8 輝く雨にうたれて。
目が覚めたら、雲に覆い隠されてる太陽が沈みかけていた。雨の音は耳にとどいてこない。空を塞いでいる遠くの雲が、ほんのり紅く染まっている。
「駅まで送るよ」
彼女は高飛車なお姫様みたいな笑顔で答えた。
「ありがと」
彼女にとって僕は王子様になれるだろうか。なんて考えながら手をとってエスコートする。部屋を出て、階段を下りる。段を一つ下りるたびに名残惜しさがつのっていく。
今晩だけは一緒にいて? なんて艶っぽいこと言ってやったら、どう答えてくれるだろう。
外に出たら、止んでると思ってたのに、ほんのちょっとだけ小雨が降ってた。パメラが水色の傘を咲かせる。また相合傘だ。嬉しいんだけど、実は僕が送って行った方が傘の面積取っちゃって邪魔かな? なんてちょっとだけ心配になる。
歩き出して、この寂れきった通りにもう一つ、傘の花が広がってることに気が付いた。
僕もパメラも足を止める。瞬間、幸せが凍りついた。
突風が吹いて、パメラが「あっ」と小さな悲鳴を上げた。視界の端に傘が風にさらわれていくのが見えた。でも僕の目は傘を追わない。隣にいるパメラも動かなかった。
「……母……さん……?」
森色の傘を咲かせているのは母さんだった。
僕を“僕”と思ってない人。
僕を自分の夢にしてる人。
僕を父さんだと思ってる人。
僕だけじゃなく、パメラやみんなのことも、何も見なかった人。
偶然って怖い。カミサマもいらないところで仕事をしてくれるものだ。会いたくない人と偶然会うなんて奇跡を、がんばって起こしてくれなくてもいいのに。
「パメラ……」
手をつなぎなおして指を彼女の指に絡ませる。
「行こ、パメラ」
「え? ロルフ、いいの?」
死ぬことで、母さんに見せてやりたかった。でも、死ねないから。
死ねないから――パメラが僕の全部。
パメラの手を引いて母さんに背を向けて歩き出す。
「ロルフ。……やっぱりここにいたのね」
背中から、母さんの声がした。儚く消えてしまいそうでいて、綿毛みたいにふわりとしている。
声が僕の足を止めて、体をくすぐった。
――『やっぱり』……?
小降りだったのに、雨がまた少しずつ地面を叩く量を増やしていく。乾きかけてた僕の服が、また大量の水を吸っていく。
――『やっぱり』……?
言葉の意味を考える。
頭に”考えることは億劫だ”って放棄された。
代わりに全身が粟立った。雨が冷たいからじゃない。
頭がナマケモノだったから、仕方なく、訊ねた。
「やっぱり……って?」
母さんを、振り向いた。母さんの顔は傘の陰に隠れて見えないけれど、自分の声が期待に震えてるのがわかる。
「昔も、家出したときはいつもここだったじゃない」
――『昔も、家出したときはいつもここだったじゃない』――
ふわっ、と。静かな風が全てを吹き飛ばした。
忘れられてると思ってた。母さんにとっての僕は母さんの夢でしかなくて、母さんにとっての僕は父さんだから。ホントの“僕”との思い出なんて、忘れてると思ってた。
僕の中の広がっていた真っ黒い何か――失望。苛立ち。寂しさ。もしかしたら嫉妬。その他色々の真っ黒い何かを、吹き飛ばした。
母さんは覚えてた。僕のことも。父さんのことだけを覚えてたんじゃなかった。母さんの中にはちゃんと僕との思い出もあった。
“僕”を、探しに来てくれた。
雨に混じって熱い水が頬を流れてく。握ってた女の子の手を放した。
父さんの誕生日に一緒にケーキをつくって笑っていた母さん。
膝枕をしてくれて、僕の耳掃除をしてくれた母さん。
ヤンチャをして帰った僕に叱る父さんを、笑顔でなだめていた母さん。
料理をしてるのに甘えようとする僕を、あらあら、って感じで苦笑して抱きしめてくれた母さん――
洪水みたいに、“僕”を見ていてくれていた頃の母さんが頭に溢れかえっていく。今なら帰れる。あのときの僕らに。
「母さん……」
一歩、母さんに踏み出す。
「母さん!」
母さんまでの数歩を走った。母さんの胸に飛び込むために。
手が届く。母さんに。すぐ側までたどり着いたそこで――
世界が乾いた音で一変した。
「家出なんて子供みたいに!」
傘の下で、母さんがものすごい形相になってるのが見えた。
びっくりした。怒られた。殴られたのも初めて。
でも。
僕を僕として叱ってくれてる。唇がほころんだ。
母さんに悪いことをした。謝らなきゃ……。
「うん……ごめ――」
「あなたが私の側にいてくれるって言ったんじゃない」
母さんの傘を持った手が震えてた。
「あ、あの、お母さん。怒らないであげてください。ロルフ、本当に思いつめてたから……」
「どうしてあなたにお母さんなんて呼ばれなくちゃいけないのよ!」
叫んだ母さんの顔は、母親の顔じゃなく女の顔をしていた。
「どうして? どうしてあたしを置いて、どこかにいってしまおうとするの? 側にいてくれる……って、約束してくれたのに」
さっきまで温かかった雨が、急激に体を重く、冷やしていく。
気のせいだった。僕を見てくれてるってことが気のせい。結局僕を見てなかった。
そっと、手で頬に触れた。ぶたれたところが熱い。
どこまで行っても母さんは、きっと僕を探しに来る。僕を探して“僕”を殺しに来る。僕の側にいたいがために、“僕”を殺しに追いかけてくる。
僕の中で何かが噴き出す音がする。
――このままじゃ、殺される。
今までに無いくらいの真っ黒いものが噴き出して、僕の中から大量に溢れて一気に全身を飲み込んでいく。頭の中にあった母さんの笑顔、父さんの笑顔、僕の笑顔が、蝕まれていく。蝕んでいくのは、黒が生み出して広げていく、紅――
――“僕”を、殺される。
ポケットに入れっぱなしだったナイフを取り出して、刃を開いた。
――早く。早く……。殺される前に殺さなきゃ……。
ロルフ?
