5 焼きついてる紅い色。

「おつかれー」

「じゃ、また来週もよろしくね番長」


 玄関で手を振ってみんなを見送る。

 笑顔で誰かを見送るなんて、また会えることを楽しみにするなんて、ここ数年なかったことだ。

 嬉しさを噛み締めながら自分の部屋に戻る。みんなに出して散らばったお菓子なんかを片付けにかかった。すると足が何かを蹴ってしまって小さな騒がしい音がした。


「あれ?」


 テーブルの下を覗き込むと誰かのペンケースが落ちていた。水色をした布製のこれは……確かパメラの。どうやら忘れて帰ったらしい。


 ペンケースなら次にきたとき渡せばいいだろうか。でもまぁまだ出て行って時間はたってないから追いつける。それに――今追いかけたら二人きりになれるかもしれない。

 なんてよこしまな考えが頭をよぎった途端、自分ってホント大好きだなーはははー、なんて頭の中で笑いながら僕は部屋を出ていた。


「かあさん。友達の忘れ物あったからちょっと届けてくる」


 と、キッチンの方に声をかける。だけど返事が返ってこない。

 おかしいなと思って覗いてみると、昼食を作っていた母さんは返事をせずに手を洗い出した。そして母さんはエプロンで手を拭きながら、瞬間ほどの時間も惜しむように足早に僕の目の前までやってきた。


「ロルフ」


 頭に、そっと手を置かれる。


「あの子達と付き合うの、やめなさい」

「――え?」


 頭の後ろから全身に、変な痺れが広がっていく。

 母さんが、優しく微笑んで、優しく頭を撫でてくる。僕の猫っ毛の感触を楽しんでるみたいに、なんども。


「な、なんで? 母さん、喜んでくれてたんでしょ?」


 母さんの優しい笑顔に混乱する。

 優しくて、儚げで、崩れてしまいそうな――


「ロルフが『一緒に勉強する友達だ』……って言ったから許したの。だけどあの子達、あなたの足手まといじゃない? どうしてあの子達が頭の悪い子達だ、って教えてくれなかったの。だめよ。あなたのレベルが下がってしまうもの」


 背筋を悪寒が這い上がる。見開いた母さんの目が、光を映さなくなっていく。僕を、映さなくなっていく。


「とくにね。あのパメラって子。あなたをたぶらかそうとしているでしょう。見ていれば分かるわ」


 母さんが、僕の頭を自分の胸に導いて、抱きしめる。


「ちがっ……! かあさ……ちがっ……」


 ちがうんだ。みんないい奴らで、みんながんばるから自分もがんばろうって思えるんだ。死なないで、生きていこうって。パメラがいるから……。


 伝えたいのに、想いが口から出ようとしてくれない。


「いやよ。女のところへ行かせるなんて。あなたを放すなんてしないわ。今までも、これからも、ずっと……。ずっとあたしの側から離れないでちょうだいね」


 僕の手からパメラのペンケースが落ちて、中身が悲鳴を上げた。

 喉が干上がって背中に汗が伝う。優しくやわらかい腕の中で自分の母親に怯えた。なのに逃げようとか文句を言おうとか、全然なくて。自分から体をゆだねてた。

 暫く母さんの鼓動に耳を傾けていたら、金縛りが溶けたみたいに声が出るようになった。


「ごめんね、母さん」


 ただし、自分の意思とは関係のない声が。


「しんぱいかけちゃった。ごめん。もうみんなとはつきあわないから」


 そして無意識が、僕の腕を母さんの背中にまわさせる。


「そう。いい子ねロルフ」


 母さんが心の底からの安堵の声を漏らす。僕を抱きしめてる腕に少し力がこもる。何故生まれたのかわからない熱に胸をかき乱される。自分の腕にも力がこもって母さんを抱きしめた。

