僕は死体になることにした
あおいしょう
1 闇に会った。
その夜僕は“闇”に出会った。
悪魔とか死神とか、もっと喩えがあったかもしれないけど。
なんでだろう。怖くないわけじゃなかったけど、でも、悪い奴じゃないと思った。
そいつの足元には死体が転がってるっていうのに。
いや。“転がってる”っていうのにはしっくりこない雰囲気だった。彼が立っている階段の踊り場は展示場で、彼の意図でそこに飾られていたんだ。小さな窓から入る月明かりを地味なスポットライトにして。
作品の作者は黒一色。黒い髪に、黒い瞳。素肌にそのまま着ている真っ黒いスーツ。茶髪金髪ばかりが往来するこの街で、こんなに黒い人間を僕は初めて見た。身に着けてる靴と手袋も同じ闇の色をしている。ただ、前をはだけて見えてる肌は、本当に透き通ってしまいそうなほどに白かった。透き通って、存在が消えてしまいそうなほど……。
“闇”が動いて、踊り場から一つ、段を降りた。そして二つ三つと、降りてくる。近づいてくる。きっと僕を殺すために。――殺してくれるために。
どっちにしろ数分後には、僕は死体になってるんだ。
■□■□
数分前。僕――ロルフ・ルルフォル――は自殺するためにこの廃ビルを訪れた。
いつまでだったか忘れたけど、わりと最近まで細々がんばってた会社のビルだ。昔はすごい会社だったらしいけど、周辺が衰退していくに連れてこの会社も小さくなって、でも何とか生き残ってたけれど、ついには借金にまみれてつぶれてしまったらしい。
詳しくは知らない。どこかの悪徳会社のせいで倒産に追い込まれたらしかった。
特に理由はないけどそんな経歴を持つビルを自分の死に場所に決めて、僕は足を踏み入れたわけだ。
所かまわず下品で中身の無い落書きが書かれていたり、宴会の跡が散乱していたり……。生き残ってる窓ガラスなんて微々たるもので、床には窓ガラスの死骸が散乱していた。かつては輝かしいものを世の中に輩出していた建物は、不良のストレスを受け止めることが専門のビルになっていた。
すっかり枠しか残っていない窓から、満月の光が堂々と侵入している。その光は夜を黒って感じじゃなく青って感じに染め上げていて、おかげで死への道をたどるのには何の支障も無い明るさだった。
散乱している窓ガラスの死骸を踏みながら階段へ。
やっぱり飛び降りた瞬間は気持ちいいのかな。それとも怖いのかな。高所恐怖症なワケじゃないけど、ちゃんと飛び降りられるかな。無理ならナイフを使おう。喉を掻っ切ったらすぐ死ねるイメージがあるけど実際どれくらいで死ねるんだろ……って、こっちの方が勇気いるな。一応持ってきたけど活躍どころがないなこいつ。睡眠薬が一番楽だって良く聞くけど、地味な死に方なんて言語道断だ。
十五歳の誕生日だ。派手に血をぶちまけて自分を飾ってやりたい。そしてあの人に見せてやりたい。
自分の死をイメージしながら階段を昇った。上に昇っていくに連れて下らない落書きは減っていく。なんだか浄化されてるみたいに錯覚した。死後の世界がお空の上にあるのなら、物理的にも近づくってわけだ。
上から小さい何かが転がってきた。自然と目で追っていたら足元に落ちた。落ちてきた物体は小さい何かだけど、詳しくは暗いのでよくわからなかった。
あたりが酷く鉄くさかった。今まで思考に集中していて気づかなかったらしい。物体が転がってきた方向――もともと自分の進行方向でもある方を見上げた。
目に入ったのは、次の踊り場で、月明かりの下に飾られていた人間の形をした物体だった。
糸の切れた操り人形みたいに力なく座らされていて、惜しげもなく本来体の中にあるべき物をさらけ出している。そいつで自らを飾り付けて――紅く染まっておしゃれして、月の明かりに抱きしめられていた。
これが人間であるはずなかった。
しかし僕の低能なノーミソは精神の防衛システムなんて搭載していないらしくて、現実逃避を拒んだ。何でだかあれが本物の人間だと勝手に確信してくれちゃったわけで、途端、胃の中身が喉を勢いよく駆け上がってきて、僕の制止も聞かずに外に飛び出した。
ゲロが床にぶつかって静寂の中でわめき散らした。口の中がめちゃくちゃにすっぱい。激しく咳き込んで涙目になった。
「おい」
声が振ってきて、反射的に顔を上げた。どうしても目に入る、本物の人間だと認めてしまった紅い人形は、何故だか今度は不快感を放ってなかった。むしろ、儚いスポットライトに照らされてるソレは、煌びやかですら見えた。
その横。月明かりの届いていない暗がりが、蠢いた。
「お前。まだ創ってる最中なんだから、間違っても汚すなよ」
月光の下に晒された闇。暗黒。もしかしたら地獄の色。でも僕は彼に惹きつけられたから、ブラックホールかもしれない。
「つ……くって、る……?」
僕が麻痺した唇で尋ねると彼は、
「そう。こいつは――」
顎をしゃくって隣の物体を示す。
「俺の作品。汚いところを取り除いて、綺麗に創り直してやる。俺の仕事だ」
《仕事》――。麻痺した全身とは対照的に、ノーミソは案外冷静に動いた。
人間を奇妙なオブジェにすることが仕事ということは、つまり、彼は殺し屋って奴だろうか。それともまた別のものだろうか。
どちらにしろ、目の前に人間の死体で創った奇妙なオブジェが飾られているのは事実で。普通、その作者はそんなところを目撃した人間を生かしておかないだろうということは予想できた。
だから、僕は震える唇に期待をこめて言った。
「……ぼ、くを……こ……ころす、の……?」
殺して、くれるの?
