焼菓子と笑顔



「香ばしい匂いがすると思ったら、菓子を焼いていたんだね」


 厨房の入口から男性の声が届いた。

 その、納得して満足した様子の男性に、わずかに間を置いてエルマが応じる。


「なにか、お急ぎのご用命でも?」


 口調は変わらずおっとりとしながらも、相手を諫めているようにも感じた。

 なぜかしら。エルマの視線のさきに立っていたのは、シエロだったのだけれど。


 そういえば、初日以来、シエロとも顔を合わせる機会がなかったので、会うのは一週間ぶり。ふと、それに気づいた瞬間、咄嗟に顔を背けてしまう。

 やましい行いをしていたわけではないのに。そのまま、俯いたさい視界に入った焼菓子を一心に見つめていた。


 そこにふたたび、シエロの声が届く。


「王子が、お茶をご所望だそうだよ」


 王子といえば、この城館には公爵しかいなくて。用件を伝えたシエロに、エルマが呆れて言葉を返す。


「そのような雑務は、侍女に任せておけばよろしいのに」

「いいかい、エルマ。ようやく気晴らしの機会を得たというのに、それを奪うような台詞は口にしないで欲しいな」

「まあ——。そう仰るのなら、いちがいに責め立てるわけにもいきませんが……」

「だろう? そうそう、それでね。彼、またイライラしているみたいだから、あれ淹れてあげてよ。リラックス効果抜群、エルマ特製ハーブティー」


 普段はこのような話しかたをするのかと、シエロの打ち解けた口調に興味を惹かれる。


 すると真横に人の気配を感じたため、ふと見上げれば、とうのシエロが立っていて。


「これ、美味しそうだね。ひとつもらうよ」

「——あの! それはっ……」


 味見もまだで、出来栄えの不安から制止の声をかけたかったのだけれど。すでに時は遅く、かりっと音を立てた焼菓子は、半分がシエロの口内へと消えていて。


 あとは、彼が食べ終わるのを黙って待つしかなかった。


「……お味は、いかがですか?」


 頃合いを見計らってたずねると、シエロからは笑顔が返ってくる。


「うん、なかはしっとりとしていて、上手く焼けている……よ? ……あれ? えっと、君はたしか——」


 彼がわたしを見る、きょとんとした、記憶を探っているような表情に、まさかという考えがよぎる。


「やっと、お気づきになりましたか」


 わたしの考えを裏づける言葉が、エルマからシエロに投げられた。


 いるはずのない場所に、わたしがいたからかもしれないけれど。厨房へと入ってきたとき、どうやら彼の目にはわたしが映っていなかったようで。


 エルマの口から、かさねて小言が零れ落ちる。


「お顔をご覧になるまえに、服装で人を判断なさる癖は、正されたほうがよろしいかと思いますよ」


 それは、どういう意味なのかしら。エルマの言葉を額面どおりに受け取れば、シエロがわたしに気づかなかったのは、この、侍女よりもおとなしめの服装が原因だったということになる、のよね?


