4 パメラって意外と読めないことをやってくる。

 次の日も僕はとりあえず生きている。


 とりあえず母さんの作る朝ご飯を食べて、とりあえず学校に向かうための電車に乗って、とりあえず授業を受けて。

 とりあえず今日の授業を全て終え、学校を出る。


 本気で死のうと思っているのに、なんにもない、本当にただの日常な一日だった。


 塾に行く前に猫達のところへよって行こうと思った。ちょっと行って、だめだったらすぐに塾に行く。何度でもリグに頼み込んでやるし、猫たちにも会いたい。

 あの場所に目標を向けて駅までの大通りを歩く。

 すると目の端っこに見覚えのある陰が引っかかる。通りを挟んだ向こう。スポーティで、肩掛けカバンを背負った、一瞬男に見間違えるような女の子。――パメラだ。


 彼女は何か挙動不審気味であたりに視線を飛ばしていた。なにやってんだろう、と見ていたら、車が通って目隠しされる。通り過ぎたときにはもう彼女はいなかった。どうやら路地に入って行ったらしい。

 別に彼女の行動がなんなのか調べる必要なんてないけれど、道を渡って彼女が入っていっただろう路地を覗く。と、しゃがみこんでる彼女の背中を発見した。


「何やってんの、番長」

「えっ! あ、ロルフ!」


 彼女の足元には段ボール箱が置いてある。彼女が小さな牛乳パックを手にしている。箱の中から小さな「みぃ」と言う鳴き声がした。


「こんなとこで仔猫飼ってるって……。パメラ、ちいさなお子さま?」

「だって今飼ってくれる人いないんだもん、悪い?」


 むっ、として弁解しているパメラを無視して、箱に近づいて覗き込む。


「うわー、ホントこいつ小さいなぁ。産まれて一ヶ月いってないんじゃない?」


 パメラの横に自分もしゃがみこんで猫の頭を指で一なでした。

 両手で包み込めてしまいそうな小さなトラ猫だった。


「ふーん。パメラでも飼い主見つけられないんだ?」

「うん」


 僕は立ち上がって壁にもたれて上から仔猫を眺めた。

 彼女が小さな器にミルクを注ぐ。箱の中の猫はパメラが差し出したミルクをおいしそうに飲みだした。小さいくせにすごい勢いで飲んでいく。腹が減ってたのだろうが力いっぱい生きたいという思いが伝わってくるみたいだった。


