第6話 彼女が愛した世界を

「──あ、あぁ、ああああああッ!」


 誰かの悲鳴に僕は目を覚ます。暗闇の中、自分の喉から搾り出される悲鳴と、そんな僕をじっと見つめるアイスブルーの瞳にすぐに気がついた。

「ボリス……しっかりしてください」

 僕を見るフェニモールの目から涙が零れる。同時に青白い光が駆けぬけ、彼女が繋いでくれた手を焼いた。それでも彼女は、苦痛に眉を寄せながらも僕を離さない。手を離して、心配しないで。そう伝えたいのに、僕の喉は言葉にならない音を吐き続けるだけ。彼女の後ろの窓から、青い月が僕らを見下ろしている。それは──慈悲のように優しく冷たい光。

 フェニモールの自由な手が、僕の頭に濡れたタオルを乗せてくれた。それでも肺から湧き上がる痛みと、脳内を焼くような熱からは逃れることができない。

「水を汲んできたよ」

 囁くような声が響く。どうしようもない僕の耳にとって、それは清流のように心地よく響いた。フェニモールがそっと視線を流す。

「ありがとう。そこに置いてくださいな」

「……届かないでしょ?」

「クロット。ボリスは貴方を傷つけたくないはずですから」

「それはフェニモールのこともおんなじことでしょ。ぼくは平気。ちょっとくらい通電したって痛くないよ」

 桶を掲げた小さな影が視界に写る。僕の視界はどこかぼけて、二人の表情はよくわからない。

「わかりました。……さあボリス。安心してくださいね」

 フェニモールはどこまでも優しく、僕の手を力強く握ってくれた。

「私達が付いていますから。だから、大丈夫ですよ」



 ──ヴィレッヂ──


 あの日から何日経ったことだろう。

 家に帰された僕たちに、もう日常は戻ってこなかった。逃げ出すことはおろか、なにもかもが怖くなって一歩も外に出れず、ただただ眠り続けようとベッドに横たわる僕。しかしどうしても思い出してしまう変わり果てた友人達の姿を暗がりに見、胸の焼ききれそうな痛みに僕は夜毎叫び続けた。そんな僕の傍からフェニモールとクロットユールは片時も離れず、朝まで付き添ってくれていた。僕が喚くたび、意図せず溢れる雷の力に貫かれても、二人は傍にいてくれた。息がうまくできないときは、フェニモールが僕の胸に手を翳してくれた。

 不思議なことに、彼女の掌が触れている間は、僕の苦痛はほんの少しだけ和らぐ。変わりにフェニモールの顔に苦悶の色が浮ぶが、彼女は構わずに僕を助けてくれるのだ。

 ……僕の胸は、手術痕は。ただ引き攣れた傷口のようになっているわけではなかった。クロットの喉にあるものと同じような、不気味な刺青が広がっている。まるでそこだけ、得体の知れない病に寄生されたかのように。そんなおぞましい部分に、彼女は怯むことなく触れてくれる。僕は不自由な口を精一杯動かした。ベッドの横には、フェニモールが焼いてくれた白いパンがすっかり固く冷たくなって置かれている。……ミルクに浸しても今の僕には食べられないだろう。もっとも、もうこの村でミルクなんて……。

「も……もういいよ、平気だよ。起こしてしまったね? ごめんね」

「謝らなくていいのですわ」

「そうそう、あんまり眠くなかったからね」

 あのクロットまでもが、僕に気を遣ってくれているのがわかる。この家で一番の年長者は僕なのに。あぁ、みっともない。けれどもとても嬉しい。しかし申し訳ない。だが、耐えられない……。

「クロット、いいよ。僕に触ると感電してしまう」

「そんなのいいから、ほら起きろ」

 クロットに手伝われて、僕は上体を起こす。ようやく取り戻せた落ち着きとマシになった痛みにため息をついて手渡された水を飲んだ。同時に、目から涙が落ちる。

「泣かないで、ボリス。今やこの村のどこを見ても、悲しみで溢れていますから」

 フェニモールが窓を振り返る。耳を澄ませば、どこからか悲鳴が聞こえた。

 地上に戻ってこれたのは、ほんの僅かな住人だった。既に人間の形をしていないものはここには戻れなかった。……この村の住人はもう十数名しか残っていない。もう村とは呼べない。──ここは悪魔の実験場で、僕たちはモルモット。経過観察のために、地上に焙り出されただけにすぎないのだ。

 ──では、戻ってこれなかった子どもたちはどうなったのか?

