禁忌の境界線



 深い眠りに落ちていくような感覚をやり過ごし、わたしはゆっくりと目を開けた。


 場所は……この崖のよう。岩場の陰に、さきほど見たものと同じ花が咲いている。けれど、雲ひとつない青い空と凪いだ海を背に、崖ぎわには、可憐な少女がひとりで佇んでいた。

 あおく澄んだ双眸を、眩しそうに細める。傾げた首の動きに合わせ、明るい蜜色の巻き髪が、ふわりと揺れた。


『この青い花の名を、ご存知ですか?』


 少女がそうたずねたところに、突然、強い風が吹く。そのせいで乱された髪を、少女は照れたような仕草で耳にかけていた。


 そして。少女の視線のさきにいるのは、この記憶の持ち主——シエロで。なぜかというと、いま、少女と視線を合わせているのが、わたしだからで。


 触れた者の視点で、触れた者の体験した過去や、そのときの思考、はては抱いた望みまでも、くまなくとまではいかないけれど、夢を媒介に覗き見ることができる。


 それがわたしの生まれ持った、夢渡ゆめわたりと呼ばれる異能だから。


 けれど、この記憶を覗き続けるのは、なぜだか抵抗を感じる。

 シエロもいつ目覚めるかわからない状態だし、婚儀のまえに危険を冒すのも無謀だと思い、すぐにでも現実に戻ろうとしたのだけれど。


『アネモネだろう?』


 返答したシエロの声に、わたしは引き止められていた。


 しかも。シエロの胸には、彼女に対する愛情が溢れていて。それは、わたしの胸まで締め上げるほど切ないもので。

 目のまえの少女から受け取れる想いも、純粋な……恋慕の情。


 けれど、なぜかしら。ふたりは想い合っているようなのに、シエロの心は満たされていなかった。


 そこでやめておけと、理性は訴えたのだけれど。わたしは理由が知りたくて、シエロが抱く想いの深層を、さらに探ろうとした。


 そのとき。駆け寄ってきた少女に、すべての意識を奪われる。

 シエロに引き摺られたと言ったほうが正しいのかもしれない。目のまえには愛しい者に向けられた、はにかみをおおいに含む柔らかな微笑みがあって。間近で見たその少女は、本当に魅力的で。


 無条件に、目を奪われる。


 少女は得意げに、ふふ、と笑ってから話し始めた。


『そう、アネモネです。そこで思いついたのですが、もし将来、わたしに娘ができたなら、アネモネと名づけます』

『君はまた……脈絡のない話を——』

『理由は聞いてくださらないのですか?』

『男だったらどうするんだ?』

『理由を聞いてくださいと、わたしは言っているのです』

『どうせ君のことだから、風のように、なにものにも縛られず、自由に生きて欲しいなどと言うのだろう?』

『どうせ、じゃありません!』


 怒って頬を膨らませた少女に、耐えがたく、シエロの胸がきりりと痛む。


『……俺は、決めたよ』


 つかのま、少女の表情が凍りついた。……ような、気がしたのだけれど。


『そうですか。ようやく決心なさったのですね』


 安堵を感じさせる口調でそう言い、少女は微笑んだ。


 なのに、どうして。

 嬉しそうに微笑む少女を見ているだけで、心が……、引き裂かれる。


『答えは聞かなくともわかっていますから。言葉にはしないでくださいね』

『弁解も、させてもらえないのか』


 そばにいて欲しいと思えるのは、君だけなのに。


 喉もとまで出かかったその言葉を、シエロが声にすることはなかった。声にするまでもなく少女が、シエロの願いを汲み取ってくれたから。


『心配なさらずとも、わたしは変わりません。わたしは一生を、あなたに捧げていますから』


 それは、どれほどの決意なのか。

 微笑みを絶やすことなくまっすぐに見つめてくる少女の瞳が、潤んでいると気づいた瞬間。シエロは自分の胸に少女を引き寄せていた。


 従順に体を預けてきた少女を、縋るように抱きしめる。


『……俺が愛しているのは、君だけだ』


 伝えてはならない想いだと、わかっていながらも絞り出した声は、ひどく掠れていて。

 叫び出したいほど胸が苦しいのは、シエロなのか。それとも……、わたしなのか。


 見なければ、よかった。


 後悔と自己嫌悪を、いやというほど味わったその瞬間。

 わたしは唐突に、我に返った。






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