「あたしもすぐ見つかると思ってたんだけど、なかなかねー。あたしのママは猫がいると痒くなるって言うし。クラスのみんなもダメって言うし。結構ね、みんな薄情なんだ」


 自分の膝の上で頬杖を付いて、パメラは盛大に溜息をつく。


「そうなんだ」

「ロルフ、誰か飼ってくれそうな友達いない? あ、いるわけないかー。孤独な勉強家のロルフだもんねー」

「うるさい。遊ぶだけの友達なんて要らないだけだよ」


 いちいち僕を逆なでするのはいつもの挨拶みたいなもので、彼女は僕の言葉に悪びれるわけでも、悪戯を楽しんでる風でもなく、通常会話な顔して呟く。


「明日にでもポスター作ってそこら中貼ろっかなーなんて思ってんだけど」


 熱いなーと思う。


「ふーん」


 でもとても何気ない返事だけ返した。

 できるのなら自分も助けてやりたいとは思うけど。僕にはそんなに熱くなれる感慨はない。責任も取れない。どうせ僕、死ぬし。

 パメラが指でそっと猫の頭を撫でた。


「ロルフのママもうるさいんでしょ? うるさそう」

「うん。当たり」


 足元にある空き缶を踏みつけた。ベキッ、と缶が降参の悲鳴を上げる。

 そこら中にゴミが散らばっている。死んでるみたいにゴミ袋が横たわっていて、中身を吐き出している。その上に、男の一人暮らしの生活観溢れるゴミが大量に積もっている。


「ねぇ。ここ場所悪いんじゃない? なんか悪ガキがさらっていきそう」

「うん。あたしも同感だけどさ。元の飼い主が万が一でも戻ってこないかなーなんて、ちょっとだけ思っててさ。まぁ、いい場所見つけたらすぐに移動するつもり」

「いい場所かぁ」


 首の後ろをさすりながら呟いた。すると自分が発した言葉に反応して、頭の中が大量の猫で埋め尽くされる。


 ……どうなんだろう。引き受けてくれるだろうか。


 たとえ断られても、僕が頼み込む義理もないし、ハナから行くつもりだった場所にちょっと連れて行って頼んでみればいいだけだ。別に僕が多大な労力を注ぐ必要もない。

 ただ、いいのかな、つれて行っても。というのがちょっとだけ頭をよぎったけど……。


「パメラ。これから行くとこ、誰にもしゃべらない?」

「え?」


 猫から僕に視線を移したパメラの顔はきょとんとしていた。


「ちょっとだけなら、心当たりあるんだ。“いい場所”」



    * * * *



 薄暗くなりつつある空の下で。猫達の居城の扉をノックして、暫く待って返事がなかったので扉を開けて入る。


「いいの? 勝手に入っちゃって」

「うん。別にいいって言われてる」


 が、他の人間を連れてきていいとまでは言われていないので、ちょっとだけビクビクしてたりする。

 突き当たりにあるドアについてる猫用のドアから猫が出てきた。僕らの横を何の気なしに通っていく。人間になれているせいなのか、とても無関心なのか、どっちなのだろうと今日も思う。


 人間用の扉を開ける。部屋の中に入ると――いた。


 彼は予想通り爆睡していた。腹の上に二匹も猫を乗っけて。彼らは夏なのに暑くないのかと思う。愛し合ってるから夏の暑さくらいは瑣末なことなのだろうか。

 そしてやっぱり猫達のベッドは彼の引き締まった筋肉だ。


「この人がさっき言った猫おじさん」

「えー? ぜんぜんおじさんじゃないじゃん」


 うん、まぁ。リグはおじさんじゃあないけど。歳がいくつか知らないけどさ。猫おにーさん、よりも猫おじさんの方がなんとなくしっくりしたっていうか。男前で男らしいこの人を、おにーさんって呼ぶのもなんかシャクだし。


 パメラにはもちろん僕らが出会ったいきさつは話してない。ただ、知り合いの猫好きおじさん、とだけ話してある。そんな謎な男にあっさりと大事な子を預けようと即決するのは、他人を疑うなんて事を知らないおこちゃまなのか、肝っ玉が極端にでかいのか、それとも――


「ていうか、あたし達が入ってきたのに寝てるんだけど。起きるの?」


 仔猫を腕に抱いているパメラが、怖いけど興味あるものを触ろうとする猫みたいにベッドにそろーっと近づいて、彼の顔を覗き込んだ。僕も一緒に近づいて、彼女の隣へ。


「リグ。ちょっと起きてよ」


 体を揺すって起こそうとしたとき、彼のズボンが黒いスーツだと気づいた。思わずちょっとだけ身を引いた。

 昨夜は《仕事》だったんだろうか。人を、殺してきたばっかり?


「あ?」


 間の抜けた低い声が部屋に響いた。リグが半分だけ目を開いて、パメラの顔をぼんやりと眺めてた。


「リグ、起き――」


 ――たの? と続ける間もなく、リグの腕が伸びてパメラの頭を掴んだ。


「は?」


 そして再び目を閉じ、彼女の頭を自分の唇に引き寄せ――


「ちょぉおっとまったぁあああああ!」


 反射的に彼の顎に掌底を叩き込む。続いてパメラを彼から慌てて引き離した。


「あんたなぁあ! そりゃいくらなんでもまずいよ! 寝ぼけてんの?」


 ビビッた、焦った。猫でも男でも女でも見境ないのかこいつは。

 彼はゆっくりと半身を起こして、ズレた頭を調整するように首をまわして関節の音をならした。腹の上の猫がベッドの方へと転がり落ちて目を覚ます。


「ああ、悪い。あいつに見えた」


 相変わらず彼の侘びの言葉には謝罪の念がうかがえない。


「あいつって?」

「リディア」


 ――リディア? え? リグに人間の恋人?


 ぶっ。と自分の腕の中から噴き出す声が聞こえた。


「あははは。あーびっくりしたー」

「うわっ!」


 パメラを抱きしめたままだったことを忘れていた。思わずその場から飛び退く。彼女は僕が抱きしめていたことは気にしてないらしく、しきりにくつくつと腹を抱えて笑っている。


 ――笑ってる場合じゃないよパメラ。いま自分が襲われかけたんだってことわかってる?