□■□■
そして“闇”そのもののような彼は階段を下りてくる。
おそらくは血だろう液体を滴らせている黒い手袋をはずしながら、ゆっくりと。ゆっくりと。
目の前まで降りてきて、彼は僕の顔を覗き込むのに少し身を屈める。大きな彼の手が僕の頬に触れた。人並みの体温なんか持ってないみたいな、冷たい手だった。
「ころす、の?」
改めてもう一度聞いたら、彼の妙に紅い、血を塗りつけたみたいに紅い唇が動いた。
「別に、お前に創作意欲はわかない」
「え」
「もともと綺麗な奴を、わざわざアートにしてやる必要はないから」
彼の顔が近づいてきて、唇にやわらかいものが触れた。やわらかいそれは、人間らしいぬくもりを持っていた。
彼の顔が離れた途端、全身の力が抜けてケツに衝撃を受けた。僕の視界を埋めていたのは彼の、黒いズボンを履いたフトモモだ。
ゆっくりと視線を上げると、さっきまで目の前にあった“闇”の顔がえらく高い位置にあった。彼は表情を変えずに僕に手を差し伸べてくる。どうやら僕は腰を抜かしてしまってシリモチをついたらしい。
「ガキがこんな所にいていい時間じゃない。帰れ」
「あ」
彼は差し伸べた手を自分の手前に振って、早く立てと促す。でも僕は今日、今晩、ここで死ぬって決めたんだ。帰れるわけが無かった。
「う、うごけないん、だ。ふ、ふるえちゃ……て」
どっちにしろ嘘じゃないので立てない。すると彼は僕の腕を掴んで無理矢理に引き起こし、「うわっ!」何を言う暇も与えられず僕は彼におんぶされていた。
「送ってやる。大人しくしてろ」
「ちょ! まっ……! まってよ、まって!」
彼は僕の声に耳をかさずに階段を下りていく。
なん……だ? この人。
「ねぇ、聞いてる? 降ろしてよ……! 僕はまだやることがあるんだから」
「お前は綺麗だ。死ぬことは俺が許さない」
「――!」
一瞬息が止まる。
一つ一つ段を降りていく音が、静寂に響く。段を降りるたびに伝わる軽い衝撃が、僕の体を振動させる。そして、“闇”の声は僕の気持ちを振動させた。
「なんで……知ってるの……」
「別に。そんな匂いがした」
僕はまた絶句して、彼の異様な答えに対して疑問を投げられなかった。この人は本当に人間なんだろうか。この、広くて温かい背中を持った、この人は。
階段を降りきり、月の光がさしこむ出口の方へ向かっていく。
「お前、家はどこだ」
月の光の下に立った彼は、何の感情も感じられない声で僕に尋ねてきた。だけど僕は黙ってた。帰るわけに行かないから。
「答えないのか。ならいい」
落胆するでもなく、呆れるでもなく彼は、月明かりで出来た薄い自分の影の上に、やはり抑揚のない声を落として、歩き出した。
僕の家とは反対の方向だった。なんとなく、彼は僕が言わなくても僕の家の場所が分かるんじゃないかと思ったんだけど。
だって僕が死にたがってることが“匂い”で分かるって言うから。そんなことができる彼は人間じゃなくて、超能力的な何かを持っていて、なんでもお見通しってことがあっても不思議じゃないと思ったからだ。
しかし彼はそんな能力なんて持ってないらしく、僕を背負ったまま、普通の人間的に歩いている。
真っ黒いこの人は、間違いなく人間なんだ……。妙に、当たり前な事実を実感する。
なんとなく、空を見上げる。
キラキラが散りばめられている黒い海に、まぁるい仄かな光が浮かんでいる。なにかが歪んでるこんな夜でも、月は清楚な微笑をたたえていた。
小さい頃、父さんと母さんの仲が良くないのを見てるのが嫌で、よく家出をした。いつも自分の隠れ家に引きこもってた。しばらくしたら父さんと母さんが仲良く二人で、僕を探しに来てくれていた。父さんは僕を見つけると、僕が見つかったことに笑顔を浮かべて、その後は心底申し訳無さそうに謝って、それで泣き疲れている僕をおんぶして家まで連れて帰ってくれた。
