第2章
庭園に咲く花
吹く風も穏やかな晴天の昼下がり。四方を建物に囲まれた中庭には、瑞々しい緑の芝生が広がっていた。
中央には、この庭の主役と言っていい円形の噴水があり、その噴水を取り巻くように花壇が配されている。
緩やかに流れ出る水音を聞きながら、花壇に溢れ咲く花を眺めていると、強張った心も多少は和むような気がした。
この庭の存在を知ったのは、シエロに連れられジュラーレの港街を散策した翌日のこと。まだ案内していない場所があると、ニーナが連れてきてくれたのがこの中庭だった。
それから三日も過ぎていないのだけれど。ここへ足を運ぶのが、わたしの日課になりそうだった。
それは、ここが公爵家の居室に面して造られた私的な場所で。偶然を装い、公爵と会えるかもしれないという期待が多分にあったからで。
それに、物思いに耽るには恰好の場所でもあり——。基本的には城館内のどこへ行こうと自由なのだけれど。いまのところ自室以外で唯一、単独の行動を許されているのが、この中庭だったから。
それ以外ではニーナか、もしくはほかの侍女が必ずつき従う。
見張られているような気がしないでもないけれど。
貴婦人のごとき佇まい。そう称される外観を持つこの城館は、増改築を繰り返した結果、建物内は通路が複雑に入り組んだ迷路のようになっていたから。
きっと、不慣れなわたしを気遣っての計らいなのだと思う。
いいえ。そう思わなければ、いまだ会えないままのソフィアが無事でいるのか、気懸かりでたまらなくなる。
ソフィアとこんなに離れて過ごしたのは初めてで。進展のないまま終わっていく日々には、正直、心が挫けそうになる。
まだ、婚儀も済んでいないのに……。それとも婚儀が済めば、いまの状況も変わるのかしら。
花壇をまえにして、わたしは力なくしゃがみ込む。
そこには、いくつかの花が寄せ植えされていたのだけれど。そのなかの一種に、地面を覆うように葉を広げ、すっと伸びた茎のさきに、赤い花を咲かせているものがあって。
くしくもその花は、シエロが偽名として挙げた名と、同じ名を持つ花で。
だからかもしれない。見ていると、自分が偽物である現実を忘れるなと、戒められているような気分になる。
わたしは自分の名が、なにを願ってつけられたのか知らない。それもきっと理由のひとつ。
わたしに名をくれた人は、わたしの血縁ではないと聞かされているし。それならもとより、名に意味などないのかもしれない。
けれど、それでいい。それこそわたしには相応しいのではないかしら。そう思いつつ。蜜に誘われる蝶のように、わたしは赤い花へと手を伸ばしていた。
その瞬間。
「アネモネ」
「はい……っ!」
背後からかけられた男性の声に、どきりと心臓が跳ねる。花に触れようとしていた手も慌てて引っ込める。
けれど、またしても必要以上に大きな声を出してしまい、相手の反応を窺いながら顔を上げてみれば——。
そこには、優しい微笑みをわたしに向ける、シエロがいた。
「お好きですか?」
「……え?」
首を傾げつつ、問われた内容を遅れて理解する。
「あっ! 花のこと……ですね……。はい……いえ、あの……。街までお連れいただいたときのように、偽名を呼ばれたのかと……」
尻すぼみになってしまった声を、面白がってだと思う。シエロが穏やかに笑う。
「どうやら、驚かせてしまったようですね」
勘違いを自覚した自分の頬が瞬時に赤らむのを感じ、わたしはしゃがみ込んだまま俯く。余計な言いわけまで口にしてしまって。不審に思われていなければいいのだけれど。
動揺を隠そうとしていると、そこにシエロの声が落ちてくる。
「アネモネですが、素手で触れられるのは、おやめになったほうがよろしいですよ」
シエロの忠告に、つられて顔を上げる。
「……なぜ、ですか?」
「毒が、あるそうです」
「そう、なのですか?」
いまの言葉——。意味深な語調に感じたのだけれど。
訝しんでいると、目のまえにシエロの手が差し伸べられる。
「かぶれる程度らしいですが、美しい肌が損なわれるのは、見るに忍びないですから」
一瞬、迷いはしたものの、わたしはシエロの手を取っていた。その手に導かれるまま立ち上がる。
向き合って視線が結ばれるのを待ってから、シエロは話を続けた。
「庭師に頼んで、ロベリアも植えてもらいましょうか」
「お気遣い……ありがとうございます」
「ロベリアは小さくて、蝶のような花をたくさん咲かせるそうですね」
「……はい。シエロさまは、花にお詳しいのですか?」
「いえ、エルマから聞きかじった知識ばかりです」
これも聞いた話ですが。と、わずかに声を潜めたシエロは、真面目な表情をしていて。怖い話でも聞かされるのかと思い、わたしは息を呑んだのだけれど。
「ロベリアにも、毒があるそうですよ。しかもこちらのほうが毒性が強い」
なぜ、このような話をするのかしら。返答にも困るし、戸惑いを感じていると、シエロの表情が緩む。
「ですがロベリアもアネモネも、識っていれば恐れる必要はない。愛らしい姿で心を癒やしてくれる、花以外のなにものでもないのです。ロベリア嬢も、そう思われませんか?」
「……仰っている意味が、よくわかりません」
同意を求められても、彼がなにを言いたいのか本当に読めなくて。わたしが本心を偽らずに伝えたところ。
「そうですか」
と、シエロが目を伏せ呟くから。理解力の乏しさに、落胆でもしているに違いないと思っていたのだけれど。
「ロベリア嬢は、この中庭が、公爵の執務室から丸見えだということをご存知ですか?」
「……丸見え?」
それはいったい、どういうことなのかしら。脈絡もなく告げられた新情報に、頭が理解を拒み、真っ白になる。
「やはり、ご存知なかったのですね」
この中庭で、怪しい行動を取った記憶は、ない。ないけれど。見られていたのは確実なのだと悟ったわたしは、込み上げる羞恥を抑えられず——。
俯き、シエロから目を逸らすことでなんとか口を開く。
「……ずっと、見られていたのですか? シエロさま……にも?」
おそるおそる視線を上げ、シエロの顔色を窺うと、返答の代わりか、彼は満足そうにも感じる微笑みを浮かべていた。
そこで本来の目的だったと思われる用件が告げられる。
「明日の午後、予定をお入れしてもよろしいですか?」
「差し支え……ありませんけれど」
どうせ暇ですし。という言葉は、吐き出す寸前で呑み込む。
「……どのような用向きでしょうか」
「あなたにお見せしたい場所があると、ルクスさまが仰っています」
ルクスさま。
その名は一瞬で、わたしの心を重くした。待ち望んだ、間近に接する機会が得られそうなのに。それを喜んでもいいはずなのに。
公爵から避けられていたことで、たとえ目的が不達成に終わっても、それは自分のせいではないと、無責任に考えている部分があったのかもしれない。
ソフィアがいない現状で、公爵の冷たい双眸をまえにして上手く立ち回れるのか。ここまで来ていながら、情けなくもわたしは、躊躇いを感じずにはいられなかった。
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