悪魔との遭遇



 謝罪したいと、公爵から呼び出しを受けたのは、約束を反故ほごにされてから二日後のことだった。


 体調不良が理由だったとはいえ、悪いと感じているのならば、自ら赴いてくるぐらいの誠意を見せて欲しいものだけれど。

 それでも声をかけてくれるようになったのは、一歩前進したのだと思いたい。


 シエロに対する想いの整理は、まったくついていないけれど。状況の進展には淡い期待を抱きながら、言伝を持ってきた侍女の案内で公爵の私室へと向かう。

 すると、扉のまえには警備官の男性がふたり、直立不動で控えていて。わたしが来ると伝え聞いていたのか、取次もなしに前室へと通される。


 そこでひとつ、あらためて感じたことがあった。


 それはエントランスホールや応接室、大広間など、来客を迎え入れる場所以外では、あまり華美な装飾が見られないということ。

 置かれている家具も長年愛用してきたものばかりのようで、木製の調度品が持つ飴色の輝きは好感が持てた。


 そして、午後の陽射しにほんのりと満たされたこの部屋も、例外ではなかった。


 ただ、応接に使われているらしいこの部屋に、あると思っていた公爵の姿はなく。

 すぐに、主室へと続く扉が開いていると気づきはしたものの、なかから声が漏れ聞こえてきたため、この場にとどまることに気が引ける。


 先客がいたようで、つぎには明瞭に、公爵のものらしき声がわたしの耳を突いた。


「あの女を正妻に迎えるだと? 俺を差し置き、勝手に決めるとは。どういう了見だ」


 明らかに不機嫌で怒気のこもった声の主は、公爵以外に考えられず。このまま、自室へと引き返してしまいたくなるも。

 誰の話をしているのか。正妻と聞き、わたしのことかとも思ったけれど。公爵本人が初耳のようだったので、疑問を感じたわたしは、その場から動けずにいた。


 なにより、公爵と話をしているのが誰なのか、気づいてしまったから。


「お聞き及びでなかったとは、申し訳ありません。とうにご存知かと思っておりましたので」


 落ち着いた声で返答したのは、やはりシエロだった。

 けれど、公爵は納得がいかなかったようで、苛立ち混じりの台詞が続く。


「臆面もなく白をきるな。俺は形だけだと聞いたから、あの女がこの領地へ入ることを許したんだ」

「そう責められましても……ね。今回の件につきましては、私の個人的感情だけで断れるような縁談ではありませんでしたし」

「よく言う。どうやって断ろうかと、さんざん策を練っていたのは誰だ」

「……そういえば、そうでしたね。それもことごとく潰されてしまいましたが」

「魔女と古狸か。あいつらが結託すると、ろくなことがない」

「そうですか? 私もこの婚姻、問題ないと思いますよ」


 淡々と応じるシエロに、公爵は痺れを切らしたのかもしれない。そのとき、空気が張りつめ、いちだんと重くなるのを感じた。


「——お前。あの女に惑わされてはいないだろうな。聞いたぞ。俺に隠れて、こそこそと会っているそうじゃないか」


 公爵の声は高圧的で、聞いているだけで震えて動けなくなりそうだった。そんな公爵と、直接向き合っているはずなのに。それでもシエロは、一歩も引かなくて。


「聞いた、ではなく、脅して吐かせたの間違いではありませんか? それと、さきほどから気になっていたのですが、彼女を『あの女』と呼ぶのはやめていただけませんか。これから私が、生涯をともにすると誓う女性なのですよ」


 生涯をともにすると、誓う……女性——。うそ……、でしょう?


