7 “嬉しさ”が僕の側にいる。

 何年ぶりだっけ?


 一番最近に家出したの。父さんと母さんが離婚することに対する最後の抵抗したときだから、たぶん二年半とちょっとぶり。まだ残ってたなんて思わなかった。


 ガキの頃悪友のみんなと隠れ家にしていた三階建ての廃ビルを、もってた懐中電灯で照らす。当時は廃ビルなんて今と比べると少なくて目立たない通りに立ってたこのビルを、みんなで隠れ家に決めて、何かあるごとにここに集まってた。


 ガラス扉を開いて中に入ると、死んでるエレベーターが鎮座している。そいつを無視してすぐ隣の階段をのぼる。最上階まで上がって、一番奥の部屋を目指し廊下を歩く。

 この突き当たりの部屋のドアを開けるのにはコツがある。だから僕ら仲間以外のヤツが入って来れなくて僕らの隠れ家になった。扉の開け方はモチロン誰にも秘密だ。


 いつもみんなで集まって外を眺めていた部屋だった。扉を開けると懐かしい空間が僕を迎え入れた。十人くらいが手足を広げて寝転べるくらいの広さの空間に、三人がけくらいのソファだけが鎮座していてる。昔の記憶とあまり変わらない。


 家出するたびにここに来てた。言ってみれば当時の僕の別宅だ。そうして、一日くらいたって寂しくなってきたら、父さんと母さんのどっちかが、ビルの下まで迎えに来てくれていた。もっと小さかった頃の迎えは二人いっしょで。案外楽しく三人で帰ってた。


 二人がケンカもしなくなって、話もしなくなって、何でもいいから二人に顔を付き合わせて欲しくて家出しだした頃は、迎えにきてくれるのは片方だけってことが増えていってた。迎えに来てくれてたのはいつも罪悪感を強く感じていた方だった。僕に、巻き込んでごめんねと謝ってくれて。父さんは、恥ずかしいって言ってるのにおんぶしてくれて、母さんは手をつないでくれて……。


 でも今は、きっと絶対誰も迎えに来てなんてくれない。父さんはいなくなったし、母さんは、今は昔の思い出話なんてまったくしない。昔の“僕”との思い出なんてとっくに忘れちゃってるから。だから絶対にこない。


 なんだろ。今なんだか無性に、父さんとキャッチボールがしたい。


 キャッチボールをしていて、一番幸せだった頃。父さんと何かとても大事な約束をした。した気がするのに、思い出せない。何を約束したんだっけ。なんで忘れちゃってるんだろう。


 憶えているのは、僕を迎えに来てくれた父さんが『なんで喧嘩しちゃうんだろうな。大事にしたいのに……』って呟いていたこと。父さんがそんな風に感じていることを、僕が母さんに教えられれば、父さんと母さんはちゃんとずっと一緒に好き同士でいられたのかな。


「……え? ……うそ……」


 部屋の端っこにクマのぬいぐるみが落ちてるのを発見した。

 あまりの衝撃に体がよろめいてしまった。


「あ……はははっ……。マジかよ」


 一回だけここにクラスのアイドルだった女の子を呼んだことがあった。ママゴトが好きでいっぱい人形を持ち込んできた。その時置いて行った一匹だった。


「ありえねぇ……なんで残ってんの? ……ははっ」


 僕の頭のネジがついに緩んだのか、笑いが止まらなくなった。記憶とくらべてずいぶんみすぼらしくなったクマを手に取った。

 当時はいっぱいバカやってた。近所のおっちゃんに『ハゲー!』って叫んで逃げたり、隣の学校のヤツとケンカしたり、女の子のスカートめくったり……。


 思い返したら、みんなと一緒だったからできた悪戯で、僕一人じゃ怖くてなんにもできなくて。僕一人で万引きなんてできるはずもなくて……。


 クマの頭を撫でたら、手が真っ黒になった。


 彼女は僕の初恋だった。長い髪が綺麗で、清楚に微笑んで、スカートめくったら罵声を飛ばしてくる他の女子とは違って、可愛い顔を真っ赤にしていじらしく恥らってた。パメラとはまったく正反対な女の子だった。


