6 リディア。
「お前が決めてくれ」
そう言って、リグが僕にメニューを突き出してきた。
昼食に誘って入った飯屋でのこと。
「え? そんなの食いたいモン自分で頼めばいいじゃん」
僕は戸惑いながら差し出されたメニューを受け取って開いた。
年季の入った風な店内はそこそこに席が埋まってる。
クーラーが利きすぎで寒いくらいなのに、白いシャツとジーンズに着替えたリグは相変わらずしっかりと前をはだけている。
「何かを食いたくなるってことがないから決められないんだ」
僕にメニューを渡したリグは、窓の外にぼんやりと視線を向けた。
「徹底してめんどくさい性格してるね、あんた」
自分はカツカレーとミックスジュースを頼んで、リグにはゲテモノくさい謎な名前の料理とデザートに『いま若い女の子に大人気♪』なんて書かれているふあふあクリームがのっかってる乙女でメルヘンチックでぷりちぃなケーキと、飲み物は健康になるので有名な緑のやつを頼んだ。
「じゃあいつもはどうしてんの、一人のときは。誰かが付いてなきゃ飯食えないじゃん」
「普段はローテーションを組んである。何曜日にはあの店で、何週目だからこのメニューって風に」
――うは。ホンットウにめんどくさい性格してる。
出された飯は予想をはるかに上まるゲテモノだったが、リグは表情一つ変えずに完食した。僕が人生で一度だけ呑んだとき、こんなの人間の飲み物じゃない、と思わせた緑のヤツも普通にコーヒーでも飲むみたいに飲むし、ケーキも乙女のためのもなのにかかわらず、むちゃくちゃビジュアルにそぐわないけどパクパク食べる。頼んだときは笑えると思ったけど笑えなかった。
なんだかこっちをちらちら見てるやつがいる。別に大の男がもしゃもしゃ乙女ケーキ食ってるのが気になるんではなさそうだ。どうも視線が危ない感じにアヤシイ。確かにリグは昼まっからセクスィーダイナマイツで目立つんだけど。なんか怖いなぁ。
店を出て、「帰って寝る」と言うリグと分かれた。また寝るのか。やっぱり猫みたい。ちゃんと活動してるのかな。
僕はやりたいことが――やらなければならないことがあって街の中を歩くことにする。
夏休みだからだとかあんまり関係無さそうだけど、ごちゃごちゃと有象無象と行き交ってる、ろーにゃくなんにょの流れに身を任せて歩いていく。街は腐敗臭と同時に煌びやかさが漂っていて、まだまだ寿命はつきそうにないって感じ。
道端でギターを持ったやつが熱心に純情な愛みたいなことを叫んで歌ってる。そこそこ人だかりができて注目を浴びてるみたいだけど、んなもんは今の僕の心に届くわけがない。僕は汚れなくちゃいけないんだ。
なんとなく目に付いた雑貨屋に入った。中では店員のにーちゃんがトチ狂ったカップル相手に四苦八苦していた。そいつを横目に見ながらゆっくりと店内を回る。
――ワルの基本ってやっぱりこういうことだよなー。
目の前の棚に並んでるボールペンセットとブサイクな猫のキーホルダーなんかをポケットに突っ込んだ。そ知らぬ顔してそのまま店を出る。初めてなのにちっともドキドキしなかった。ガキの頃みんなでやってたいたずらの方が断然に面白いと思う。
色気のない橋の欄干にもたれて汚い川を見下ろしながら、汚れることってどんなことだろうと思考をめぐらす。リグの”汚れ”の基準なんてわかんないけど、万引きなんてガキがお遊びでするようなことじゃ、殺してなんてもらえない。
でも、リグの手を刺すって最低条件をクリアできなかったんだから、ガキのお遊びからでもなんでもレベルを上げていかなくちゃ。
ウェッ。
なんだか胃が気持ち悪い。
食べ過ぎたなんてことはないはずだけど。胃の中が何かにかき混ぜられてるみたいに気持ち悪い。ポケットの中が熱を放ってるみたいに熱い気がする。気のせいに決まってるけど、無性に意識がそっちに行く。吐き気がした。
ウェッ、ウェエッ。
我慢できずに汚い川目掛けてさっき食べたカツカレーを投下する。
結局ポケットの中のモノを元のところに戻しに行ってしまった。
罪悪感。
汚れなきゃいけないのに、汚れないためのクソ下らない防衛本能が発動してしまったらしい。まだまだ犯罪レベル・ワンって感じなのに冗談じゃない。
めげずに店員がだらけてる店を狙ってもう一度トライしたけれど、店を出るとまたゲロって、すぐにとんぼ返り。繰り返す繰り返す。いい加減に吐くものがなくなってきてしまった。
著しく体力が低下の一途をたどっている。腹の中は空っぽだけど食欲がない。歩いてるといっぱい人の肩にぶつかってしまう。これだけぶつかってたらそのうちチンピラに『治療費払わんかい!』と言われるかもしれない。
