第3章

女神の贈り物



 静寂のなか、わたしが知る限り、婚儀の朝はつつがなく明けていた。

 けれど、思わぬところに伏兵はいるもので。新たに発生した困惑の波に、わたしは呑まれそうになっていた。このようなドレスを着ることになるなんて、少しも考えていなかったから。


 花嫁衣装が純白なのは、補正の段階でわかっていた。わたしとは無縁の代物だという、希望的観測が混じっていたのは否めないけれど。簡素な仕上がりになるものとばかり思っていたのに。

 デアサルトで見た薔薇のようなドレス。あれを実際に目にしたとき、感じた予感を信じておくべきだったのかもしれない。

 そうしていたら、もっと心構えもできていたはずだもの。


 ともあれ、わたしがこの花嫁衣装を着ないことには、いまから執り行われる予定の婚儀も始まらない。そうでなくとも、ニーナが着替えの準備を整え、待ち構えていたから。わたしに逃げ道はなかった。


 ただひとつ。

 狙ったかのように、というより間違いなく狙ったのだろうけれど。

 花嫁衣装を納品するため、婚儀が行われる当日の早朝、ぎりぎりになって城館を訪れ、手ずからわたしにドレスを着せたいと言い張っていたらしいディアーナを、公爵が閉め出してくれたのが救いといえばそうかもしれない。


 結果、自分で言うのもおこがましいけれど、姿見に映るわたしは、いい意味で別人に仕上がっていた。


 純白の花嫁衣装は、肩から腰までは体の線に沿うデザインで。腰から足もとにかけては、透け感と光沢のある薄絹がいくえにも重なり合い、ふわりと広がり落ちていた。裾は引くほどに長い。

 薄絹と薄絹のあいだには刺繍レースも差し入れられ、繊細で美しい金糸の薔薇が透けて見えた。


 この一度しか着ない衣装のために、いったい、いくら費やされたのか。考えると頭が痛くもなるけれど。

 正直に告白すると、動くたび、水が流れるように表情を変えるドレスに、わたしは心を奪われていた。


 公爵がやってきたのはちょうどそのとき。わたしをひと目見た公爵が、柔らかな微笑みを浮かべる。


「よく似合ってる」


 そう言ってくれた公爵も、白で統一された正装で。ベストに膝上丈の上衣ジュストコール、そして七分丈の脚衣キュロットまで。使われている生地は、すべて絹の繻子織り。

 それから上衣の前身頃とカフスには、花嫁衣装と揃いの金糸で、薔薇の縫い取りもあしらわれていた。


 公爵の普段の装いは、上品ではあるけれど飾り気のない服ばかりだったから。わたしはうっかり、王子さまのよう、という間の抜けた感想を持ってしまう。

 公爵は正真正銘、王子だというのに。

 わたしが着替え終わったのを聞きつけ、シエロを撒いて飛んできたというし。公爵から誉められて、悪い気はしないのだけれど。


 花嫁衣装を身に纏い、不覚にも浮かれてしまった自分には目を瞑り、わたしは口を開く。


「お身内だけの婚儀ですのに。なぜこのような贅沢を——」

「俺に見せるため。それじゃあ理由にならない?」

「なりません」


 偽りを告白された日から、公爵は打ち解けた話しかたをするようになった。時間が空いたときには、お茶や食事に誘ってくれたりもして。

 ただ、公爵には必ずと言っていいほど、不機嫌極まりない顔をしたシエロがつき従っていたけれど。


 ソフィアがいないことを除けば、表面上は平和な日々が続いていた。

 だからかもしれない。心は反するように穏やかさを損ない、公爵を身近に感じるほどに胸は締めつけられ、重苦しさも増していく。


 なのに。ドレスの仕上がり具合でも確認しているのかしら。じっと見つめてくる公爵の視線に、わたしはたまらず話題を変える。


「ミネルヴァさまは、やはりお戻りにならないのですか?」


 その質問は、公爵に困った顔をさせてしまう。


「ああ——。到着を待つのは諦めたほうがよさそうだね」

「そう……ですか」


 ミネルヴァはひと月まえからブラン共和国に行ったきりで、一度も顔を合わせないまま今日を迎えていた。

 天候に恵まれず、ブランから出港できずにいるのが現行の理由らしいのだけれど。


「もとを辿れば、滞在予定を大幅に超過した母が悪いんだけどね」


 そう言うと、公爵は小さな溜息をついた。


「それよりもそのドレス。気に入ってもらえなかったのかな。もしそうだとしたら、ディアを紹介したのは母だし、俺としても申し訳が立たないんだけど」

「……なにも、気に入らなかったというわけでは——」


 せっかく話題を変えたのに、わざわざ立ち返らなくてもいいのに。

 そう思いつつ、指摘された点を、もごもごと訂正しながら気づく。公爵の顔に浮かんだ、言質げんちは取ったとでも言いたげな、意地悪くも感じる微笑みに。


「だったら、もっと素直に喜べばいいのに」


 浮かれていた心情は、公爵にはお見通しだったのかもしれない。そう感じるからこそ、なおさら思わずにいられない。

 公爵はわたしに対し、欠片も疑いを抱いていないのかしら。


 最高位の司祭を招き、婚儀を執り行うのだし、正妻として迎え入れてくれるのは、ひとまず信じていいと思う。けれど、公爵がわたしという花嫁をどのように受け止めているのかは判然としないまま。

 それを知り得たところで、公爵の心を占めているのは、あの、可憐な少女だという現実は変わらないというのに。

 結局いつも、行き着く考えはそこ。


 わたしは俯き、強く目を瞑る。


 事あるごとに溢れ出す厄介な想いを、ちりも残さず闇へと葬り去ってしまえればいいのに。






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