2 僕の生活習慣。
薄暗い病院の廊下で。
“手術中”のランプが点灯してる。
長椅子に座った母さんが、自分の長い金髪に手を埋めて、うつむいている。
《――あのひとって、ちゃんと生きてたのね――》
呟いた母さんの前に僕はひざまずいた。
母さんの顔を覗き込もうとする。
と、母さんは顔を上げて、顔を僕の方に向けた。
《――もう少し、やさしくできなかったのかしら、あたし――》
僕の方を向いた母さんの瞳には、僕の姿は映ってなくて。
――母さん?
って、声をかけたけど、返事がなくて。
母さんが、酔っ払ってるみたいにふらふらしながら立ち上がって。
手術中のランプが消えない手術室のドアを大きく開いて。
僕が
――まだだめだよ。
って止めたけど、聞いてなくて。
《――あなた――》
白い光のその部屋にどんどん進んで行っちゃって。
――母さんまっ……――
「――て……」
天井に向かって、制止するための腕を伸ばしていた。力を抜いて、ベッドに降ろす。
いつもの時間の、いつもの目覚まし時計の電子音が部屋に鳴り響いてる。今日二度目の起床だ。
天井に敷き詰められている星座のポスターが、いつも通り目に入る。
体を起こすと、参考書やらが律儀に整頓された本棚や、ごみ一つ無い緑の絨毯や、机の上のピンク色した造花なんかが――母さんの手で置かれたものたちが目に入ってくる。
僕の部屋なのに、僕の色が何一つ無い部屋が……。
闇の色をした彼――リグにわかる道まで送ってもらって、こっそりと家に入って、自分の部屋のベッドで少しだけ寝なおした。目覚めて、寝なおさなければ良かったと後悔した。リグの――猫達の家で起きたときにはあれだけ気持ちよかった朝を、いつもの不快な朝で塗りつぶしてしまったから。
もう二度とするはずが無かった学校への準備をする。投げ出してしまいたいのに、ここまで来て投げ出せない自分に自分でうんざりする。
部屋を出て一階におりると、いつもどおりに香ばしいトーストの匂いが鼻にとどいた。
「おはよう、ロルフ」
息がつまる。
母さんのいつもの、儚げな笑顔が目に届く。朝のあいさつが耳に届く。
いつもどおりの、なんにも変わってない日常……。
どうやら母さんは昨夜、僕が出かけていたことなんてまったく気づくことが無かったらしい。
「うん。おはよ」
何とか僕は母さんに何もなかったフリで、笑顔のあいさつを返してテーブルに着いた。
トーストの横に置いてあったのはいつものりんごのジャムではなくて、ハチミツだった。トーストにぬるのに僕はこれが一番好きだった。なのに母さんは申しわけ無さそうな表情で告げる。
「ごめんなさいね。あなたの好きなりんごのジャムを切らしてしまっていたの。今朝まで気が付かなくて……。今日はこれで我慢してちょうだいね」
僕はハチミツをトーストにこれでもかっ、てくらいにぬりたくりながら無言で頷いた。
――りんごのジャムが好きなのは父さんだよ。……母さん。
そんな言葉を、かじったトーストとともに飲み込む。
母さんはいつも僕を父さんと重ねている。離婚して、ずっと連絡が取れないまま、事故って死んで行った父さんのことが、多分……まだ、好きだから。
「ああ、そうだわロルフ。この間のテストのご褒美何がいいかしら。また順位を上げて学年三位になったんですもの、すごいわ。何でも言ってちょうだい」
向かいに座って、僕と同じにトーストを目の前にしている母さんの瞳が、喜びに輝いていた。
「ううん、いいよ」
僕は機械的に首を振る。
「ご褒美なんていらない。なんにも……」
――それよりも母さん。今日は僕の誕生日だよ?