「アナタ、死相が出てますネ」
チンピラじゃなく妙なカッコした異国風のオネーちゃんに声をかけられた。
髪はフードで隠れていてメイクとか服とが、占い師とか魔女とかみたいで、魔力とか変な力使って人を見透かしちゃいそうな感じ。道の端っこでよく分からないギラギラした小物を並べてる。売れるのか? こんなもん。
「死相が出てる? そりゃよかった」
「いけませんヨ。死んじゃうんですヨ?」
彼女はどこからともなく不気味な色の石が付いたペンダントを出して僕に突きつけた。
「開運のペンダントです。これでアナタは死にまセン」
「で? これ、どうしろっていうの」
「買ってくだサイ」
僕は思わず唸りながら首の後ろに爪を立てた。
「買わないよ。僕死にたいんだし」
彼女は目をパチクリさせて、僕の顔を凝視して何かを考えてる風だった。
「運などでは回避できナイ不幸ですカ?」
「そうだね」
「ダカラって死んではいけませんヨ。ならバこちらを買ってくだサイ」
次に彼女が差し出したのは小さいビニールに入った白い粉だ。
「シアワセなところにいける不思議な粉デス。どんな不幸な人でもいけると聞きましタ」
うわぁ……。彼女の言う粉がホットケーキミックスじゃないことくらいは僕でも分かる。彼女自身がブツの正体を理解してるかは怪しいんだけど。でもこれって犯罪レベル・ランクアップって感じじゃない? 中毒になったらどこまでもドロドロと堕ちていけそう。
だけど。これは本末転倒だ。
「自分が自分でなくなっちゃうのは困るんだよなー。僕は僕で死にたいの。ドーピングなんかしちゃいけないんだ」
不満の声を上げる魔女なおねーちゃんを無視して歩き出す。腹が減った。ハンバーガーでも食いに行こう。
あーあ。変な意地でまた汚れるチャンスをフイにしちゃったよ。殺してもらえる道まではまだまだ遠いや。
* * * *
食べたハンバーガーはゲロの味が混じってた。
今日はどうやらどうしようもないらしい。僕は前までと変わらない《いい子》ちゃんでしかなかった。しょうがないから猫達のところに帰ることにする。
猫の家に向けて、今からが本番、って風に輝く街の中を歩く。夜中の街を歩くのなんて今まであんまりなかったからちょっと珍しい感じにきょろきょろしてたらまた人とぶつかってしまった。飯を食ってフラフラを治したから普通に前方不注意でだ。
「……ってぇな、ガキ。どこ見て歩いて……」
ぶつかった相手はいかにもガラが悪そうな二人組み。ついに慰謝料請求されそうだ。もしかするともっとタチの悪いことをされるかもしれない。謝ったらエンジン全開で逃げようと決める。
「あれー。センパイ。こいつ昼に――」
片方が僕の方を指差して、二人してなにやらぼそぼそと話し始めた。
「はっ?」
とっとと逃げればいいのにうっかり脚を動かすことを忘れてしまった。
――なんなのこいつら。僕はこんなやつ知らないぞ。昼に、なんだ?
ぶつかったやつの連れの男が頭を腰の所に行くまで奇妙に体を曲げて、下から僕の顔を覗きこんできた。口の端にタバコを咥えていてすごく煙たい息をかけて「ほらほら」なんて言ってる。いつの間にかに、ぶつかった方のでっかいサングラスをかけた男と、連れの咥えタバコに挟まれていた。
グラサンが「おお、マジだ」なんて呟いて、僕の頭に手を置いてきやがった。
「かわいい顔してあいつの知り合いかよ。ダメでちゅよー。あんな狂人と付き合ったりなんかしちゃあ」
グラサンが僕の頭を撫で回しながら言うと咥えタバコがのけぞって、ヒャハハッ、とボルトが緩んでる声で哄笑を上げた。
「とか言ってー。センパイあいつ大好きじゃないっすかぁ。あいつと遊んだ礼がしたくてそいつに絡んでんでしょーに。直接礼ができないセンパイ乙女っす。きゃっ」
咥えタバコが今度は、キッキッキッ、と引き笑いになる。
毛穴が全開になる。
ヤバい。マジにヤバい。なんかよくわかんないけど間違いなくこいつら僕に何かやばいことしようと考えてんじゃん。
リグを恨んでて僕に八つ当たり? とにもかくにも一刻も早く逃げなきゃならない。
「おにーちゃん。ぶつかっといてなんもないって礼儀に反するっしょ? な? 慰謝料代わりにちょびっとだけ俺らとあそぼーよぉ」
グラサンの猫なで声に背中にタランチュラが蠢きまわってるんじゃないかってな悪寒が走り回った。
力任せにグラサンの足を思いっきり踏んづける。
「痛ぇえ!」
苦痛の叫びを上げたスキにエンジン全開一目散によーいドンした。
やだやだやだやだ! こわいこわいこわい! おまえらなんかと遊んでたまるか!