 呼び鈴の音が軽快に響いた。

 母さんが僕から離れて玄関に向かう。支えを失った僕はそのままへたり込んだ。


「あ、おばさま。すいません。忘れ物しちゃって取りに戻ってきました」


 母さんが開いた玄関の扉の方から、パメラの声がした。母さんが僕を呼ぶ声がしたから、さっき落としたペンケースを拾い上げて、玄関に行く。

 母さんが体を避けて忘れ物を渡すように促す。

 腕をできる限り伸ばして、ペンケースをパメラに突きつける。彼女に極力近づかないようにしている自分。

 そんな僕に少しだけ訝しげに眉根を寄せて彼女は「あ、ありがと」と受け取った。


「ごっ。……ご、めん、ね」


 勝手に口が開いていた。

 パメラが首をかしげて頬に人差し指を当てる。


「なにが?」


 彼女のしぐさは愛らしかった。それに反して、しゃっくりみたいに、言葉が出てくる。

 止められない。


「もう……君ら、に、べんっ……きょう、おしえてっ、あげっ、られな……い」

「へっ?」


 パメラは戸惑いが浮き出た半笑いで凍りついた。

 母さんが僕の肩を抱きしめて、僕の話の続きを請け負った。


「ごめんなさいね。このこにはこのこの勉強があるからとても忙しいの。今までロルフと一緒に勉強してくれて、ありがとうね。でも、もうあなた達にはついてこられないでしょう?」

「ちょっ……!」


 パメラが、目玉が零れ落ちそうなまでの驚愕の表情で一時停止する。何か言いたいんだろうが、口をパクパクさせているだけで声が出ていない。そんな彼女の肩を母さんがそっと押した。


「それじゃあ気をつけて帰って。みんなによろしく伝えておいてね」


 玄関から押し出そうとする母さんの手を振りほどいて、パメラが叫んだ。


「ちょっとまってください! ロルフを束縛しないであげてください! ロルフは今でも十分がんばってるし、みんなと一緒にいると楽しそうに笑うの! 今までのロルフじゃそんなの見れなかったのに!」

「ええ。確かに楽しそうに笑ってるかもしれないわね。でも、それがいけないの。それがお勉強の妨げになってしまうの。わかって頂戴」

「ロルフ!」


 強引にパメラが腕を掴んできた。


「行こう、ロルフ! 今からみんなのところに。ロルフもみんなと一緒にいたいでしょ? だったらあんたもなんか言ってよ!」


 必死な顔して、目に涙を溜めて、彼女は僕に懇願していた。

 僕のために、僕に懇願してくれてた。

 彼女の手を取って、今すぐ一緒に走っていきたかった。

 僕を僕として見てくれる、みんなのところへ。パメラと一緒に。

 なのに。


「ごめん」


 僕は彼女の手を振り払って、隣の母さんの腕を掴んだ。


「ごめん。だめなの。ぼくは母さんのそばにいなきゃダメなの。いないとだめなの。だからごめんね」


 彼女の目に溜まっていた雫が彼女の頬を流れ落ちた。


「いくじなし!」


 僕に背を向けて、彼女は玄関を飛び出した。


「ロルフのマザコン!」


 悲鳴じみた、涙混じりの叫びを残して彼女が遠ざかっていく。遠ざかっていってしまう。


「パメラ……」


 今更僕はドアのところまで駆け出して、彼女の姿を追おうとした。だけど彼女の姿ほもうどこにもなかった。

 背中に、母さんの気配がまとわりついた。母さんの、僕を通しての“父さん”への大好きが伝わってくる、優しい抱擁。


「ありがとう。側にいてくれるって言ってくれて。あたし、とても嬉しいわ」


 止められずに涙が落ちた。嗚咽混じりに泣き続けた。立っていられなくなって、母さんの体に自分を預ける。母さんは僕を受け入れて、頭の天辺にキスをした。

 胸に広がるのは安心感。悲しさでも悔しさでも寂しさでもなくて。


 ――なんで?

 ――なんで?

 ――なんで! なんで! なんで!


 矛盾しまくってる自分に頭が痛くなってきて、母さんを振りほどいてトイレに駆けこんだ。そして涙と鼻水まみれになりながら、喉に這い上がってきた汚いそれを吐き続けた。



    * * * *



 母さんが、紅い絨毯にしゃがみ込んでいた。

 なんだか小さな女の子みたいに見えた。

 足元に転がる紅い何かを興味深そうにじーっと眺めている。

 母さんの足元に転がってるその紅い物体は、紅い何かを絶え間なく吐き出していた。


 おかげで、母さんがしゃがみ込んでる絨毯がどんどん広がってる。

 僕は母さんに近づくために一歩踏み出して、絨毯を踏んだ。


 ぴちゃっ。


 広がっていく絨毯から水音がした。

 母さんは僕が出した音を気にしなかったのか、聞こえなかったのか、何の反応も示さなかった。


《――この人、血なんか通ってないのかと思ってた。だってとても冷たかったのよ。だからあたしもなに言ってもいいと思ってたの。なのに、こんなに……熱いの。血がたくさん。たくさん流れて止まらないの……――》