母さんの輝いていた瞳が、ふわりと優しく細められた。そしてそっと頭を撫でられる。
「本当に……あなたはいい子ね。このまま素直に育ってくれたら……母さんこれほど嬉しいことは無いわ」
褒められているはずなのに、ドス黒い何かが胸を圧迫してくる。去年はちゃんと誕生日をしてもらった。でも最近は僕と父さんを重ねることが加速度つけて増えてきている。母さんの中で寂しさも加速度つけてつのってるんだと思うけど……。
母さんは誕生日まで父さんと重ねるつもりなのだろうか。
「間違っても、お父さんのようにはならないでね」
返事をしたくなかったのに、抑えてやりたいのに、言葉がひとりでに喉の奥から無理矢理に這い上がってくるのを、止められなかった。
「うん」
息が……つまる……。
母さんは、死んだ父さんがまだ好きだけど、でも……父さんをものすごく恨んでいる。少なくともそう思い込もうとしている。だからあまり学歴の無かった父さんと正反対に、僕を優等生に育てていきたいのだ。
自分が矛盾してるってことも気づかずに。
「ごちそうさま」
急いでいることを悟られない程度に短時間で目玉焼きを口の中に押し込み、トーストをコーヒーで流し込んで、さっさと席を立った。
洗面所に立って、鏡に映る自分の顔を見て、やっとつまっていた息を吐き出す。でも、どんなに深いところから吐き出しても、胸に沈殿しているものまでは吐き出せない。
母さんの目に僕の姿は本当に、今鏡に映っている形で見えているのだろうかと、時々思う。母さん似の僕の顔は、本当は僕が鏡から離れたら、途端に父さんの顔に変貌してるんじゃないか、なんて……。
それはとても息苦しくて、無茶苦茶にしんどい……。でも、死んでしまえばそれも無くなる。だから、今はもう考えるのはやめよう。考えなくていい。
歯みがき粉をつけて、無心で歯みがきを始めた。
歯ブラシを上下左右に動かしていると、僕の薄いピンク色の唇が当然のことながら泡だらけになっていく。泡と一緒に頭の中もモワモワと中身のない変な思考だらけになっていく。
……………………。
早く死にたい……。
血をぶちまけて……。
リグに……殺してもらいたい。
僕は綺麗なんだってさ……。
鏡に映ってる、
まるーい顔。
おっきいね、ってよく言われる今は寝ぼけ眼。
長いと時々女の子に間違われる、今はちょっと伸びてきている金髪。
ホントに綺麗かな?
ピンク色した薄いくちびる……。
彼のは……。
真っ赤で……。
彼のものが、自分のに――
「――は……」
――触れた。
「あ」
ポロリと歯ブラシが落ちた。
「ああーーーーーーーーーーーーーーーーぁぁ!」
口が歯みがき粉とともに絶叫を撒き散らした。
――ちょっっ、まて。あ、あれ…………あれって……僕のファーストキスじゃん? 男に……男に奪われたぁああっ! なんでこんな重要なこと今まで気がつかなかったんだよ! いやいやいやいやちょっとまってちょっとまって!
「どうしたのロルフ! なにかあったの?」
「な、な、なんでもない!」
うがいもそこそこに、洗顔もそこそこに、驚いている母さんの横をすり抜けて、あわてて自分の部屋に戻ってソッコーで服を着替え、ソッコーで玄関に向かい、
「い、いってきます!」
家を飛び出して一目散で駅に向けて全力疾走する。
――ああもうなんだよ畜生! 男にチューされたなんてもうお婿に行けないようぉぉおうううぅぅ!
* * * *
リグが男装の麗人だったなら良かったのに。
それとおんなじくらいカミサマの存在なんてありえない。
もしホントにいるんだとしたら多分、現代の人間達が嫌になって仕事を放棄しちまったヒキコモリだ。
通勤通学途中の人たちがせわしなく改札を通っていく。駅という川に人間という水が流れ込んでいく。人の流れは生なのに、淡々としていて生き物には見えなかった。少なくとも感情のある生き物には見えない。
カミサマがもっとがんばってるんなら、もっと世界は輝かしいんじゃないのかしら?