その時に、こんな風に月を見上げたな、と思い出す。
幸せだとは思ってなかったあの頃。だけど、まだ幸せだったあの頃。
今はもう、母さんの側には喧嘩をしていた相手はいない。
僕は、父さんのよりも広くて硬い背中に顔をうずめた。やっぱり、人間らしい体温が伝わってくる。恐怖で強張った体が弛緩していく。今感じている温もりの持ち主である彼が、恐怖を作り出した本人だっていうのに。
廃ビルばかりが目立つ、死んだみたいな通りを歩き続けてる。
僕は肩に軽く置いていただけだった手をはずして、腕を彼の首に絡めた。
どこに連れて行かれるかなんか予想も付かないけれど……何をされるかも分からないけれど――
どうなってもいい。家に帰らなくてもいいのなら。
何をされてもいい。この温もりを持っている彼になら――
気づいたら歩く横に、高い塀がいつまでも続いてた。塀の内側からはのっぽの樹木が頭を覗かせている。長い長い塀の隣をひたすらに歩き続けると、一つの小さなドアがあった。彼はドアを開けて、僕を背負いなおした。
ドアをくぐった途端、どこかの異世界につなげられたのではないかと思えた。死んだ通りには不似合いな森が、静かに僕らを出迎えていた。両脇がこんもりとしている樹木のせいで、一本道になってるところに足を踏み入れる。森の匂いを乗せた爽やかな風がゆっくりと走っていった。
森に月光が遮られて僕には何も見えない。でも彼は、自分が“闇”だからなのか、漆黒に塗られた森もものともせずに一度も迷うことなく進んでいく。
視界が開けてまた仄かな光に包まれる。その月明かりが照らしているのはこぢんまりとした建物だった。白い壁が月明かりで仄かに浮かび上がってて、なんだか童話に出てくる小人の家みたい。彼はそれに向かって、歩みを進めていく。
扉にたどり着いて彼が足を止めた、そのとき――
――にゃあ。
間の抜けた愛らしい声がした。途端、
「はっ?」
何の前触れも無く目の前にあった真っ黒な後頭部が視界から外れていく。
「……ぃっ……!」
ケツに痛烈な衝撃。
「……だぁあ!」
腰がパッキリとイッて、骨が皮膚からはみ出すんじゃないかってくらい強烈だった。涙がにじんでくる。
彼がいきなり、唐突に、自らかってでたにも拘らず、僕を背負うという任務を放棄し、僕が落下したのだと理解した。
「ちょっ……あんたいきなりなに……っ」
“闇”は――僕に激痛を与えた当人は、僕が声を上げても目に入ってないらしくその場にしゃがみこんでいた。その足元には猫がいる。
「おお……おまえ。久しぶりだな、帰ってきたのか」
低い声でボソリと呟いて猫をふにゃふにゃ撫で回している。猫は気持ちよさそうに目を細めて彼の手に体をゆだねている。彼が手を離すと、猫は彼の視線に見送られ、扉の下の方にある小さな窓から中に入っていった。
彼は立ち上がって、今気づいた、といった風に僕を見下ろし、
「ああ、悪かったな」
まったく悪びれた気配が窺えない無表情で詫びの言葉を呟く。また手を差し伸べられたけど、僕は無視してなんとか自力で立ち上がった。
彼は差し伸べていた手をズボンのポケットに突っ込んで体を翻し、もう片方の手で扉を押し開けた。僕は痛い腰をさすりながら真っ黒な背中についていく。
中まではさすがに月の助けは届かなかった。目の前にある背中の色と同じ闇色が家の中に居すわっている。
「あのさ、真っ暗で何も見えないんだけど……。電気は?」
「電気はきてないんだ」
そう答えて彼は闇に溶け込む。やはり彼は闇と友達なのだ。暗闇だろうと何の問題も無く奥に進んでいく。僕は仕方なく彼のスーツの裾を掴んで付いていった。
「あのさ、さっきの猫、あんたが飼ってるの?」
手にはスーツの感触があるとはいえ無言でいると、自分さえ存在していないような感覚に陥りそうで、それが妙に怖くて、自然と声を出していた。
「いや」