 僕の心のツッコミを知る由もなく、彼女は笑い続け、咳き込んで深呼吸して、やっと何とか落ち着いたらしく、リグに媚びモードの笑顔を向けた。


「すいません。勝手に入って、お休みのところを邪魔してしまって。ロルフのクラスメートのパメラです。初めまして」

「あー。初めまして……」


 リグは目が覚めきらないのか、大あくびをして猫の洗顔みたいに目をこする。殺し屋のクセにこの人、侵入者だとかの気配に気づけないんだろうか。


「きっとそのリディアさんって美人だったんでしょうねー」

「美人かどうかはよく分からないが、唯一俺に喜びをくれた奴だ」


 ベッドの上で胡坐を書いて、膝の上に猫を乗っけて、やはり撫で回す。


 ――まて。ちょっとまて。昨夜の話から推察するとだ。


「あ、じゃあとても素敵な人だったんだ!」


 彼女は嬉しそうに、パチン! と手を打った。

 昨夜の彼の話に“嬉しさ”が出てきましたね。で、“唯一の”喜び、ときましたよ? ってことはつまり、だ――

 僕はリグに耳打ちした。


「リグさ……、その“リディア”って、昨日言ってた、あんたが小さいときにいたっていう……あの?」

「ああそうだ。それがどうかしたか?」

「いやなんでも」


 ……パメラ。はしゃいでる声出してるとこ悪いけど。素敵なのは人じゃないから。


 思わず頭痛がしてきて額を押さえる。

 もう……。人間が猫に見えるってリグって一体どういう目ぇしてるんだよ。

 匂いで色々分かるみたいなことを言っていたから、もしかしたら見た目よりその辺が重要なのかもしれないけど。


「で、ロルフ。なんの用だ。女を連れて、昨日の交渉の続きってわけでもないだろ」

「あ、そうだよ、あのさ。パメラが抱いてるこの仔猫。飼い主が見つかるまででいいんだけど――」


 事情を話すとリグは、「ここの奴らが受け入れるなら俺は断る理由がない」と言ってくれ、できるだけこの仔猫に気をかける、とまで約束してくれた。

 そしてここの猫たちはどうやら来るもの拒まずな主義らしく、すぐに本物の兄弟みたいにじゃれあっていた。


 それから僕ら三人と猫たちは、気がすむまでずっと一緒にじゃれあった。

 リグはなにやっても無表情だったけど。パメラは良く笑って。

 そして僕は――僕は、一体どんな表情をしてたんだろうか。



    * * * *



 パメラと二人で電車に揺られる。

 帰宅ラッシュで少々窮屈だけど、会話するのには支障ない。電車の中でパメラと話すことは終始猫の話だった。人と話すことで知らず知らずにテンションが上がっている自分に、懐かしさのような物を感じる。この感覚を忘れてしまったのはいつのことだったか……。


 電車は駅に着くたびに人を吐き出していく。少々人がまばらになった頃、僕が降りる駅が近づいてきた。


「パメラ、家まで送らなくて大丈夫?」

「大丈夫。それに例えば何か危険なことが起こったとしても、筋肉までノーミソのロルフがいた方が足手まといになると思うしー」

「なにそれ。いつもそのノーミソに世話になってるくせに失礼な」


 電車は速度を落としていき、停車した。扉が開く。

 先に降りる人たちをやり過ごし、人が途切れた後で自分もホームに降り立った。彼女に振り向いて軽く手を上げる。


「じゃね。また明日」


 僕が別れの挨拶をすると、なんだか彼女は神妙な顔をした。いつも彼女の挨拶は、誰に対しても爽やかな笑顔であるはずだったのに。

 ホームに出発の合図がなり響いた。ドアが閉まりかけたその時、彼女の足が、一歩前に出た。


「え?」


 扉が閉まったとき、彼女は僕のこちら側――つまりホームの方に降り立っていた。

 ふわり、と一瞬。ほんのわずかだけ――唇に優しいものが触れた。


「…………へ?」


 何が起こったかわからなかった。いつの間に近づいたのか、彼女の顔が遠のいていくのが目に入る。


「……………………え?」


 パメラの後ろで、人を運ぶ鉄の塊が唸り声を上げながらゆっくりと発進していく。


「「……えぇぇぇええええぇええーーー!?」」


 あまりにも唐突で現実感がない展開に思わず大声を上げる。

 一体今のはなんなのでしょうか。彼女の何かが僕の何かに触れましたよ? まてまて、冷静になれ。キスか? もしかしたらセカンドですか? またしても勝手に奪われてしまいましたけども。え、でもなんでしてきた方の人まで一緒に叫んでんの。「あれ? あれぇ?」なんて自分で混乱してますよ?