 母さんは、あふれ出る紅を止めようとでもしているのか、手で、紅が吹き出てくる穴を押さえた。

 違った。

 手を離して、その手で顔を覆う。


《――あなた。ちゃんと生きてたのね――》


 その紅の感触を堪能したいのか、

 母さんは、紅が溢れ出る穴に顔を埋めて、


《――ごめんなさい――》


 呟いた。


《――ごめんなさいごめんなさい。あなたのこと、ちゃんと大事にするから。側にいて。死なないで――》


 ――母さん?――


 声をかけたけど、母さんは泣きじゃくり続けていて、こっちを見てくれない。

 近づいて、泣き続ける母さんを慰めようと頭に手を置こうとした。

 でもできなかった。

 手には何も感触が感じられず、母さんの頭にめり込んだ。

 たぶん立体映像に手をかざしたらこんな感じ。

 母さんは僕の存在に気づかない。声も聞かない。

 紅を吐き出す穴に顔を埋めて、ずっと泣いている。

 僕に気づかないで。

 ずっとずっとずっと……――――








 目を開いたら涙で顔が冷たかった。

 まだ夜は明けていないらしくて何も見えない。母さんが天井に張った星座のポスターも見えない。ほっ、と、溜息を吐いた。


 上半身を起こして、タオルケットを丸めて抱きしめた。頭を空っぽにして、しばらく涙が出るのに任せた。


 音を立てないようにして、そっと絨毯の上に足を下ろす。真っ暗でも歩きなれてる自室を、忍び足で机の所まで移動した。机のスタンドライトをつける。仄かな明かりを頼りに引き出しを慎重に開けて、しまってある参考書なんかをどけると、憧れのベースボール選手の写真が出てくる。それをさらに退けて、奥のほうに閉まってある黒い長細いやつを手に取る。


 ずっと昔、当時の悪友にもらった折り畳み式のナイフだ。あいつはまだヤンチャしてるってうわさ聞くけど、元気に楽しくやってるんだろうな、と思うとちょっとだけ頬が緩んだ。


 刃を開いて、ライトを反射する銀色を眺める。


 母さんの目に父さんが焼きついたのは、父さんを轢いてしまったその時。

 まったくの偶然だった。母さんが僕と一緒に親戚の家へ遠出した帰り、交通事故を起こした。被害者は父さん。父さんは離婚して以降、ずっと酒浸りでその日も昼まっからヤケ酒してフラフラしてたらしい。


 即死ではなかったけれど酷い有様だった。事故を起こした母さんは、相手が父さんだと気づくと病院に連絡することも忘れて泣きすがってた。救急車が来るまでずっと。


 病院に着いたとき、母さんは手術室の前で体に付いた父さんの血をそのままにして、ベンチに座ってた。

 そして僕に言ったのか、独り言だったのか、真っ赤な自分の手をぼんやりと見つめながら、ひとつの声を落とした。


『あの人って、ちゃんと生きてたのね』


 以来、母さんは僕と父さんと似ないように遠ざけていたのに、僕に父さんを重ねるようになって。


 母さんの中で何が起こったのか知らないけど、きっと、父さんの“生きてた証拠”が母さんに父さんの存在を焼き付けたんだ。

 血が、母さんに存在を焼きつかせたのなら……なら、僕も…………――


 ゆっくりと、銀色の刃を喉元に当ててみる。冷たくて気持ちよかった。

 このまま自分に突き立てたら、頚動脈が切れたら、派手に血が噴き出して、僕を父さんにしようとして母さんが飾った物達も一緒に血に染まって、紅くなって、朝、下に降りてこない僕を心配した母さんが部屋に入ってきて、そしたら、そしたら――

 ――そしたら、母さんが、死んだ僕に駆け寄って泣きじゃくるんだ。僕に謝ってくれる。あなたを父さんの代わりにしてごめんなさい。あなたに私の理想を押し付けてごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――


