魔女の実験室
公爵家の居室がある棟から、家事室へと繋がる石造りの通路には、ひんやりとした空気が流れていた。
三人並ぶのがやっとの幅しかないこの通路には、明かり取りの小さな窓しかなく、お昼を過ぎたばかりだというのに仄暗くもあり。
お願いした場所へ、ちゃんと案内してくれているのか。黙々とまえを歩くニーナの背を見つめながら不安を抱き始める。
結局、自分にできることといったら手料理くらいしか思いつかず、却下覚悟でニーナに頼んでみたところ、ありがたくも協力を申し出てくれて。
お召し上がりになるとの保証は致しかねますが。と、前置きがありはしたけれど。
もとより、無駄な努力に終わるのは予想済み。
この城館の料理長は腕利きで、ひとりきりの食事という味気なさが加わっても、出される料理はついつい食べすぎてしまうくらい、美味しいものばかりだったから。
そもそも、その料理長と張り合うつもりは欠片もなく、なにかひと品でもつくらせてもらえれば充分で。無為に悶々としているよりは、まだましかとも思える。
けれど。
「あの……ニーナ? 厨房はこちらで合っているのですか?」
不安に耐えきれずに問いかけたわたしを、ちらりと振り返ったニーナだけれど。相変わらず心情を窺わせないまま、説明を始めた。
「いま向かっておりますのは、お茶を用意するための簡易厨房です。ルクスさまは、魔女の実験室と呼んでいらっしゃいますが」
「……魔女の、実験室?」
その呼称は、抑揚のない口調で語るニーナから聞かされれば、いっそう怪しげに聞こえ、ますます不安が募る。
しかもどうやら、心構えをする暇もなく、その実験室の入口へと辿り着いたようで。
「こちらがそうです」
ニーナが片手で示した部屋を、こわごわと覗き込む。
窓は、あるのかしら。真っ黒なボロ布を二重三重にも張り巡らせ、光を完全に遮断した室内。蝋燭の
炉に入れられた炎はちらちらと揺れながら、大釜で調合された謎の液体をくつくつと煮えたぎらせ、鼻につく異臭を部屋中に充満させようとしている。
なんて。そのような情景を本気で想像していたのだけれど。
「……ここが、そうなのですか?」
視界に映ったのは想像とまったく違う、思ったよりも自然光の射し込む明るい部屋で。簡易というには設備の整った、けれどなんの変哲もない、使い勝手のよさそうな厨房だった。
部屋の中央には簡素な木製テーブルが置かれ、壁ぎわには石炭コンロだけでなく、パンも焼けそうなオーブンまである。
そして、彼女が魔女だとでもいうのかしら。
年齢は三十代前半くらい。肩にかかる髪は優しい色合いをした淡い金で。柔和に細められた瞳は薄茶色で——。
慈愛溢れる聖母、という形容が似合いそうな女性が、その部屋にはいた。
******
「上々の焼き加減ですね」
甘い匂いが漂うなか。おっとりとした口調でそう言ったのは、わたしを笑顔で迎えてくれた、この厨房の主。
お菓子づくりが趣味だという城館勤めの調薬師、エルマだった。
たとえば胡桃のビスコッティや、ドライフルーツ入りのケーキ。カスタードと苺ジャムがたっぷり詰まったタルトまで。食事やお茶の時間に出されるドルチェだけれど。
公爵家の食卓に普段上るものは、趣味が高じて、数年前からエルマが担当するようになったのだそう。
実際に食べた感想はというと、どれも趣味の域を超えた美味しさで。
ちなみに、たったいま焼き上がったのは、メレンゲにお砂糖、それからアーモンド粉を使ったシンプルなお菓子。香りを引き立てるのに、
必要な材料を混ぜ合わせてつくった生地を、均等に小分けして手のひらで丸めたあと。天パンに並べ、軽く押さえて平らにしてからオーブンで焼くのだけれど。
出来上がりは、こんがりと焼けた表面に細かい割れ目がいくつも入り、見た目からも素朴な味が想像できた。
公爵さまのお好きなものは、とたずねたところ、エルマが薦めてくれたのが、意外にもこの焼菓子で。どんな顔をして公爵がこれを食べるのか、いまだ想像もつかない。
もともとお菓子をつくるという発想自体、わたしの頭にはなかったのだけれど。
料理は教養として、人並みにこなせるよう努力はしてきた。ただ、製菓には詳しくなく、教えを請いながらの作業になってしまったから。
焼き上がったお菓子をまえに、わたしは達成感に浸っていたようで。
いつから、なのか。微笑ましく感じ入った顔をしたエルマが、こちらを見ていたことに遅れて気づく。
目が合うと、エルマは口を開いた。
「こちらにいらしたばかりのころ、ミネルヴァさまもそのように、厨房に立たれておいででした」
柔らかな表情も、おっとりとした口調もそのままに、エルマは続ける。
「ですがミネルヴァさまときたら、料理に関しては、救いようもなく破壊的な腕前で。そのくせなにかと興味を持たれては、ご自分でお試しになりたがるものですから——。一番の被害者は、毎回試食を強要されていた、ルクスさまでしょうね」
いま、わたしは誰についての話を聞かされているのかしら。ミネルヴァの話で間違いはないのでしょうけれど。
貪欲で、欲するものがあれば金銭に糸目をつけず手に入れる。逆に気に入らないものには容赦がない。それが教えられていた、ミネルヴァの人物像だったから。
公爵以上に想像と結びつかず、思考に軽い混乱を招くなか。
エルマの話は、まだまだ続いていた。
「この厨房を、ルクスさまは魔女の実験室とまで命名されて。最終的には、ミネルヴァさまが厨房へ立ち入られること自体、禁止されてしまいましたからね」
「……魔女とは、エルマのことではなかったのですね」
なんとかそこだけは理解して、わたしは呟いていた。
「ニーナから、お聞きになりましたか?」
「はい。公爵さまが、こちらの厨房を魔女の実験室とお呼びになっていると」
公爵のため、なにをつくるか決めるさい、案内も兼ね、エルマが見せてくれたのだけれど。
厨房の隣室には貯蔵庫があり、収納棚のほとんどを、茶葉やハーブ、それからスパイスの入った瓶や木箱が埋めていて。雑然と並んだそれらの中身は初めて目にするものも多く、エルマが調薬師だというのも、そのときに教えてもらった。
さらに厨房の勝手口から外へ出ると、そこにはハーブや野菜を栽培するための菜園まであり——。
薬草の調合を
エルマはというと、なにやら思案するそぶりを見せていた。
「……そうですね。わたくしが調薬師だということも、ルクスさまがその名をつけられた理由に含まれていると思います。ですが魔女にはもうひとつ、意味があるのですよ」
「もうひとつ……ですか?」
「はい。けれどいまはまだ、ロベリアさまには秘密です」
ふふ、と、慈愛溢れる微笑みを、エルマがわたしに向けた、ちょうどそのとき。
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