どっかから何かが聞こえてる。どっかの何かなんて今はどうでもいい。
母さんが何か小さな悲鳴を上げて後ずさった。母さんが取り落とした傘が風に乗って転がってく。
僕も母さんを追いかけて踏み込んでいく。
なにやってんのロルフ!
足は踏み込んだけれど、体が前に進まなかった。何かが僕の背中に纏わりついている。纏わりついてるそいつが耳の近くでわめいてる。どうやらそいつは僕の邪魔をしたいらしい。
何でなの。この人は僕を殺そうとしてるのに。殺さなきゃ殺されるのに。だめだよだめだよ騒いでる。何でダメなんだ、うるさいよ。
「うるさいよっ!」
纏わり付いて騒いでるそいつを振りほどいて弾き飛ばした。数歩先でへたり込んでた母さんに向かって駆けていって、ナイフを振り上げた。
だめぇええええ!
どうでもいいどっかからの叫び声。
ナイフを振り下ろそうとしたとき。僕の何もかもが一時停止。
背後に気配がある。殺意でも憎悪でもない。温度も感じられない空虚な視線に縛り付けられた。
後ろに、僕を飲み込もうとした闇が立ってる。
「アートのわからん奴がそんなことするな」
感情のない、黒いような低い声。強い力で腕をつかまれた。
「なっ……!」
振り解こうとする暇も与えられずに、母さんを殺したい意思とは関係なく、視界がぐるりと回った。
気づくと地面に寝ころんでいた。痛みも何もないが、軽く投げられたのだと理解する。
「お前は綺麗なんだから汚れることはするな」
――リグ……。
――何言ってんだよ。あんたなんかもう要らないんだ。殺してくれないんだから、もう……。
朦朧とした頭で、思う。
――なんで……ここにいるんだよ。あんた僕を僕だと思ってないだろ。なんで止めるの。でしゃばるなよ……。
「金を預かってる。その分の働きをさせてもらう」
彼は僕の頭の中を読んだみたいに答えた。
「まず口だ。お前を傷つける言葉が吐き出される場所を潰す。次にお前が欲しがってた“母親”の部分を食いつぶしている“女”の部分を排除する」
「……え……?」
「俺がお前を壊していくこの醜い人間をアートにしてやる」
彼は、起き上がりかけた僕の頭をくしゃくしゃっと撫でて、僕から離れた。
僕から離れた彼は、いつの間に盗ったのか僕のナイフを持っていて、そいつをポケットにしまった。代わりに、どこにもっていたのか鍔のついたでっかいナイフを手にしていた。腰を抜かしているらしい母さんが「ひっ!」と、か細い悲鳴をあげて何とか後ずさろうと脚を懸命にバタバタさせている。
このまま見届けていたら、母さんはリグの作品になる。リグは僕の願いを叶えてくれる。僕の呪縛を解いてくれる。
生ぬるい風が頬を撫でる。太陽の光がどこにも見当たらない。もうちょっとでリグと同じの闇色になる、夕方と夜の境の群青があたりを包んでる。
いつの間にか雨が止んでた。
なぜだか、名前を呼ばれた気がして空を見上げた。雲の隙間から月が出ていた。
満月だ。
まるいまるぁい満月が微笑んだ気がした。
満月がベースボールに使う白球みたいだと思った。
昔、父さんとキャッチボールをしながら約束したことを思い出す。
『母さんを守れる男になれよ』
それを言われて、僕は大きく頷いて約束した。それを、思い出す。
ずっと忘れてた。とても大切なことなのに。
なんで忘れてたんだろう。僕自身、強く願ったことなのに。
甲高い悲鳴が聞こえた。
「――ルフ! ロルフ!」
同時に、僕の名前を泣き喚いてる女の子の声がする。
目の前。リグがナイフを持って、震える母さんの前に立ってた。
「お母さん死んじゃう!」
悲痛な声で叫んでいるのは――パメラ。
――『母さんが、死んじゃう』――
声に弾かれて、
「だめっ」
小さく声が飛び出した。
ナイフが振りかぶられる。
「だめだ! 殺さないで!」
唐突な恐怖にもがきながら、自問自答する。
――なんで僕は一生懸命勉強してたの?