眠そうに働く売店の人。せわしなく動いてる駅員。駅の端っこで、眠りをむさぼるホームレス。みんな今まで生きてきた時間があって、色々な想いがあって、大切な人や憎い人なんかがいるんだろうけど……。
僕には何一つ色を持って見えない。ここで、生きていきたいとは思わない。
カミサマ起きてる? 僕のこと見てる? 見てたら僕を死体にしてください。さっきはお婿にいけないって嘆いちゃったけど、お婿に行くまで生きるつもりはないです。
僕が“闇”に惹かれてるのは――ただの一色、僕の中に黒い色を残して行った彼は――きっと僕に死という切符を渡してくれるからだ。
* * * *
静かな教室に、白髪爺さん教師の声がひょろひょろと流れている。爺さんは僕ら生徒に終始背を向けて、つまらなそうに黒板に歴史を書き続けている。
爺さんが使うチョークの音だけが響く教室には、机に突っ伏して夢の世界に旅立ってる人が数人、こそこそおしゃべりに夢中になっている人が数人。堂々と机にお菓子を広げて食ってるやつもいる。
――せんせーい。先生もつまんないかもしれないけどみんなも十分つまんないみたいだよー。
まぁ、みんな暴れたりしないで大人しいだけまだ良心的なんだろうけどさ。
《勉強番長》と呼ばれた僕でも爺さんの授業はつまらなくて、いつも睡魔と闘っていた。だけど、なんだろう……今日はどうしてだか、爺さんが生み出す眠りの悪魔は僕を誘惑してこない。
今朝の睡眠時間はいつもの半分もないはずなのに、頭が晴れ渡っている。ただ、もう一つ、いつもと違うことがある。授業の内容が頭に入ってこないってこと。
窓の方に視線を向けて、校庭を眺める。どこかのクラスがベースボールをやっていた。
バッターボックスに入っているのはベースボール部の有名人である打撃王だ。彼が体育の授業で本気なんて出すわけないだろうけど、ピッチャーはシロウトだ。もしも本気を出したら軽くホームランにできるだろう。
だけどもびっくり。どう見ても本気って感じにバットを振り回してるのにも拘らず、彼は三振に討ち取られてしまった。打撃王は本気で悔しそうにバットを地面に叩きつけ、ピッチャーは心底嬉しそうに体全部でガッツポーズしている。
「……あのピッチャーすげぇ」
思わず口の中で呟いていた。
ガキの頃、父さんとキャッチボールをよくしていたけど、自分はいつもひょろひょろボールしか投げてなかった。今の彼みたいなボールを投げるのは夢のまた夢で、父さんにはもっとしっかりしなきゃ男になれないぞ、なんてハッパかけられてたっけ。
馬鹿みたいに夢中になってキャッチボールをしていた。それほど父さんとのキャッチボールは楽しかった。
授業終了のベルが鳴った。
「では各自今日のところを復習しておくように」
先生のお決まりのセリフを合図に起立の号令がかかり、別にみんな感謝なんかしちゃいないだろう相手に授業終了の挨拶を述べる。
挨拶を境に授業から開放されて、教室が色を変える。
友達同士の雑談に花を咲かせたり、次の授業のことをぼやいたり、屋内サッカー大会を始めたり……。みんなの和みの雑音が広がる。頭と心を休ませる時間が始まる。
だけど僕は自分の席に着いたまま、次の授業の教科書を机の上に開いた。僕にとってはいつもの行動で、あたりまえのこと。“よし、やるぞ”なんて気合を入れなくても息をするように無意識に、机に教科書を広げてしまう。
母さんのために。母さんが願うように、父さんみたいにならないために。母さんに僕を見てもらうために。
だから僕にとって勉強は日課みたいなものなので、思わず教科書を広げた。にも拘らず、今日は勉強しようとする手が動かなかった。
“将来”なんて今の僕には関係ない。教科書の中の知識を吸収しようとしなかろうとどちらにしろ無意味なのだ。
「昨日ケーラー、また最後抑えてくれたな」
「うん、すごかった。ファーハーとウィリケンがいれば負ける気しないよなー」
背中からする楽しそうにベースボールの話しをする声が聞こえる。耳が勝手に拾う。煩わしく思う。僕は参加することを許されないから。自分で許さないから。そんなことをしたら母さんは僕を白い目で見るから。
昨日は失敗したけれど、母さんにもっと自分を見てもらえる方法がもうすぐそこできっと叶えられる。僕がいまやらなきゃいけないのは――死ぬ前に母さんに幻滅されないこと。表面上、良い子を装うこと。
