじしているわけにはいかないと観念し、落ち着きましたと返事をしたまではよかったのだけれど。
いつのまに席を立ったのか、公爵の声が真横から聞こえてくる。
「立てる?」
なかば無意識に、こくりと頷き、差し出された手を取り、立ち上がりはしたものの。
足もとをふらつかせたわたしは、そのまま公爵の腕に縋りつきそうになる。
どうにか踏みとどまるも、今度は公爵自ら、わたしが距離を置こうとするのを引き止める。
「無理はしないで、俺に掴まって」
肩を抱かれ、わたしは結果的に、公爵の胸に体を預けていた。
躊躇いを感じながら顔を上げると、公爵もこちらを見ていて。無言のまま、間近で視線を交わしたそのとき。遠慮がちなノックの音が耳に届く。
「失礼いたします。シエロさまが取り急ぎお話ししたいことがあると」
扉越しにそう告げたのは、ニーナだった。
「……やけに大人しくしていると思ったら——」
珍しく苛立ちを孕んだ呟きに、なんのことだろうと思い、確かめたかったのだけれど。言葉も紡げないほどの眠気と倦怠感に、自分の意思ではもう、指先を動かすのも億劫で。瞼さえ、重くて上がらなかった。
そのような状態のわたしを、公爵はベッドまで連れてきてくれたらしく。
「横になってて」
言われるがままに体を動かすと、滑らかなシーツの感触が、ひやりと背に伝わる。逆に遠退いた公爵の温もりを名残惜しく感じていたところ。
わたしの前髪に、公爵の指先が軽く触れた。
「すまない……アネモネ。俺の不注意だ」
アネモネ——。
わたしをそう呼んだ公爵の声音は、なぜか苦しげで。呼び間違えられたこともあり、いっそう切なさが増す。
アネモネはあの少女が、娘ができたら名づけるのだと、笑顔で口にしていた名ではないか。それをいまになって思い出してしまったから。
偽名にまで使わせて……。しかもわたしには呼び間違えないでと言っておきながら、注意した本人が間違うだなんて酷すぎる。
いいえ。そのまえに……、あの公爵が、呼び間違えたりするものなのかしら。
睡魔に負けじと踏ん張りながらも、そんな取り留めのない思考が頭を回りだしたころ。遠くから、言い争いをする声が聞こえてくる。
口論をしているのは公爵と——、相手はシエロのよう。
詳細な内容まではわからなかったけれど。公爵が本気で怒っているのだけは伝わってきて。
「……勝手にしろっ!」
浅瀬を漂うような眠りのなか。
かろうじて聞き取れたのは、シエロが発した投げやりな怒声だけだった。
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