重ねた気持ち
シエロに触れていた手が、優しく押し戻される。
夢から覚めたばかりのような感覚を振り払うと、たちまち罪悪感が押し寄せてきた。
無断で大切な場所に踏み込んでしまった気がして。こんなに後味の悪い感覚は初めてで。けれど、謝罪をしたのは、わたしではなかった。
「すみません。つい、うたた寝をしてしまったようですね」
肩に触れていたことは、どうやら怪しまれていないようだけれど。
「……わたくしこそ……。お疲れのところを、おつき合いいただいていたのですね」
そう言って気遣うと、なぜか、心外だとばかりにシエロの眉間に皺が寄る。
「違いますよ? あなたには感謝しているくらいです。ほら、仏頂面しか見せないあのかたの隣にばかりいると、こちらまで気が滅入りますから」
あのかたが誰を指すのか。それは公爵のことだと、すぐにわかったのだけれど。シエロは本当に明け透けな性格をしていると、わたしは再認識していた。
そこでシエロは公爵の顔でも思い出したのかもしれない。
「ああ……ロベリア嬢。いまの話は、どうかルクスさまには内密に願います」
俯いたかと思えば、額のまえで両手を組み、神に祈るような姿勢を見せた。
なのにシエロは、爪のさきほども失言だと思っていないようだった。手を下ろしたあとに見えた顔には、無邪気にも感じる笑みがあったから。
シエロは年上なのに。その仕草が可愛く思え、わたしはくすりと笑ってしまう。
けれどまだ、胸の痛みは消えておらず、じりじりと残っていて。
落ち着き払った振る舞いしか見せたことのないシエロに、冷静さを欠くほどのなにが少女とのあいだにあったのか。わたしはいまにも問いかけてしまいそうだった。
そのような真似をしてしまえば、一瞬ですべてが終わってしまうというのに。
だからわたしは自分の気持ちを誤魔化すため、精一杯の笑顔をつくっていた。
「承知しました。公爵さまには内密に、ですね」
「ありがとうございます」
お礼の言葉と一緒に返されたのは、予想どおり、優しい微笑みで……。どう、対処すればいいというの。自分だけに向けられるシエロの微笑みは、やはり嬉しく思え——。
「そろそろ、迎えが来るころでしょうか」
「……はい」
ふたりきりの時間が終わりを告げることには落胆を感じた。
シエロの行動に一喜一憂する自分。そしてその心状をなんと呼ぶのか。さきほど覗いてしまった記憶のなかで、同じ想いを見つけてしまった。
いいえ、身につまされた。境遇も想いの深さも、きっとすべてが違うのでしょうけれど——。重ねてしまった。シエロが抱えていた、けして満たされない想いと。
このような感情は、わたしには必要ないのに。だからいますぐにでも、消し去らなければならないのに。
それがどれほど難しいことなのか、わたしはすぐに思い知る。
******
それは、ジュラーレの港街が見渡せる崖へと連れていってもらった翌日のこと。
結局、なぜあの場所に案内されたのかは聞きそびれたまま。時が一日過ぎたくらいでは、シエロと顔を合わせ、平常心を保てる自信など欠片も湧いてこなくて。
中庭に行ったとしても、公爵の執務室から丸見えだと聞いてしまったいまでは、気分転換どころか落ち着かないのは目に見えている。
かといって部屋に閉じこもっていると、気づけば、シエロとあの少女のことばかり考えてしまっているから。
心から打ち込めるものがあれば忘れられるかもと思い立ち、公爵への自己主張も含め、エルマにまたお菓子づくりを教わろうと、わたしは魔女の実験室へと向かったのだけれど。
すっかり顔見知りとなった下働きの女性ふたりが、実験室の入口あたりでなにやら騒いでいるのが目に留まった。
彼女たち——モニカとマーラは、ふたりともまだ十代で、歳が近いこともあり、わたしとしても話しやすい相手で。
わたしを送り届けたニーナと入れ替わりに、控えめな距離を保ちながらもモニカが声をかけてくる。
「ロベリアさまも、ご覧になりますか?」
モニカに続き、今度はどこか誇らしげにマーラが口を開く。
「ご本人をまえにしては、さすがにこちらの価値は霞んでしまいますが。魅力は充分に感じていただけると思います」
そのような前置きのあとにマーラから手渡されたのは、便箋のような一枚の紙で。見ると黒一色で刷られた銅版画だった。
そこに描かれていた人物を目にした瞬間、わたしは息を呑み、すべての意識を奪われる。その感覚は、昨日、味わったばかりのものと等しくて。
華やかなドレスを着こなし、愛らしく微笑む女性の立ち姿は、少し大人びてはいるけれど、その存在をわたしの胸に深く刻み込んだまま、いっこうに消えてくれないあの少女とよく似ていた。
いいえ、似ているという言葉では足りない。おそらく同一人物なのだと思う。夢で覗き見た、シエロの想い人と——。
「これは……?」
誰なのか知りたくて、聞こうとしたのだけれど。
「あなたたち、休憩時間はとっくに終わっているわよ!」
洗濯室から顔を出した別の女性が、お叱りの言葉を彼女たちふたりに投げてきた。
すると、急かされてそわそわしだしたモニカから、躊躇いを感じさせる表情を向けられる。
「申し訳ありません、ロベリアさま。それはようやく手に入れた一枚なので」
返して欲しいのだと察したわたしは、これ以上眺めていたいとも思えなくて、すぐに手にしていた銅版画をモニカに渡す。
「貴重なものなのですか?」
「ドレスの宣伝用に、デアサルトが無料で配布しているのですが——。欲しがる者が多く、なかなか手に入らないのです。モデルを引き受けられているのが、誰しもが憧れてしまうようなかたですから」
早く仕事に戻りたいはずなのに。銅版画を受け取ったあと、モニカは満面の笑顔で応えてくれて。描かれている人物が誰なのか、一度は確かめようとしたのに。
知るのが急に怖くなる。
問いの言葉を声にできずにいると、ふたりはおのおのに礼を取り、仕事へと戻っていってしまった。
シエロだけでなく、多くの者の心を惹きつける魅力を持つ少女。その存在がくっきりとした輪郭を持って現実味を帯び、胸が、じくりと悲鳴を上げる。
それは誰のものでもない。紛れもなく、わたし自身が抱いた感情だった。
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