 ――パメラ――


 そうだ。パメラだ。彼女しかいない。きっと。僕を僕と見てくれるのは。彼女なら、見てくれる……。


 みすぼらしくなっても愛らしく能天気な顔をしたクマの瞳は、当たり前だけど生気が無いただの作り物。


「――――っ!」


 床にクマを叩きつけた。

 昔の思い出なんて、僕を見てくれないから。


 ポケットをまさぐって持ってる小銭を確認する。握り締めて駆け出した。階段を下りて建物の外に出た。降り始めた雨が冷たく刺さる。公衆電話を探して走り回る。すでに閉じられている店の前に目的のものを見つけて、握り締めていたコインを、少し震えてるせいで手間取りながら投入する。


 使ったことが片手で足りる回数しかないのにも拘らず、すっかり覚えてしまっている彼女のケータイ番号をプッシュする。


 もう深夜になる。きっと出ないだろうと思う。繋がらないと思う。迷惑でしかないと思う。

 そう思っても、僕は――


『ロルフ?』


 つながった。


『もしもし? ロルフじゃないの?』


 僕の耳をいっぱいにするのは、パメラの声。

 声が波になって、胸に熱い安堵を広げていく。

 何で僕だって分かったんだろう。こっちは声も出してないのに。こんな時間にかけたことなんて無いのに。

 ううん。どうでもいい。どうでもいいから――


「会いたい」


 自分の望みだけを、告げる。


「会いたいんだ。パメラに。……会いたい」


 彼女は僕の頼みを聞き入れてくれた。一度は突き放したのに、会ってくれると言ってくれた。

 雨が街灯に照らされて光っていて、綺麗だった。

 それだけで、満たされた。



    * * * *



 橋の欄干の上に座って彼女を待った。

 期待に胸を暖めて、その嬉しさで足が勝手にぱたぱたする。


 このまま後ろに体を倒したら死ねるかな、なんてことを考えてみる。僕、泳げないから落ちたら汚い水にまみれて溺れ死んじゃう。でも、実行なんて今はしない。できないんじゃない。したくない。死ぬよりも、彼女に会いたいから。


 昨夜の電話で彼女は、『今どこにいるの? 今すぐ行く』……って、言ってくれた。でもさ、レディをさ、あんな夜中に呼び出すわけに行かないじゃん? うん。パメラもね、一応女の子なんだし。だから、朝日が顔を出したら会おう、って約束した。