なのに全力で逃げたのに、逃げたいのにすぐに追いつかれる。
「やーですねぇ。逃げるなんて。一緒に楽しいことしようって言ってるっつーのにさぁ」
組み立て終わったらネジが余っちゃったみたいな声で笑う咥えタバコに背負ってたカバンをつかまれた。とっさに腕を抜いて逃げようとしたけどあっさりと腕を捕らえられる。
でたらめに叫んで助けを求めてみるけど通行人はなんかうるさいなぁくらいにしか振り向いてくれない。担ぎ上げられ路地に連れて行かれて放り出された。袋小路になっていて逃げ場がない。
すぐにすりむいた手を突いて起き上がって「なめんなこんにゃろ!」腹めがけて蹴りを出したら、油断していたらしくみぞおちに入って咥えタバコがタバコを吐き出した。隙を与えず両手をハンマーにして元咥えタバコの頭に振り下ろして、地面に這いつくばらせてやった。
――誰が筋肉までノーミソだってのっ。昔はそれなりにヤンチャしてたんだっつーのっ。
荒れた息を整える間もなく急いで袋小路を出ようとしたら、出口にグラサンが立っていた。
一瞬ひるんでしまった隙に、元咥えタバコが起き上がって、余裕満載って感じでタバコを取り出して咥えた。クヒャアハッ! ネジが余っちゃったからどっかの部品が取れちゃったんだろう笑い声を出す。
「もうここでヤっちゃうっすか? どうせ誰も気にしてないでしょ」
首筋に煙がかかる。グラサンが右に左に揺れながら、焦らすためかえらくスローな歩きをする。
「ひっ!」
復活の咥えタバコに羽交い締めにされた。
「放せっつんだよこの野郎!」
グラサンが目の前で足を止めて、ニヤリと気持ち悪く笑った。
「うわぁああああああああ!」
近づいてきたグラサンの腹目掛けて蹴り上げたが、あっさりと止められてしまった。
「あああああああああああああああああああああ!」
気が狂ったみたいに喚き散らした。喚いても、路地の外――数メートル向こうで切り取られた細長い間を行き交う人々は、空間が違って存在してるみたいにこちらには意識を向けてくれない。
クソッタレ! 人間なんてみんな死んでる。
どうでもいい人間ならば優しさも同情もない。嘲笑することすらもしない。面倒に巻き込まれないために心無い人形に成り下がりやがるんだクソッタレ!
「なんだよ! それなら一思いに殺せよ! 殺してグチャグチャにして、目立つとこに飾ってくれるんなら何でもしてやるよ!」
――カミサマ。これって僕にこいつらに殺されろってことなの? 死体になりたいってのを叶えてほしければ、こいつらのオモチャになれってことなの?
グラサンはおいしいモノは最後に食べるタイプらしくのんびりしてるけど時間の問題だ。焦燥に任せて全力で暴れるけど外れない。ちくしょうちくしょうちくしょう!
「あっ……」
首筋で咥えタバコが声を上げた。
空気が、地面にペンキのバケツを倒したみたいにさっと色を変えた。
――あ……。
咥えタバコがたった一文字だけ発した声が、明らかに震えていると分かる。羽交い締めしている腕が緩んだ。同時に路地の中に濃い影が広がる。
笑顔だったグラサンが一瞬で僕の視界から掠め取られる。さらわれていった方を見ると壁に叩きつけられていて、かけていたグラサンが粉々になってた。壁に血をこすりつけながら崩れ落ちていく。
「……ぃ……あ…………」
咥えタバコの気配が一歩一歩後ろに下がっていく。
僕の横を影が通ると、咥えタバコの「やめっ」って声を、ゴシャ! って音が潰した。
イカれた空気を掻き消して、変わりに歪んだ空気が全てを喰い潰した。
――なぁ、カミサマ。あんた一体何がしたいのさ。
街の喧騒が静かに広がる。
振り向くと、咥えタバコが地面に這いつくばっている。その手前に、黒いズボンを履いた脚があった。見上げると、真っ黒いスーツの背中があった。“闇”が立ってた。
なんで彼がここに立ってるんだろう。カミサマ、あんたが連れてきたの?