 ……それは、考えるだけでもおぞましい。僕は自分の心を壊さないようにするために、それ以上の考えは止めておく必要があった。

「二人の傷は痛まないかい?」

「ぼくは平気。フェニモールも、大丈夫だって」

 僕は二人に触れることを躊躇っていたが、フェニモールの手が導いた。右手をクロットの喉に、左手をフェニモールの腹に。……二人の傷跡も酷いものだ。クロットはともかく、フェニモールの腹にはそのまま雑な縫い目が残っている。女の子なのに、彼女は女の子なのに……。行き場のない怒りも、僕はただ抑え込むしかなかった。むやみに怒れば、二人に痛みを与えてしまうことをもう十分に知っているから。

 外からはまた叫び声が聞こえた。一つ、二つ。それらは重なり、響き渡る。

 三つ、四つ──突然、赤い光と爆発音。僕らは身を竦め、慌てて窓を覗いた。深夜の村に響き渡る泣き声。燃え上がる家。煙の中に人ではない──僕が見た、何かの影を見た気がした。どうして、なにが? そんなことを理解する前に、心臓が叩き付けられるかのように痛む。叫び声は子どものものじゃない。さび付いて罅割れたおぞましい声と、大人の断末魔が聞こえる。笑い声も、何かを引きちぎる音も。

 クロットが悲鳴をあげてフェニモールへしがみ付いた。おかしいことは今に始まったことじゃない。それでも、ここまで明確に身の危険を感じたのは初めてだった。得体のしれない実験どころか、命を脅かされていること実感する。

 ──逃げなければ。この家にいてはいけない、この村にいてはいけない。もう逃げ出さなければ!

 頭が簡単な答えにたどり着くと、足は弾かれたかのように動き出した。

 凍り付いて動かないフェニモールとクロットの手を掴み、僕は走り出す。再び痛みがぶり返してきたが、二人にも少なからず苦痛を伝えてしまっていることを知っていても僕は止まれなかった。

 もっと早くこうすべきだった。遅かった。けれど、まだ何もかも手遅れになったわけじゃない。

 玄関を蹴り開ける。周囲は地獄だった。誰かが放ったのか村は炎に巻かれ、今も目の前で隣の家が崩れ落ちていくところだった。叫び声がまた聞こえる。死にたくない。でも死ぬしかない。皆、死ぬしかない。誰の声かはわからない。その声が犯人かどうかもわからない。

「ボリス、どこに逃げるのッ?」

 クロットが泣きながら僕のシャツを掴む。

「死にたくないよ、怖いよ、こんな体だけど、ぼく、まだ生きてたいよ」

 僅か三歳のクロットは、周囲から滲み出す呪詛に怯えきっていた。僕はあの時から飛行機作りを止めていたことを酷く悔やんだが、同時に飛行機が墜落する直前に、町のようなものを見つけたことを思い出した。

「森の果てだ。あそこまで行けば、この実験場から逃げ出せる」

「森の果て……? あの黒い森のこと? あんなところ、抜けられるわけないじゃない!」

 そうなのだ。クロットの言うように、あの森を出たものも、通ったものも、この村には誰もいない。ここの実験とは比べ物にならない、もっと恐ろしいものが待ち構えているかもしれない。でも迷っている時間はないのだ。

 ──すると、フェニモールが家の裏手の井戸へと僕らを呼んだ。

 石造りの井戸は炎の色を浴びて赤く光っているが、ほの暗い底から漂う冷気が不気味に誘うようだった。

「クロットユール。ここに飛び込みなさい」

「何を言っているんだフェニモール? クロットをこんなところにいれたって……」

「この井戸の水流は、森の中の泉から流れてきたもの。この中に入ってただ身を任せれば、無事に海に出れます。……海に出たら、潮の流れに沿っていけば町に辿り付けます。貴方は泳いでいける。貴方なら泳ぎきれる」