とととととと。
何も見えない黒い進行方向数歩向こうから、軽い何かが駆け抜ける気配がした。
「俺が居候させてもらってるんだ」
「え? ……った!」
“闇”の背中に顔をぶつけた。続いてドアノブを回してドアを開く音がする。掴んでいる裾が再び僕を引っ張る。
「え? あんたが居候してるって、え? じゃあ、ここあんたのウチじゃないんだ?」
シュッ、と音がして、小さな明かりが灯った。
「そう。この家はこいつらのモンだ」
淡く浮かびあがった部屋はモコモコしていた。
床板の上に、お前ら絨毯か、と言いたくなるくらいにふわふわな生き物達がねっころがっている。
「うわ……いっぱい……」
ベッドと小さなテーブルと、部屋の隅に空っぽの本棚が並んでるだけの部屋に猫、猫、猫、猫。……猫で埋まっている。いかにも野良っぽい猫から、高貴なお育ちをしていそうな猫まで。様々な種類のやつが入り混じっていた。
しかしこの猫達は僕らが入ってきたことに何のリアクションも取らない。もしかしたら僕は透明人間になったのかと思える。
「この家、なんなの?」
僕の声は震えていた。驚きと戸惑いと、それから――胸の奥から込みあがってくるかすかなトキメキで……。
「さぁ。よくはわからない。この敷地内にでかい屋敷がある。おそらくそこに住んでたやつの道楽か何かだったんだろう。屋敷は今、もぬけの殻だが」
彼は部屋のロウソクに火をうつしながら答える。
一匹、ググーーッ、と伸びをして、のそのそこっちに歩いてきた。僕を見上げて軽く威嚇するような唸り声をあげる。
「邪魔」
“闇”が、猫の言葉を通訳するみたいに呟いた。
「あ」
っと、ドアの前に立ったままな事に気づいて横に避ける。猫は僕の横を通って猫用の出口から夜の散歩に出かけた。
まどろんでたり、じゃれあってたり、猫式洗顔していたり……。
そんなこいつらから、目が離せないでいた。
なんだって僕の胸はこんなにもわくわくしているのだろう。僕の未来は死しかないと自分で決めたのに……。
ロウソクに火を移し終えた彼は、小さなベッドに腰を落とした。すると白くてなんだかなまめかしくて色っぽく見える猫が、彼の側に近づいてきて膝の上に乗っかった。
彼はさっき外の猫にしたように、白い猫のこともふにゃふにゃ撫でて、額にキスをした。耳を吸って、お互いの顔を舐めあった。この猫は彼にとってマジに恋人なんじゃないんだろうか、ってくらいに熱心に撫で回していた。
「おまえさ」
今まで猫しか見ていなかった漆黒の瞳が、いきなり僕の方を向いた。
「はっ。あ……な……なにっ」
思わず焦って裏返った声が出てしまった。
やっぱり、何か用があって彼はここに僕を連れてきたのだろうか。
不思議な“闇”みたいな彼。不思議な猫ばかりのこの空間。この場所。
なんだか人間の世界とはまた違った世界に来たみたいだ。
ボクのことを綺麗だと言って殺さなかったこの人。今思うと僕は何かの捧げ物のようにここに連れてこられた。もしかしたら。
もしかしたら。ボクの想像を絶する何かをさせられるのかもしれない。そのために彼は僕をここに連れてきたのかもしれない。
そう考えると少し怖い気がしたけれど……。
深呼吸をする。
……いいよ。かまわない。あんなふうに僕を殺してくれるなら、なんだって捧げてやれる。
壁に大きく映る影が揺れる。
彼は、たった一枚だけ、素肌に着ていた黒いスーツをおもむろに脱いでベッドのパイプに引っ掛けた。
闇と炎のオレンジがせめぎあっている空間に、白い裸身が浮かびあがった。
広い肩幅で、鎖骨がくっきりと浮き出ている。一見細身だが不必要なものがついていないだけで、胸にも腹にもしっかりと引き締まった肉がついている。なんだか貧弱な自分が恥ずかしくなりそうなほどにたくましかった。
「気がすむまでここにいろ。それで気がすんだら家に帰ればいい」
……え?