 エルマが口にした苦言らしきものに、半信半疑でいたところ。シエロと視線がかち合う。


 罪悪感など微塵も見受けられない彼の瞳は——。そう、この状況を楽しんでいるようにも見えた。


「これは失礼を——」


 謝罪しつつ、ふたたび焼菓子へと視線を戻したシエロだけれど。まもなく、わたしが厨房にいた理由を察したようで。


 シエロの口もとに笑みが浮かんだ。


「それで、この焼菓子ですか。ルクスさまも喜ばれますよ」

「そう……でしょうか」


 声にした直後。零してしまった疑いの言葉に後悔を覚え、おそるおそる、シエロの顔色を確認する。


 これ以上、公爵との関係を悪くする要因を増やしたくないのに——。


 けれど、気遣いだと思う。彼から返ってきたのは、安心を誘う笑顔だった。


「大丈夫ですよ。ルクスさまは甘いものには目がないですから。必ず、喜ばれます」


 肯定とともにくれたシエロの微笑みは優しく、ただ、焼菓子を公爵よりさきに食べてしまったからか、照れくささを含んでいるようにも見えた。


 それもつかのま。シエロの目に、真剣な色が宿ったのがわかった。しかも笑みを残したまま、頭のてっぺんから足のさきまで、さりげなく見られた気がした。


「よい機会かもしれませんね。ロベリア嬢にもおつき合い願いましょう」

「……どちらへ、ですか?」

「気晴らしも兼ね、街へ出ます」

「それよりも、あの……、シエロさま。もしご迷惑でなければ、公爵さまに直接お会いして、こちらをお渡ししたいのですが……」


 シエロなら、あの公爵にも上手く取り次いでくれるかもしれない。他力本願ながら、焼菓子を指し示し、少なくない期待を持ってたずねてみたのだけれど。


「お気を悪くなさらないでください。いまはまだ、こちらを焼かれたのがあなただと、明かされないほうがよろしいかと——」


 わずかに声を潜めたシエロの言いようは、公爵の考えを暗に語っていて。さすがにもう、勘違いのしようもなくて。


「やはりわたくしは……、歓迎されていないのですね」


 ついに声に出してしまった本音にも、シエロがくれたのは笑顔だった。


「いまだけです。ほどなく必ず、あなたがリベルタス領の花嫁に相応しいお人柄の持ち主だと、あのかたも認めてくださいます」


 いまだけ、というシエロの言葉を受け、わたしという花嫁が、公爵に認められていない事実を明確に突きつけられる。それでもわずかな動揺しか感じていないのは、初めからそうと自覚していたから——、だけではない。


 よりどころのない、ただの励ましかもしれないのに。信じてしまいそうになる。それほどに、シエロの台詞には確信が込められているように感じたから。


「今日のところは、私のエスコートでお許しください」


 シエロの手が、わたしに向かって差し伸べられる。


 ごく自然な所作だったので、おずおずと躊躇いながらも、わたしはシエロの手に自分の手を重ねていた。


 すぐに優しく手が引かれ、厨房の出口に向かって歩くよう促される。けれど伝え忘れた用件でもあったのか。三歩も進まないうちに、シエロの足がぴたりと止まる。


 つぎにシエロは実際、エルマを振り返っていた。


「エルマ、頼みがあるんだけど。王子にはお茶をお出しするときにでも、俺が席を外す理由を適当に伝えておいてくれるかな」


 エルマの表情が、見るみるうちに困惑で曇る。


「そのような難題を頼まれましても、あのかたが納得される理由など——」

「ああ、それからさ、エルマ。この菓子も忘れずにね」


 有無を言わさず、シエロはエルマの言葉を遮っていた。そのうえでシエロが見せたのは、悪意のない、善良な微笑みだった。


 その笑みを真正面から向けられたエルマだけれど。一瞬、訴えたい内容を見失ったようで。


「手違いなく、ルクスさまのお部屋へお届けしておきます」

「うん、じゃあ頼んだよ」


 かしこまりました。と、焼菓子については応じるも、エルマはやはり難題に立ち返ったらしく。


「ではなくっ……お待ちくださいっ!」


 エルマの声が追いかけてきて。けれどそのときにはすでに、わたしたちは逃げるように厨房をあとにしていた。


 エルマには悪いことをしてしまったようだし、本来なら軽率な行動を控える意味でも、シエロの誘いは断るべきなのかもしれない。

 ただ、見たところ、この城館で公爵に一番近しい人物らしいシエロとは、良好な関係を築いておいたほうがいいのかしら、とも思う。


 公爵の本心を知ったいま。花嫁として認められていない理由は定かではなく、最悪、計画の実行が危ぶまれるほどの問題ではあるけれど。

 わたしひとり城館に詰めていたところで良案は浮かばないし、焦っても、公爵に会えないのであれば進展も望めない。


 それならばまだ、シエロと出かけ、もっと有用な情報を彼から引き出したほうが得策かもしれない。


 なにも、破談になったわけではないのだし。


 横を歩くシエロを、ちらりと盗み見る。


 場当たり的なところが情けなく、彼から有用な情報を引き出すなど、わたしが上手くこなせるかどうかも微妙だけれど。

 とりあえず当面の方針が決まった、その途端。公爵に会う方法ばかり考え、頑なになっていた気持ちが緩んでしまったのかもしれない。


 厨房にいたわたしに気づいたとき、シエロが無防備にも見せた素の表情をふと思い出し、つい、くすりと小さく笑ってしまう。


 視線を感じて顔を上げれば、目を合わせたシエロも微笑んでいて。


 どうしてかしら。笑顔をもらって、それからゆっくりと並んで歩いているだけなのに。


 それが不思議と嬉しく思え、気づけばまた、わたしの口もとは綻んでいた。






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