 なぜだろう。

 ここまで自分の頭の中で鮮明に想像できるのに、手が実行に移してくれない。

 ナイフを握っている手から力が抜けて、椅子のクッションの上に落ちた。

 なんでできないんだろう。死にたいのに。母さんに僕が生きてる――血が通って動いてたってことを見せてやりたいのに。


 怖いのか? 全然、体が震えてることもないのに。

 ただ、自分の目から、自分の死体を見つけた母さんの想像図とおんなじに、涙が流れてるだけで。


 手の甲で涙を拭う。パジャマを脱いで着替える。闇にまぎれるようにできるだけ濃い色をした上下に。机の引き出しにある小さな金庫の暗証番号を回して開ける。父さんが家を出て行った頃からほとんど使ったことのない小遣いを、財布に全部ねじ込む。椅子の上のナイフをたたんでポケットにねじ込んだ。


 リュックを持って一階に降りる。できるだけ静かに。自分が猫だったら良かったのにと思う。

 キッチンの冷蔵庫を開けてリュックに適当に詰め込む。棚に置いてあるお菓子なんかもいっぱい。

 玄関に行って鍵を開ける。――カチッ。静寂に僅かに音が響いてしまったけれど、気にしないで扉を開け、外に出る。母さんが音に気づいてこっちに来る前に行ってしまえばいいわけだから。音が鳴らないように扉を閉め、鍵もかけずに走り出した。


 カミサマ。やっぱり僕は死体になりたいです――


 自分で死ねないなら、やっぱり彼に頼むしかない。もう家には二度と帰らない。帰るときは死体でだ。必ず自殺ではできないアクロバチックな殺し方をしてもらおう。

 父さんよりも母さんの目に張り付くように、印象的に殺してもらわなきゃいけないもん。



    * * * *



 夏だけど、むき出しの腕にはまだ少し肌寒い早朝。始発の電車に乗って彼の住処に向かった。

 はじめてきたときと同じでいつも使う裏口から屋敷の敷地に入る。薄暗い空の下、ほとんど森になってる庭を猫の家目指して歩く。でも《仕事》に行ってるのだろうか。リグは猫達の家にいなかった。仕方ないから待つことにする。


 あいかわずリアクションのない猫達にかまわずベッドに寝転がってみた。

 手を伸ばすと思いっきりはみ出してしまう。体勢を行儀良くして目を閉じようとしたとき、人間用の扉が開いた。


「あ、おかえり」


 リグは初めて会ったときと同じに素肌に黒いスーツを着ていた。目の前の人物がおそらく人一人殺してきてるんだろうに、僕の中にあるのは恐怖の類じゃなくて、期待みたいな高揚感だけ。


「今日、《仕事》したのって、どんな人?」

「二十人くらいってる快楽殺人者」


 彼はいつものように服を脱いでベッドのパイプにかけて、僕が寝転んでるベッドの脚のほうにケツの端っこを乗せて座った。僕の足が邪魔だろうから起き上がって床に足を下ろす。


「お、おつかれ」


 彼は無言でベッドに寝転んだ。顔を見ると既に目を閉じている。

 この人は帰ってきたらとりあえず寝るんだ。人の話も聞かないで……。

 夜来ても昼来ても朝来ても寝てるなんて、実はリグも猫なんじゃないだろうか。

 僕はベッドの下に置いてあったカバンから財布を取り出して、中身をリグの顔の前に置いた。


「二十万あるよ。これで僕のことあんたの手で汚して」


 ちょっと高いテレビくらいなら余裕で買えてしまう額だけど、リグにとっての依頼料として相応なのかはわからない。

 リグはしばらくボケーっと、眠そうな顔して二十枚の紙幣を眺めてた。


「工場廃水でもぶっかければいいのか?」

「じゃなくてさ」


 リグなりのボケなのだろうか。


「もっと具体的に要求を言え」

「僕を、リグが殺したくなるような人間にしてって言ってるの。強盗ができるような、人を殺せるような人間にしてって。そうだ。あんたの《仕事》に連れてってよ。手伝わせてよ」


 体を起こした彼はどこから取り出したのか、手にはナイフが握られていた。一瞬びくりとしてしまったが、リグは僕にそいつを渡してきた。

 僕に手伝わせてくれるってことかな、と思いながら受け取ると、リグは立ち上がって、小さなテーブルの前に行く。彼はそこに自分の手を置く。


「そのナイフで俺の手を刺してみろ」


 え……?