 体から、ゆるゆると力が抜けていくのを感じていた。

 ふたりがなんの話をしているのか。息を詰め、聞き耳を立てていたわたしは、決定的な言葉を聞き、いやでも確信するしかなかった。


 シエロの記憶のなか、鮮やかに在り続ける少女の姿が脳裏に浮かぶ。


 シエロの想い人は、あの少女なのに。別の誰かとの婚姻を、シエロは強要されたのかもしれない。たとえば公爵が口にした人物——、魔女と古狸から。

 そして、魔女とはおそらく公爵の母親、ミネルヴァ。


 だからこそ抱いた、満たされない想い。


 また、じくりとした痛みが胸を刺した、その刹那。とつじょ響いた壁を打つ重い音と振動に、わたしは身を竦ませる。


「お前の言いぐさは、まるで他人事だな。お前まで、俺の意見を軽く扱うつもりか!」


 聞こえた怒声に慌てて主室を覗くと、壁に押しつけられ、公爵から胸ぐらを取られたシエロの姿が目に映った。


「おやめください!」


 気づけばわたしは、シエロを拘束していた公爵の腕を掴んでいた。けれどすぐさま、力任せに振り払われる。


「——許しもなく、俺に触るな!」


 嫌悪も顕わに睨まれ、ましてや恫喝されるなど、生まれてこのかた一度も経験のないわたしは、言葉を失い、その場に縫い止められる。

 振り払われた手の痛みまでも、忘れ去ってしまう。


 けれど、それだけの甲斐あって、シエロは公爵から解放されていた。

 ただ、状況を把握しきれていないのか。呆然とした表情を、シエロがわたしに見せた。


「……なぜ、あなたがここに?」

「俺が呼んだ」


 怒りを孕んだ公爵の声が、耳に届いた瞬間。感じたのは、凍えるほどの恐怖。

 わたしに向けられた双眸は、シエロと同じ、琥珀色をしているというのに。


「言っておくが、俺はお前に冷たく当たったことを謝罪する気はない。俺がお前を呼んだのは、いまこの場で、お前の正体を暴くためだ」


 直後。伸ばされた公爵の手が、わたしの顎に触れる。強制的に顔を上向かされ、驚きから見開いた目に映ったのは、蔑むような、冷たい双眸だった。


 その目に宿る孤高の光はレオーネ王のそれに等しく——。

 逃げる気力さえ奪うほどの恐ろしさに、わたしの顔は引きつり、血の気も失せていたに違いない。


 けれど公爵の横暴な振る舞いも、そう長くは続かなかった。


「そこまでにしていただきたい」


 制止の声と同時に、わたしに伸ばされていた公爵の腕は、シエロによって掴み上げられていた。瞬時に、悪魔の形相でシエロを睨んだ公爵だけれど。


「女性を力尽くで従わせようとなさるなど、感心しませんね」


 シエロが口にした苦言に、意外にも公爵は抵抗のひとつすらしてみせなかった。ほどなくシエロに掴まれた腕、そして握られていた拳からも、力が抜けたように見える。

 だから、もう必要ないと判断したのだと思う。シエロもすぐに、公爵の腕から手を離していた。


「見ておわかりでしょう。彼女は普通の娘です」


 冷静な口調でそう断言したシエロだけれど。彼の言葉が、公爵の怒りを再燃させる。


「本気で言っているのか」

「真実そうなのですから、正体を暴くという考えそのものが無駄なのです」

「お前だからこそ、俺より承知しているはずだ。色香で男を誑かすか、こいつのように初心なふりをして相手の同情を引く。手段を選ばず、場合によっては顔色ひとつ変えずに毒さえ盛る。それがこいつらの手練手管だと。それともお前は、むざむざと騙されてやるつもりなのか」

「彼女になら、騙されてもいいと思っています」

「——正気か?」


 詰め寄る公爵にも、シエロは笑みを見せていた。しかもそれだけにとどまらず、彼は衝撃的な事実の断片まで、あっさりと口にする。


「正気もなにも、騙しているのは私たちでしょう。そうですよね、シエロ・フィーニ」

「お前っ! なにを勝手に——っ!」


 一瞬、時が止まったような錯覚に囚われる。


 けれど、聞き間違いではない。確かにいま、シエロは公爵に向かって呼びかけた。

 シエロ・フィーニと。


 まさか……、公爵がシエロだとでもいうの?

 だったら……。目のまえで憤っている公爵がシエロだというのなら。シエロと名告っていた彼は、いったい誰なのか。


 素性がわからなくなってしまった彼だけが、ただひとり冷静に話を続けていて。


「さきに芝居を放棄したのはシエロ、あなたです。このような暴挙に走ってしまっては、正直に告白するしかないでしょう」


 穏やかな声が間近に聞こえたそのとき。不意に肩へと触れてきた温もりに、びくりと体が反応する。


「……大丈夫ですか?」


 顔を覗き込まれ、触れてきた温もりの正体が、シエロの手であることに遅れて気づく。どうやらわたしは、放心していたようで。


「怖い思いを、させてしまいましたね」


 優しく気遣う眼差しに、もう、なにも言葉にしないで欲しいと、声に出して訴えてしまいそうになる。

 けれどそれはきっと、王にそむくのと同義で。禁忌に触れる行為でもあり。


 そうまでしてでも、聞きたくなかったのに。


「すでに察していらっしゃると思いますが……。あなたの本当の婚約者——。リベルタス領領主、ジュラーレ公爵は私です」


 背筋を這った寒気に、思考も芯から凍りつき、わたしは青ざめる。


 彼に惹かれる心を、自覚したばかりだというのに。働かない頭でも違えようのない果たすべき大役を、わたしはあらためて反芻する。


 わたしは彼に、いざなわなければならないの?

 目覚めのない夢——。永遠の……、眠りを。






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