僕の中に安堵はなくて、ただ、混乱だけ。
何で彼は僕を助けてくれたんだろう。殺してくれないくせに、何で助けてくれるんだよ。
でも、僕の方を振り向いたそいつはリグじゃなかった。僕を見る瞳が大きく見開かれていて、涙が流れてた。厚い唇が震えていて、「……ア、……ァ……」と、少し開いた隙間から声が漏れてる。
間違ってもリグはこんな表情はしない。
「リ」
一歩僕のほうに踏み出した“闇”が、崩れるように膝を突いた。
「リディア」
熱い息をこぼすとともに、僕の体に覆いかぶさってきた。
「リディ……ア、リディア……リディ…………ア……」
唇から最愛である存在の名前を次々と溢れさせて。
僕を抱きしめる手も、腕も、僕の顔が埋まっている胸も。僕と彼が接している全てが震えている。
「…………リグ?」
壊れてしまいそうな彼を、壊さないように、そっと声をかけた。
すると、彼の体がびくりと大きく震えた。
「……リ……ディア……あ、あ、ああ……。ぃや……! やぁああぁぁぁ…………!」
肩に彼の爪が食い込んでくる。彼の涙が僕の髪を濡らしていく。
――なに……? これ……?
全身から感じるのは、怯えや寂しさ。絶望や孤独感。そんな言葉じゃ――どんな言葉でも言い表すことなんかできない、どこまでも深く真っ暗に塗りつぶされた痛み――
襲われる僕を見て、思い出したのだろうか。
唯一喜びをくれた存在が、死ぬところを。殺されるところを。
「リグ」
もう一度彼に呼びかけた。反応はなく、嗚咽だけが返ってくる。
「リグ……」
彼は――リグはきっと、泣いてやれなかったんだ。泣いてやる前に、心が死んじゃったから。遅れてしまったけれど、泣けるのなら、今からでも、いっぱい悲しんでやればいい。
そう言ってやろうとした。彼の苦痛をほんの少しだけでも取り除いてやらなきゃいけない。
――けれど、だけど……僕は――
全身を、母さんと話すときと同じドス黒い何かが僕を支配していく。僕の中で広がっていく黒い何かが、僕の全てを飲み込んでいきそうで――――怖かった。
「リグ!」
手が勝手に彼の体を突き放していた。
「僕はリディアじゃない!」
言葉がほとばしった。僕の口から。
今言うべき言葉じゃないことなんてわかってる。今言ったら彼の傷を深くすることだってわかってる。なのに、だけれど、許せなくて……――
僕は僕でいたい。僕は僕だ。僕に僕と違う何かを重ねないで!
「リディア」
突き放してもまた腕が伸びてきて、もっと強く、痛いほどに抱きしめられる。彼の悲しみが僕の全身を包んでくる。
「違う! やめろよ!」
腕の中でもがいても、彼は放してくれない。押し殺した泣き声が咆哮じみた声に変わっていく。僕を僕と認識するのを拒むみたいに。
「放せよ! 僕は――僕はロルフなんだから!」
叫んだ。
叫んだら、彼の全てが停止した。
彼の悲痛の叫びも、僕を抱きしめていた腕の力も、彼の涙も。
彼の体を押したら、何の抵抗も無くころりと倒れた。死体って多分こんなの。
彼の顔は、涙とハナミズとヨダレでぐちゃぐちゃに濡れていた。
路地の外で――縦に切り裂かれてる世界の向こうで、僕らとは関係ない罵声や歓声が通っていく。僕はこっちの世界でただ、じっとして、呆けてしまったリグの顔を眺めてた。
見開かれていた瞼が痙攣して、一度瞬きした。
「……リグ?」
声をかけたら、厚い唇が、微かに動いた。
「……ろ……る…………ふ……?」
虚ろな黒い瞳が動いて、やっと、僕を映した。
「……うん……」
返事を返したら、焦点は合ってるのに空虚な、いつもの彼の瞳に戻った。
体を起こしたリグは、服の袖で濡れた顔を拭う。
「リグ……」
「ん」
返事を返してきたリグは、もうすでにいつものリグで、無表情で……。
「初めて会ったとき、キスしてきたの、僕をリディアに重ねてたからなの?」
泣き疲れたせいなのか、欠伸なんかしやがる。
「かもな」
何のためらいもない答えに、涙が頬を走った。
「……ありがと」
だるい体を何とか引き上げて立ち上がる。
「もうあんたに殺してなんて言わない。あんたに僕は殺せないって分かったから。いままでありがと」
そのままリグに背を向けて、袋小路を出ようとした。
「おまえ」
彼の声に思わず足を止めた。
「猫の家に金を置いたままだったろ。あれでお前のボディガードを頼まれた」
「なにそれ」
僕はそんなこと頼んでない。他にそんなことを頼むやつもいるわけない。きっと、リディアに似た僕を引き止めたくてそんなこと言ってんだ。
「うそつき」
放り出されていたカバンを拾って、僕はリグを置いて、“こっちの世界”を後にした。
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