彼は白猫を抱いたままベッドに寝転がった。
思わず呆然とする。固まって見ていると、彼は寝息を立て始めた。
おそらく間抜け面になってるだろう大口を開けてぽかんとしていたら、小さな、チョコとバニラの二色アイスみたいな猫が僕の方へやってきた。まるで、『今夜の相手はあたしがしてあげる』、とでも言ってるみたいだった。足元までやってきてちょこんと座って僕を見上げるそいつを抱き上げて、床に座って、自分の膝の上に置いた。昔飼ってたミックに似ていた。
ミックはガキの頃道端で捨てられていたのを拾ってきて、父さんと母さんになんとか拝み倒して飼い始めた猫だった。大好きだった。だけど、父さんがいなくなってすぐ、ミックは親戚にもらわれていってしまった。“お勉強の妨げになるから”。それが理由だった。
僕はミックに似たそのこを抱きしめたまま、まどろみの中へ落ちていった。
“死”を望んでいたのに……望んでいたものとは違う眠りに、なぜだか安らぎを覚えながら。
* * * *
どれくらい時間がたったのだろう。ふっ、と目が覚めた。
腕の中の猫が身じろぎをしている。天窓からうっすらと朝の光がさしている。腕の中の猫が僕を見上げて「みぃ」と鳴いた。僕はそのこに「おはよう」と返事を返して腕を緩めた。すると猫は僕の腕から元気よく床へ飛び降りて、猫用の小さなドアから出て行った。
ベッドの上の彼はまだ、セクシーな白猫といっしょによく眠っていた。
うっすらとした朝の光の下にいると、彼は――彼の白い裸身は“闇”と言うよりも朝日みたいだった。
ゆっくりと立ち上がって軽く伸びをする。眠ってる彼を起こさないように、そっと部屋を出た。薄暗い廊下を通って、家の外へ。
周りは木々で覆われていて太陽は見えない。見えない太陽は森の天辺をオレンジに染め上げて、今日の始まりを告げていた。
僕が昨日まで迎えるつもりの無かった朝を。
「起きたのか」
声に驚いて振り向く。“闇”が音も立てずに出てきたらしく、入り口のドアにもたれていた。
「顔が洗いたかったら外に出て公園があるからそこで……」
「僕、帰るよ」
指で指し示して説明してくれる彼の言葉を遮って、僕は言った。あの猫を抱いて眠っていたら、少しだけども“気がすんだ”。彼は上げていた手をゆっくりと下ろして、
「そうか」
と答えた。
空の明るみ具合から見てまだ、家にいる母さんは起きてないだろう。ずっとここにいても、この人に迷惑をかけるだろうし、今から改めて飛び降り自殺しようとしても誰かに見つかって止められるかもしれない。その人に迷惑をかけるかもしれない。実行できたとしても、落下した先に誰かがいたりなんかしたら大変だし……。自殺なんてハナから迷惑なことなんだけど、迷惑かけるなら最小限にしたい。
今から帰れば母さんに昨夜は何もなかったというフリができる。生きているなら、帰らなくちゃ。
「送ってやる」
「あ、大丈夫だよ! 迷うなんてしないよ、自分で行ける。迷惑になっちゃう」
彼の申し出に僕は思わず激しく首を振った。本当は迷う予感バリバリだったけど。
でも、頭に手を置かれて僕の首の否定運動が彼の手で止められた。
「迷惑なことなんてなにもない。俺が勝手につれてきたから、帰りも俺がつれて帰る。それだけだ」
見つめられていると、彼の中では“迷惑”だとか、“気を使う”だとかが無価値なんじゃないかと思えてくる。何でも受け止めて、吸い込んでくれそうなブラックホールの瞳。
「ん……うん。ありがと。あ……でもじゃあ、服はちゃんと着てよね」
「ああ……そうだな」
彼は夕べ眠りに付いたときのそのままの格好をしていたのだ。上半身裸の男と一緒にはやっぱ並んで歩きにくい。
「あの、さ」
服を取りに戻ろうと身を翻した彼の背中に、声をかけた。
彼は首だけでこちらを振り返る。
「僕、ロルフっていうんだ。あの、それで……あんたの名前……」
「リグだ」
そうして彼は、音もなくドアを開いて家の中へ入っていった。
「リグ……」
僕は、口の中で彼の名前を繰り返した。
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