 初めはすぐにでも会いたかったけど、会ってくれるってわかったら安心しちゃって、こんな夜中に出歩くって言う彼女の方が心配になってきちゃって……。


 ――来た。


 人っ子一人通らない早朝を、太陽が照らし始める。そうして、橋の向こう側から彼女が歩いてくる。


 ――来てくれた。


 相変わらずのスポーティな格好で、大きな晴れ色の傘をさして。僕の姿が視界に入ったのだろう、彼女は目を丸めて、駆け寄ってきた。


「なにやってんのロルフ! ずぶ濡れ……」


 彼女が傘を差し出してきて、空が晴れ色で遮られる。


「いいじゃん。風邪引くような気温じゃないよ」

「そうかもしれないけどさ、傘ないならもっと濡れないとこで待ち合わせ――」


 ちょっとだけ笑ってみたら、彼女は口をつぐんだ。僕を心配して困った顔になってるのが可愛かった。


「雨が綺麗だから、見てたんだ」


 雲が落とす、太陽で光る無数の線が綺麗。その線が奏でる静かな音色が綺麗。綺麗な線が、汚れようとしてた僕を綺麗に洗い流してくれる。


「……ロルフ。お母さんから電話があって……ロルフのこと心配してたよ?」


 欄干から下りて、パメラに微笑んだ。


「僕ね、自由になったよ」


 母さんに、『束縛しないであげて』と抗議してくれた彼女に、呪縛は自分で解いてきたことを伝える。自由なんて、全てを捨て去ってしまえば手に入るんだ。


 パメラの顔を見たら腹が減ってるのを思い出した。早く食べないとかっこ悪くお腹がなりそう。


「朝ごはん食べた?」


 訊いたら彼女は戸惑った表情を浮かべて首を振った。


「じゃ、どっか食べにいこう」


 傘をもった方の彼女の手を引いて歩き出す。

 おおっ。なにげに相合傘じゃん。あれ? デートってもしかして初めて? つーか、僕らって付き合ってるっけ? よく考えたらそういう確信的な言葉はまだかわしてない。


「パメラ」

「なに?」

「好きだよ」


 躊躇いも恥じらいも無い。あるのはただ、言葉にした気持ちだけ。

 引いてる彼女の手の体温が、僕の全身を暖かくする。やっぱり僕の体は冷えてたみたいで、とてもそれが心地いい。


 しばらく無言だった彼女が噴き出した。ぎょっとして彼女を見ると、くつくつ笑っている。


「あーもうなにー? いきなり。なに? なんか狙ってんの?」

「狙うってなにをさ」


 掌で、とーん、と胸を突いてくる。


「憂いある美少年を装って、その下でヤラシイこと考えてんでしょー」


 そっちの方が十分ヤラシイっだろって顔で、しっしっし、と歯を剥き出して笑ってる。


 ――パメラだ。


「当たり。すっごい考えてる。僕の頭の中、えっちなパメラでいっぱい。好きなんだからしょうがない」

「も、バッカじゃないのー?」


 今度は肘で、傘から押し出そうとするみたいに突いてきたので、こっちも押し返してやる。けらけら笑いながら、またパメラが押し返してくる。

 自分の顔が緩みまくってるのが分かる。


 ――パメラだ。パメラだ。

 ――パメラが僕の側にいる。僕がパメラの側にいる。


「あっ」


 ふと唐突に、重大な問題があることに気づいた。


「金がないや」

「うわっ! 自分からごはん誘っといてカッコ悪!」


 猫達の家から出てきたとき必要最低限しかポケットに入れなかったから。居候するんだからまた戻ると思って置いてきてしまった。あまりにも無さ過ぎて今カツアゲられたら逆にカツアゲた人に申し訳なくなってしまいそう、ってくらいの貧乏っぷり。


「あのね。あたしもロルフ、大好きだよ」

「ふぇっ?」


 声が裏返った。罵声の後の愛情表現にドキンと胸が高鳴った。


「でも絶対おごってなんてあげなーい。あたしの恋はお金と比例しないのだー」


 ベー、っと愛情表現の後に小悪魔が舌を出す。うわぁ……。パメラだ。


 しょうがないからスーパーとかが開くのを待って、食品売り場の試食品を漁った。なんて安上がり且つ、おしゃれとは縁遠いデートなんだろう。最後になけなしの金で喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。


「ねぇ。これからどうすんの? 行くとこある?」


 パメラは本当に僕のことを心配してくれてるのか疑わしいくらい、見せ付けるみたいにでっかいビッグなフルーツパフェを前にしていた。


「そうだねぇ……」


 食い物はカバンに多少詰め込んである。何日持つかわからないそいつを食い尽くしてしまうまでになんとかしなきゃならない。


「あたしのうち、来る?」


 フルーツパフェを頬ばりながら、こっちを窺うみたいな目をしてパメラが言った。彼女は真剣に見えないときの方が真剣であることが多い……と思う。多分、まじめに考えて言ってくれてる。……自分の金は使わないが、家族に迷惑かかるのはいいのか。

 砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口すする。


「うん。それは最後の手段にしとくよ。ギリギリまで一人で何とかやってみる」

「寝るとこは? どうすんの」


 パメラの食べてるパフェが心底うまそうだったので、スプーンを伸ばしてみたけど避けられてしまった。

 ガキンチョみたいで微笑ましいのと、むかつくのとが半分半分。


 隠れ家に許可無く新しい友達を連れて行ってたら殴られてた。『お前、そいつは大事なやつか?』『ここはなぁ! 心が通じ合ったヤツしか入れちゃいけないんだぞ!』なんてこと言われてた。“じゃあ、お前らあのクラスのアイドルとは心が通じてたのか。ただ気を引くのに使いたかっただけだろうが”、なんて思ってたけど当時は殴られるのが怖くて突っ込めなかった。


「来る? 僕の隠れ家」


 すんごい埃っぽくてもいいならね。


 前置きしたけど彼女はついてきた。中に入っての第一声が「汚っ!」で、その次が「ちょっとまってて」。だーっ、と走って出て行く。言われたとおりちょっと待ってたら、どこで買ってきたのか掃除道具を持って帰ってきた。とりあえず二人してボロボロでみすぼらしいソファを座れるくらいに掃除して、終わったら今しがた綺麗にしたそこに落ち着いてみる。


 僕らはなんにもしゃべらなかった。ぼけっと天井を眺めてた。そしたら投げ出してあった僕の手に、パメラが手を重ねてきた。穏やかに、瞼が落ちてくる。そういえば昨日と一昨日はまともに寝てない。彼女がもたれかかってきたので、負けじとこっちももたれてやった。寄り添いあって、僕らは一緒に眠った。




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