 フェニモールはアイスブルーの瞳を細めて反論する僕を制し、それから震えているクロットを抱きしめた。

「一人じゃ行けないよ!」

「クロット。私たちも、絶対に町に行きます。先に行って待っててくださいね」

「嫌だよ、怖いよ。一緒に行くよお……」

「三人より二人の方が見つかりにくい。私は、ボリスと行きます」

 彼女は不意に柔らかく笑うと僕の手をとり、クロットの頭に乗せた。

 ──確かに三人よりは二人の方が逃げやすい。……そして、もっと確実に助かる方法があるならそれを選ばせたいのだと、彼女は言っている。

 僕は青白いクロットの髪をなでながら、フェニモールに確認するように問いかける。

「……フェニモール、君も逃げてくれるんだね? 僕は君を引き摺ってでも行こうと思ってたけど」

「ええ。私も一緒に行きます。だからクロット、先に行ってください」

「……ぼ、ぼく、ずっと待ってるよ? 待ってるから、必ずきてね?」

 フェニモールが頷く。僕はクロットの体を井戸の淵へ担ぎ上げる。小さな体は可哀想なくらい怯えていた。

「ボリス。ボリスも、一緒にきてね。フェニモールを守ってね」

「約束する。君も一人で頑張るんだぞ」

 うん、と首を縦に振ったクロットは、ぼろぼろと泣きながら、それでも自分から井戸の中へ身を投げた。しばらくして聞こえた水音を確認して、僕はフェニモールの手を取る。

「必ず森を抜けよう」

「ええ。……私も必ず貴方を守ります」

 そして僕らは走り出す。その後ろで、僕らの家にはついに火が燃え移り、ゆっくりとその身を崩壊させていく。誰かの笑い声がまた響き渡った。それでも僕は振り返る勇気がなくて、ただ前だけを見て、闇の中を掻き分けて走っていった。


 *


 深い森の中、僕らは足を根に取られながら、それでも足を止めることはしなかった。追いつかれたら最後だ。──それは妄想でもなんでもなく、笑い声と何かの足音が背中に迫ってきているとフェニモールが呟いたからだった。

 村からは逃げられない。

 研究者たちの執念なのか、子どもたちの狂気なのか。村の鐘が夜空に響き渡る。すると木の枝は死者の骸に。絡まる蔦は蛆虫に。響く羽音は死肉を啄ばむ鳥に。……恐怖から僕の心は壊れてきているのだろう、それでも繋いだ手だけがおぞましい幻を振り切ってくれる。枝に服を絡められながらも、頬を引っかかれながらも。ただただ、走り続けた。

 いつしか森を包む闇は白い霧に変わり、ぼやけた光が差し込んで夜が明けたことを知る。霧が満ちたことでより黒い木は鮮明になったが、疲労困憊の僕は根に引っかかった体のバランスを戻すことができず盛大に転んだ。当然、繋いだままの彼女も一緒に倒れこむ。僕らは最早立ち上がる力もなく、大きな木に持たれかかって影を殺し、身を隠した。

 蹲って息を整え、それから沈黙に耐えられなくなって小声で囁く。

「……今、何時かな」

「どうでしょう。太陽が見えないのでなんとも……」

「僕ら、森の真ん中くらいまではこれたかな。闇雲に走ってきたけど」

「いえ、森はまだまだ深いでしょうね」

「はは、これじゃあクロットのほうが先に着いちゃうね。心配させてしまう」

「そうですわね。……あの子も、無事だといいけれど」

 笑い声や足音はいつの間にか聞こえなくなっていた。悲鳴の一つも聞こえてはこない。……もう、全ては終わったのだろうか。

 フェニモールの額に張り付いた髪の毛を撫でていると、ずきりずきりと胸が痛み出した。徐々に大きくなる痛みに口を噤み、俯く僕を不審に思ったのかフェニモールが声を掛けてくる。僕は飛び出しそうになる悲鳴を堪えて口を塞いでいると、彼女の手が胸に触れる。途端に僕の痛みは薄れたが、今度は彼女の様子がおかしくなった。

「……フェニモール? どうしたんだい?」

 なんとかして彼女の手を引き剥がそうとするが、手は離れない。苦しそうに息を荒げながら、眉を寄せている。

「僕の体から雷が伝わっているんだろう? 僕はもう平気だよ、離してくれ」

「……力が」

 フェニモールの口から零れたのは、絶望と驚愕が混ざった声だった。

「力?」

「わ、わたくしの力が……制御できない……どうして……?」

 アイスブルーの瞳から涙が一つ零れ落ちる。僕は彼女の手を握り締め、どうしたらいいのかわからずおろおろとするばかりだった。森の中に差し込んでいた光は消え、ただただ深い霧と湿気を含んだ風が流れてくる。