「あ、あ、あ、あの……行っちゃった、よ? 電車」


 筋肉までノーミソなはずの僕なのに理解が追いつきませんよ。誰か解るように状況説明頼むよホントに。


「え? や、あっ ご、ご、ご、ごめっ……。なんだろ。なんだかさ……」


 パメラは顔が破裂しそうなほどに顔を赤くして目のやり場を探している。僕はそんな彼女を真っ白な頭なまま凝視する。


「ロルフが……ロルフってあんな笑顔するんだー、とか、笑顔可愛かったなーとか、思ってたらさ……なんか、ねぇ?」


 半笑いで「えへへーっ」なんて笑いながら彼女は頭を掻いている。

 “ねぇ?”って、言われても……ねぇ?

 いたたまれなくなって首の後ろをガシガシ掻いた。


 ――うーむ。絶対ありえないと思ってたんだけどなぁ。


「あのう。つかぬ事を窺うけど……」

「なっ、なにっ」

「パメラって僕のこと好きだったの?」


 僕の言葉に彼女の赤面度が倍増する。


「う、うっさい! 知んない!」


 必死な顔して自分の中の理由を探そうと四苦八苦してる彼女は、すでになんだか泣きそうになっていた。


「だって! だって! ロルフいっつも仏頂面で眉間にしわ寄せててさ、いっつも一人で寂しそうでさ! ピリピリしててさ! あんな嬉しそうな顔初めて見たんだもん!」


 どうやら猫とじゃれてるときのことを言ってるらしい。

 そっか。僕、ちゃんと笑えてたんだな。


「顔は可愛いのに老けてる! なんて思ってたからさ! ギャップがなんかグッてくるって言うか……っていうか……」


 一体彼女は何を弁解したいのか、腕をぐるぐる回しながら一生懸命自分の中の理由を探そうとしている。そんな彼女に胸を締めつけられてる自分……。


「このまま帰しちゃったらロルフ、また寂しそうな顔になっちゃうって思ったんだもん!」


 顔は確かに可愛いけど、性格が男前なくせに利用できるやつにはコビ売り三昧の二重人格だし、貧乳だし僕より力強いし背は高いし……。僕個人としてはトキメキ要素が皆無なはずの女なんだけど……。


 ――そー言えば、僕のこと《番長》って呼び始めたのって、パメラなんだよなぁ……。


「……電車、次のヤツまでまだだいぶ間、あるよ?」

「うあー。ロルフ、あんたのせいだからね」


 彼女は両手に顔を埋めて、地団太を踏んだ。


「うん。だから一緒に待ってるよ」


 パメラは自分で理不尽なことを言ってるってのがわかっていたんだろう。手から上げた顔は面白いくらいに目ん玉をひん剥いていた。


「座ってよう?」


 僕は彼女の手を取った。ひどく火照っていて、汗ばんでいた。僕の手と同じに。ボーゼンとしたままの彼女をベンチまで導いて、並んで腰をかける。

 なんだか手を離すタイミングを逃してしまった。――ていうか、逃してやった。

 次の電車がやってくるまで、ふわふわした時間を過ごした。



    * * * *



 帰り道、塾のことをすっかり忘れていたことに気づいた。でも今日は塾から家に連絡はいってなかったらしい。罪悪感がなくもないけれど、心を浮き立たせているふわふわがベッドで眠りに付くまで僕をへにゃへにゃ笑わせていた。


 次の日の朝が、今まで感じたことのない晴れやかな目覚めで僕を迎えた。死にたいなんて、頭のどこを探しても見つからなかった。

 パメラが、僕の素顔を見てくれたから、かな。



    * * * *



「ねぇ。ロルフは夏休みってどうしてる?」


 夏休みまで後一週間もないって日に。

 問題集を広げている僕の前の席に座って、パメラが僕に夏休みの予定なんかを訊いて来た。


 彼女を猫達のとこをへ連れて行ってからもう何日もたつ。あれ以来何故だか自殺のことは一度も頭を掠めたことがない。


 学校では休み時間も勉強して、クラスのみんなにノートを貸し、学校が終われば塾に行って……。大して前までと変わらないけれど、前までとは違ってのんびりした毎日だった。


 たまに休み時間にパメラが寄ってきて無駄な話をしていく。ちょくちょくパメラの勉強を見てやって、学校が終わるとパメラと一緒に下校することもある。

 女と一緒にいるなんてもっと鬱陶しいことだと思ってた。勉強の時間を大幅に削られて、成績が大幅に落ちて。どん底に落ちてもうつつを抜かし続けてしまう……なんて。そんなことが起こったりしたらもう冗談じゃない。だけど彼女は彼女の時間が――友達を大事にする時間がいっぱいあって、僕とは前よりちょっと話す時間が増えただけ。彼女は今までの僕を崩さずに、僕の中に入り込んでくる。


