流転の中の1ページ

 レナさんはなんでハックマンの動きを捉えられなかったんだろう。

一瞬で背後に回る相手にも勝てる人なのに。

彼は消えたように見えるが、消えてはいない。

確かにここに存在している。


「次は君たちの番だ」

ねこうさぎが冷たいコンクリートの通路に爪を立て、吠えて威嚇している。

「吠えたって無駄だよ。君たちは私を認識できない」


 だからレナさんは見えてなかったんだ。

認識していない相手に攻撃なんてそもそもできない。

けれど私なら勝てる。


「退場してもらう前に聞くが、君たちは一体何者なんだい? 事務所に突然現れていたようだが……まさかアカシックレコードとでもいうのかい?」

冗談めかして言った。

正体なんてこっちが聞きたいぐらいだよ。


「それはこの子を倒してから教えてあげるのん」

彼はねこうさぎの言葉、驚いている。

「ほお、そうか。なら早速消えてもらおうか」

ハックマンが認識の外に消えた。


 しかしどうということはない。

彼はいま後ろにいる。

かかとを軸に体を捻り、指貫の鋭利な一閃を彼の脇腹に突き刺した。

「なぜこんなことに……」


 彼の手からナイフがすり抜けた。

金属音を立てて、冷たい床に転げ落ちた。

口からは朱が零れ落ちる。

顎を伝い、潤い無き床に朱をたたえる。


「あなたがそこにいるのは‘知っている’んですよ」

存在と認識は異なったもの。

誰もが認知していなくても、そこに存在はしている。

生きている限り存在は消せないし、存在するものは知ることができる。


 私の力は知っていること。

認識よりも広範な存在を知っている。

彼の魔法を凌駕したことになる。


「冥途の土産として、特別に教えてあげるにゃ。彼女はアカシックレコードだよ」

「は?」

ハックマンは理解できていない。

「厳密にはその一部の存在なんだけどね。あの子は扉のようなものなの。必要に応じて、無意識のうちに扉を開いて、積み上げられた知識を拾ってくる」

私がアカシックレコード?

ねこうさぎは私の正体を知っていたというの?


「もともとアカシックレコードは人類の知識や経験を集めて、役立てられる人に託すためにあったの。けれど人はあまりにも愚かすぎた。知識や経験だけが無限に集積されて、使うことはなかった。だから僕がアカシックレコードに擬人化した彼女と一緒に、いろんな地域に飛んで無名の賢者を探しているの」

飛んだ結果、私たちは段ボールにいたということか。

「けれど今回は最悪にゃ。なにせ復讐劇なんていう、感情の最たるところに飛び込んじゃったんだから。アカシックレコードは感情に振り回される人には任せられないのん」

「もう過ぎ去った出来事の話はいいよ……疲れたよ」


 ハックマンは地面を枕のようにして、眠りに落ちてしまった。

彼はもう動かない。

けれどねこうさぎは、興味無さそうにそっぽを向いた。

「ねえ、なんで私にずっとほんとのこと隠してたの?」

「自分は魔術師が血眼になって探し求めてる存在って知ったら、怖くて正気でいられないでしょ?」

さも当然のことのように話している。

「それに僕は、アカシックレコードを託すに値するか、見極める時間が欲しいのん。少しでも君がアカシックレコードに関与してるって見抜かれたら、見極めが難しくなっちゃうし」

抑揚のない言葉を並べ立てる。


 もう何もかもわかった。

肉体としての私自身には過去がないから、レナさんのようにトラウマを抉られることがない。

知っているという力も、アカシックレコードの記録を拾い上げているから。

レナさんが殺人に固執してるのは、強権的な父親の情けない死に方のせい。

セナさんがヒールで運転したり戦っているのは、過去の悔恨のせい。


 自分を自覚すれば何もかもわかってしまった。

なんてつまらない世界なんだろう。

こんなの無痛状態じゃないか。


「ここをつまらない世界って認識したね?」

無言でうなずいた。

「もしも他の世界があるのなら見てみたい」

アカシックレコードは‘この世界’しか捉えられない。

この世が多次元世界なら、他のまったく知らない世界を見ることができるかもしれない。


「それはこの世界では全知の記録媒体をもってしても無理な話にゃ」

呆れたように言う。

「けれど私たちは試験管の中にいるかもしれない」

「それはこの世界の外側の話だよ。ここよりももっと高次な次元だよ」

「同一か低次元のものしか理解できない。それがアカシックレコードの欠点。もとい人のさがでもある」


 しっぽを垂れ下げて、がっかりしたように見せた。

「悲しいね。でも僕たちはそんな人間を相手にしてるのん。そろそろ次に進もう」

「そしてまた記憶が消える」

「同じことを何度でも繰り返すにゃ」


 手近な部屋の扉を開いた。

中は真っ暗。

「行くにゃ!」

ねこうさぎと暗闇に歩き出す。

デザートを受け取るにふさわしい人を求めてどこまでも。


虚飾性アリス 完

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虚飾性アリス 鳴河 千尋 @miu1889

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