 なに言ってんの? え?


「人の手を刺すくらいできないのに、人殺しができると思うか?」


 え、でもだって。その手はリグの手じゃんか。

 受け取ったナイフの刃はかなり大きい。刺したら、もう二度と手が使えなくなるんじゃないかと想像してしまうほどに大きい。でもそれをしないと、リグが僕を殺してくれる道、その入り口にも立てない。そう言われている。


 僕はテーブルの所まで歩みを進める。テーブルに置かれた、リグの大きな手を見る。リグは微塵も動かない。


 猫たちはのんびりとしている。僕がそれを実行したら、リグが大変なことになるなんて夢にも思ってないみたいに。


 実行する……。リグの手を刺す。僕を殺してくれる道。そうだ。刺さなきゃ、殺してもらえない。


 ナイフを振りかぶって――震える。まだ刺してないのに目の前が真っ赤になる。

 刺したら、血が出て、絶対に痛くて、痛くて、さすがのリグだってのたうちまわるくらい痛くて、痛くて痛くて痛くて痛くて…………!


「ひっ!」


 喉の奥が痙攣してひきつった声が出た。手に力が入らなくなってナイフを落とした。


「やだぁあああ!」


 ナイフと床とぶつかった音がなんだかとても怖くて叫んだ。

 部屋の端っこまで逃げて荒れた呼吸を整える。


「キャンセルか?」


 うっかり半泣きになって何度も頷く。


「キャンセル……して、くだ、さい」


 足がガクガクして立っていられない。壁に預けた背中がズルズル滑っていってケツが床に到着する。怖い。びっくりするほどに人を刺すのが怖い。

 リグが頷いて大あくびをかました後、パタリ。やっぱり寝た。――クソッタレ。


 無力感と敗北感がごちゃ混ぜになって全身に広がってく。


 どうやったら僕の頼みを受け入れてくれるのか。どうやったら彼を動かせるのか。どうやったらこの感情のない男を頷かせることができるのか。


「なんだよ……。なんなんだよ、あんたは! 何で殺してくれないの! いいじゃんか、そんなこだわんなくたってさ! あんた、感情ないなんて言うんなら誰殺したっておんなじはずだろ!」


 湧き上がってくるのは自分でも自覚のある八つ当たり。

 叫んだ僕に反応して眠っていた猫がちょっとだけ目を覚まして、すぐまた目を閉じた。


「言っただろ。汚いモノを潰してやりたい。感情が、それだけ残った。汚いモノを血で飾って綺麗にしてやる。もともと綺麗なやつにはその必要がない。一つだけ残った感情を、俺は自分で裏切れない」


 彼は寝返りをうって僕に背を向けた。

 怒りの風船の口が開いて、しゅうしゅうとしぼんでいく。ぐうの音が出てしまった。


 一つだけ残った感情を大切にしたい――


 そんなこと言われたらなんにも言えないじゃんかよチクショウ……。


 立てた膝に肘を乗っけて、首の後ろに爪を立てる。溜息を吐く。なんだか家で吐く溜息と違って、一回で胸に沈殿しているモノを吐き出せたみたいだ。自分の顔に苦笑いが浮かんでるのがわかる。


「善人殺せなくて、悪モンだけ殺すって……なんか正義の味方みたいだね」


 天窓を見上げると、朝日がまばゆく部屋を照らしてる。


「人を殺してるんだ。正義のわけがないだろう」


 珍しく、彼の声に憤りみたいなモノが混じってる気がした。ただの気のせいで僕に背を向けて話しているからそう聞こえるだけかもしれないけれど。

 あふっ、と彼からあくびする音がした。


「ごめん。僕うるさいよね。……おやすみ」


 言った時にはすでに彼は穏やかな寝息を立てていた。――早いなぁ……。

 彼のあくびがうつったのか自分も大きいやつが出た。僕も寝るかな。もう朝なんだけど。

 目を閉じた。床に寝転ぶのは抵抗あったから座ったままで。体勢も体勢だしリグみたいに一瞬では眠れなかった。


 そろそろ起きたかもしれない母さんは、僕がいないことに気づいたらどうするだろう。やっぱり父さんとの思い出の場所に探しに行くなんてことをするんだろうか。

 なんにしろ、あの人にはもう会わない。

 リグに殺してもらうために、今日から思いっきり汚れてやろうと思った。



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