 今だって、ただ夏休みの予定を訊かれただけ。たったそれだけでヤバいくらい胸が嬉しさでいっぱいになる。つまりは夏休み、一緒に過ごさない? と言われている。それだけ。


 偶然歩み寄った女。たかが女のこと。


 予想外だった。自分の、幸せになるための才能がたったこれだけで開花するなんて。


 ……まったく。僕ってこんなゲンキンな奴だったんだ。あんな死にたかったのに、女ごときにあっさりと掻き消されてしまうなんて。


 パメラは椅子の上で三角座りしてこちらを窺っている。

 僕は唇を引き結んでできるだけ気のない振りをする。


「ん。特になんにも。家と塾の往復だけ」


 手は問題集の答えあわせをしているフリ。ホントに正解してるかどうかわからないけど、なんでも丸をつけていく。

 だってそうでもしてなきゃ、嬉しすぎて自分がどういう反応しちゃうのか分からない。


 周りも夏休みどこ行こうかどうしようかで盛り上がってる人が多い。さっきから背中の方で先月から付き合い始めたラビとアンが、いよいよ大人の階段に足を踏み入れようかとかいう計画を延々と話している。

 公共の場でそんなこと話すな、破廉恥な。


「結構……ヒマしてると思うよ」


 破廉恥のせいで何かを意識して、不味いことにちょっとだけ声が上ずってしまう。

 普通の半そでTシャツからのぞいている彼女の二の腕が、前までそんな風に見えるわけなかったのにむちゃくちゃセクシーに見えてしまう。うまくやればもしかして自分も何かの階段をのぼっちゃったりするの? なんてことがチラッと頭をかすめる。頭はイケナイ妄想でいっぱいになる。汗が噴き出してくる。十分自分も破廉恥だ。


「じゃあさ。ロルフの家で勉強会していい? 夏休みの宿題、ヤバそうだからブレーンの力を借りたいんだよねー」


 最近パメラは僕に媚ポーズを使わなくなった。なんでだろうか。僕が特別な存在だからだろうか。だったら嬉しいよなー、なんて思いながら、脳内は、自分の部屋でふたりっきり……! と妄想が加速していく。


「うん。それくらいかまわないと思うけど?」

「え? そう? 大丈夫?」


 頬杖を付いて首を傾げる彼女に、コクリと頷いて答えた。

 パッと彼女の顔が輝いた。前まではなんとも思わなかった笑顔だけど、今はなんて可愛いんだ!