それもきっと今日限りで終わる。
「ロ~ルフ。次の授業のノート貸して?」
女の子の声に、僕の思考はカットされた。
顔を上げると予想通りの人物が、入らなくてもいい視界に入る。
僕の瞳が映したのは、僕のノートを借りに来たランキング・一位のパメラだった。
活発そうで触ったら気持ちよさそうなショートカットの金髪。その下で細められてる空色の瞳はいつも光をたたえている。ピンクのつやつやの唇はなんだかたくらみが浮かんでるみたいな感じ。
そんな彼女が長い脚で椅子をまたいで、手を背もたれにかけて、僕の目の前でのほほんと微笑んでいた。
「またなの、《番長》」
僕が呆れて言ってやると、ぷー、っとフグみたいに彼女が膨れる。
「なによー。友達いないロルフにせっかくこのあたしが話しかけてあげてるのにー」
僕は頼りになるノーミソ番長らしいのだが、彼女は文字通りクラスのリーダーで、女番長なのである。
「ノート借りに来る以外で声かけないのに『あげてる』っておかしいでしょ」
僕が広げてあった教科書を閉じて半眼で見返してやると、女番長は「あっ」、とここに来た任務を思い出したらしくフグから人間に戻った。多分本人はメルヘンのお姫様になってると思ってるだろう人間に。
「そうそう。そうなの、助けてロルフ。また昨日宿題する前に、イタズラ好きな妖精さんに眠りの魔法をかけられちゃったの~。ね? ね? オネガイ」
長い指を、果たしてこれで発育したのだろうかと思わせられる貧弱な胸の前で組んで、潤ませた瞳で僕を直視して、「ね?」と首を傾げてくる。
本人は可愛いつもりなのだろうが、赤いTシャツにショートパンツというスポーティなカッコでは女のプリティさなんて皆無なのであり、彼女はノートを借りにきた回数が通算で……数えるのがめんどくさくなるくらいにやってきている女なのだ。しかもさっき言ったように、それ以外に僕に話しかけてくることは無いから、僕のことを好きだからやって来てるとかいう可能性はほぼ皆無なのである。……正直、迷惑なことこの上ないのだ。
「パメラ。そろそろ僕に頼るのやめた方がいいよ」
僕が初めて断ったら、彼女は世界が破滅したみたいな悲しげな顔をした。
絶望的な驚愕の表情をしてる彼女を無視して、窓の方に視線を向けた。彼女は外を眺める僕の顔を無理矢理に覗き込んでくる。
「えー? やだ、なんでぇ? いつまでもあたしのブレーンでいてよー」
澄み渡った青い空に、白い猫みたいにやわらかそうな白い雲が、のんびりと散歩している。平和の象徴みたいな空の下で今、彼は何をしているのだろうか。
「だって僕、もうすぐいなくなるからさ」
「え、なに、転校でもするの?」
「……いや、ちがうよ」
死ぬんだ。
言ってしまったら、彼女はどんな顔をするだろう。
「なんにしてもさ、僕のノート移しただけで勉強した気になってたら、パメラ馬鹿のまんまだよ?」
「う、うるさいな。ロルフには関係ないでしょ」
「うん。僕には関係ないね」
淡々と返事を返すと、彼女は憮然とした表情で椅子から立ち上がった。
「なにそれ。いいもん。ロルフになんか頼まなイー!」
彼女は、イ~~ッ、と歯茎を剥き出して背中を向ける。
「ニル~、助けてー。ロルフが鬼畜~」
そう言って彼女は教室の雑音の中に溶け込んで行った。
平和だな、と思う。
また、窓の外を眺める。
ゆっくりと雲が流れてる。勉強に手をつけない休み時間もゆっくりと流れてる。
彼女の言うとおり僕には友達がいない。つくらない。一緒に遊びまわる友達なんかいらない、と思ってた。言い聞かされてきた。以前は友達だったヤツも、勉強のせいでとっくの昔に離れていった。今僕に寄ってくる人間は僕のノーミソが目当てのヤツだけ。彼らとは勉強以外の話をした事がない。
父さんがいた頃は友達なんていっぱいいたのに。誰一人いない。
母さんの目には僕が映ってなくて、僕を映してくれる友達も誰もいなくて……。僕はどこにも存在してない。
――今、彼は何をしているのだろうか。今日も、死の芸術を創りあげているのだろうか。
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