――なんで友達を無くしてまで“いい子”になってたの?
「殺さないで!」
地面を蹴った。リグの振りかぶっている腕に飛びついてぶら下がった。
「母さんを殺さないで! お願いだから殺さないで!」
がむしゃらに叫んだ。がむしゃらにしがみついた。
「絶対に殺さないで!」
空間が張り詰める。
何も起きない。静寂。
無意識に瞑っていた目を開いた。リグは腕を振り下ろしていない。僕のぶら下がってた足は地面についていた。リグの背中にパメラがひっついてる。
「なら……どうするロルフ。これからずっとこの女から逃げ続けるのか。それとも、この女の元に帰って今までの苦しみを繰り返すのか」
「え?」
彼の顔を見上げた。見上げてみても意味はなくて、やっぱり無表情しかない彼の顔を見ても、彼が何を思ってそんなことを言ったのかわからなかった。
「俺はパメラにお前の心を支えてくれと依頼された。この女を殺すこと自体は俺の仕事じゃない。俺はお前に心の平穏を与える義務がある。どうしようもできないというなら、俺は根源であるこの女を殺す」
髪の毛から滴った雨が目の上を流れていったけど、まばたきができなかった。
苦しみ。
このまま帰ったら、やっぱり僕は苦しみ続けるんだろう。
ぎゅっ。と眉間に力を入れて目を閉じる。瞼のスクリーンに映るのは、母さんの手で狭い箱に閉じ込められた僕が、押しつぶされてくちゃくちゃに潰されて、僕が紅く染まっていく、イメージ。
――それがどうした。
守りたい。僕はどうあっても母さんを守っていきたい。
そう、昔誓ったんだ。父さんに。
僕がずっといい子をしていたのは、母さんが壊れないように、母さんの心を守るためにしていたこと。僕が誓った自分の意思じゃないか。
大事なことを忘れてた。
母さんに喜んで欲しくて、《いい子》にしてた。母さんが喜んでくれるから、勉強もがんばった。母さんが悲しむから、友達をみんな押し切って、母さんが喜ぶことだけをした。でも、僕は“僕”で母さんを喜ばせたかったから、母さんが僕を見てくれていないって事に気づいたとき、何かがおかしくなって、大事なことを忘れてしまった。
瞼を開いて、答えた。
「僕は、母さんのところに帰る……」
このまま、母さんのところに帰ったら、“僕”は殺されるかもしれない。でも、母さんが生きてて、母さんが笑顔になってくれて、どんなことでも――“僕”に対してでなくても『ありがとう』と言ってくれるんなら、どんなに苦しくてもそのほうがずっといい。
大事な誓いを、約束を、思い出したから。
「そうか」
リグが呟いて、僕が掴んでいた腕をするりと抜いた。背中を押されて、一歩母さんのほうへ飛び出した。
「……ロル……フ?」
茫然自失しているらしい母さんの、震えている唇から僕の名前が聞こえた。
「俺には何一つ吐き出すものがないが……」
低い声に、首だけ振り返った。
「お前にはあるだろう、感情が。あるなら、お前が言いたかったことを素直に吐き出せばいい」
リグの後ろからパメラがひょこり顔を出して、大きく頷いた。
「俺に自分は自分だと言えたんだから、母親にも言えるはずだろう」
ずっと。言ったらダメだと思ってた。母さんが僕を見なくなったときから。そうしたら、何もかも壊れると思ってた。
母さんに、『母さんが見てる僕は“僕”じゃない』、なんてことを告げてしまったら、母さんが壊れて。壊れた母さんを見たら、僕が。何もかもが壊れるって……。
だから今まで怖くて言えなかったけど。怖くて、逃げてたけれど。今は、大丈夫。背中にあったかい二つの気配があるから。
呆けて僕を見上げる母さんの前に、膝を突く。
深呼吸をして、僕の中にある感情を吐き出す。――伝える。
「僕は、父さんじゃないんだ。でも、もうどこにも行かない。ずっと側にいるから……。僕は、母さんの息子だから……」
細い水の線が、やわらかく地面を叩いて繊細な音を奏でる。また、雨が降り出してた。突っ立ってる木偶の坊な街灯が瞬きしたあと、あたりを照らした。そいつが照らした細い雨は輝いて見えて、空から降臨したありがたい何かみたいに見えた。
でもやっぱりカミサマって願いを叶えてくれるような存在じゃない。あんなに強く願ったのに、僕の死体になりたいって願いは叶えてくれなかったんだから――
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