「やったー! みんな! ロルフが夏休みの宿題全部やってくれるって!」


 彼女は口元に手で作ったスピーカーを当てて大声を出した。


「は? みんなって誰?」


 脳内のイケないものが一瞬にして掻き消えた。

 そして『宿題全部やってくれるって』、とわなんぞや。

 奇妙な歓声とまばらな拍手の音がして、クラスの成績順位、下から数えた方が明らかに早い三人衆――セラ、クルス、ベニートがニコニコとこちらによって来る。


「さすがだね、番長! 頼りになる~っ」

「番長がやったってばれないように適当に間違えてやってね」

「ありがとう、ロルフ! これで不安なき夏休みが楽しめるってもんよー」


 三人は勝手に僕の手を取って勝手に握手をして勝手に交渉成立したつもりらしい。

 目が点になる。

 どうやら自分は浮かれすぎてたらしい。騙された。前までと同じで僕の価値はノーミソだけしかない宿題解答ロボットとして使われるらしい。


「パメラ。勉強会だって言ったよね?」


 半眼で睨みつけてやったけど、


「あれー、そうだっけー? ブレーンの力を借りたいとは言ったけどー?」


 彼女は頬に指を当ててシナをつくってあさっての方向を見る。正直言って可愛くない。

 沸々と、怒りが湧き上がってくる。


「僕が引き受けたのは勉強会だから。パメラがその意思ないんなら今の話はなかったことに」


 そっけなく淡々と言ってやると、


「ええー? そんな、あたしの夏休みどうなんのー?」

「ちっとくらいいいじゃねーかぁ」

「ケチー!」


 そんな三人から猛抗議を喰らってもみんなの目も見てやらない。何一つ反論は受け付けてやらない。窓の方にそっぽを向けて、溜息をつく。


 ――やっぱりあのキスは気まぐれで、パメラの中で僕の地位はなんにも変わってないのかな……。


「なんてね」


 耳元に、パメラの弾んだ声をのせた息がかかった。反射的に振り向くと、すごい近くにパメラの顔があった。彼女のいたずらっ子の顔が。


「三人とも本気だよー? 本気でロルフに勉強教えて欲しいんだって」


 コツッ、と彼女が僕の額に額をぶつけてきて、にへ~っと笑う。

 間近で煌めいてるパメラの瞳に一瞬見入ったあと、三人を振り返った。


「頼むぜロルフ。最下層に落ちちまった俺らに愛の手を差し伸べてやってくれ」

「頼りにしてるよ先生」

「夏休みであたしをスーパー天才少女にしてよね。よろしく頼むよん」


 ……はい?


 なんだこれ。なんか三人ともめちゃくちゃ爽やかな笑顔してるよ。

 どうなの。パメラがなんだかすっごい楽しそうなんだけど。


「こんな友達なら、ロルフも許せるでしょ」


 こそっと僕に耳打ちしてくる。

 彼女は前に、僕が寂しそうだって言った。僕は彼女に、ただ遊ぶだけの友達はいらないって言った。だからなのだろうか?


 だとしたらパメラって本当おせっかいだ。


 前まで他人の勉強のために自分の時間を大幅に割く、何てこと自分はしたことあったっけ? なんて思って。見返りだってないんだぞ? なんて思って。


 なのに変なの。猫たちといるときみたいに胸の辺りがざわざわしてる。


 僕はなんだかいたたまれない気持ちでうつむいて、首の後ろをさする。

 溜息をついて呆れ顔のままで彼らに答えた。


「手加減なしで行くから覚悟しといてよね」



    * * * *



 母さんに、夏休み勉強会を僕のウチでするってことを話したら、晴れやかな笑顔で「そう。素敵なお友達ができたのね」と喜んでくれた。今まで遊び友達を連れてこようものなら、母さんは丁重なつもりで相手がとんでもなく傷つく言葉で追い返してしまっていた。『ごめんなさいね。ウチの子は頭の悪いお友達と遊んでいる時間がないの。だからもうロルフを誘わないで上げてね?』と。

 でも今回そんな気配は微塵もない。


 心の底から僕に勉強仲間ができたことを祝福してくれて、来てくれたら特製のケーキでもてなしてあげなくちゃね、と言ってくれた。


 そうして夏休みが来て。勉強会の日。みんな僕の指定した時間にちゃんと集まった。最初は厳しくスパルタしてやろうと思ってたけど、なんだか自分が穏やかでみんなに優しくしていた。


 セラが僕の部屋の天井に張ってある星座のポスターを見て、「天体好きなんだ?」と訊いてきた。天体は母さんが張った父さんの趣味だった。その偽りの趣味で埋もれた自分の本当の趣味を、誰かに明かしたことなんか今までなかった。けど、その時僕は初めて、自分はベースボールが好きだと答えた。


 そしたらベニートが僕とファンのチームが同じで話しが弾んだ。

 クルスがライバルチームのファンだと聞いて話しが白熱した。セラとパメラはベースボールにあまり詳しくなかったけど、ベニートとクルスと僕が共通して好きな選手は好きだと言った。


 もちろんちゃんと勉強もする。彼らはクルスが成績最下位におちたのを期に、何とか一発逆転できないかと思っていたところにパメラが「ロルフに勉強教えてもらうのはどう?」と言ったのだそうだ。


 何日かパメラを入れた四人の勉強を見てると、みんな頭が悪いわけではなく勉強の仕方を知らないだけみたいだった。

 週一ペースで勉強会は順調に進んだ。みんな勉強の仕方がわかってくると、面白いくらいに問題が解けるようになっていった。なんだかすっごく感謝してくれるし、教え甲斐もある。今までできなかった(しようとしなかった)ベースボールの話もできる。

 楽しかった。自分にひさしぶりの友達ができたことが嬉しかった。


 ――もしかしてカミサマ、あんた頑張ってくれてんの?



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