 ──その風の中に、誰かの足音と気配を感じてはっとした。

「フェニモール、誰かくる」

 彼女を立たせようにも、震える体は地面に張り付いていた。その間にもさくさくと足音は近付いてくる。僕は咄嗟に彼女の体を抱きしめた。ダイレクトに伝わってくる怯えと戸惑いの理由を僕は知らない。だけど、彼女だけでも守りたい。だから、この身一つでできることをするしかなかった。

 さく。さく。さく。

 足音は枯れ枝を踏みながら真っ直ぐに僕らに近付いてくる。濃いの中に影が見えたと思った瞬間、青い光が僕らを照らし出した。

「やあ、逃避行にはお誂え向けの天気だね」

 その声に、僕の心胸がざわめく。霧からぬるりと浮かび上がった男の顔に、恐怖と怒りで息が詰まりそうになった。

「ハクアス先生……」

 僕の腕の中から、フェニモールが小さな声で囁く。ハクアスはその声を聞いて微笑み、纏わり付く青い光をぱっと払うと僕らの傍に立って見下ろしてきた。淀んだ暗い瞳と底知れしれぬ狂気が、僕の心を真っ黒に塗りつぶしていく。

「レイネ君、体調はどうかな」

「……力が、うまく扱えませんの」

「君はこの村を出て行くつもりなのかい。この少年と」

「出て行くさ、こんなところ!」

 見詰め合う二人の間に叫び声をあげると、ハクアスは眉間に皺を寄せて僕を見た。ちょっと黙っててくれないか、悪い人に見つかっちゃうよと叱るように言われれば、僕は口を噤むしかない。──こいつだって悪人じゃないか。それなのに、どうしてそんな風に優しくフェニモールと話すんだ?

「……あんたは僕たちを連れ戻しにきたんだろ?」

「いや。僕はレイネ君の願いを叶えにきたんだよ」

「レイネって誰のことだよ」

「君、うるさいな。君の腕の中にいる女の子のためにしばらく様子を見ていなさい」

 フェニモールがじっとハクアスを見つめる目は、僕を見る目とはまた違うものだ。僕はどうしたらいいかわからないまま、結局言う通りに二人を見守るのだった。

「レイネ君。村を出て行くことは君の願いに反するんじゃないかな」

「でももうこんなところにはいられません」

「国へ帰るのかい? 君という存在が帰っていいのかい? なんのために今まで、我慢してきたんだい」

「あの国へは戻りません。ひっそりと暮らします」

「……そうか。もう少し前にその答えを聞いていればよかった。その願いはもう叶えられないんだよレイネ君」

 そう告げるハクアスの目に、悲しみが宿った気がする。

「僕は言ったね。好奇心を放し飼いにすると。──その結果、僕の好奇心は君の秘密をフィリフィ女医に話してしまった。ほら、君に手術をした女性だよ。僕は君だけには実験なんてことはしないつもりだったんだけど──自分に刺青がないことには気がついたかい?」

 フェニモールの目が僕を見る。……僕も思い出す。刺青のある僕、ないフェニモール。それがなんの違いだっていうんだ。

「僕らは自分の作品には愛を込める。ほら、画家だってサインをいれてから作品を世に送り出すだろ? だから僕らは自分の手がけたものが完成した暁にはサインを残している。つまり刺青のない君は未だ未完成品ということ……。おっと、怒らないでくれよレイネ君の王子様。君だって貴族の子だ、芸術を嗜むことはあっただろうに」

 僕の内側に湧き上がる怒りを見透かしたかのようにハクアスは笑うが、すぐに瞳を伏せる。……僕はわかってしまった。こいつは悲しんでいるどころじゃない。嘆いている。哀れんでいる。後悔をしている。それも僕にした仕打ちじゃない。──フェニモールの身に起こったことについて、だ。

 つまり、それほどまでに恐ろしいことが起きてしまった、ということ。

 ──それからハクアスは、フェニモールの“秘密”について僕に教えてくれた。彼女は僕と同じ共和国の出身で、絶大な力を持っていて。けれどもその力のせいで運命に翻弄され、妹と勘違いの果てにこの村にやってきたということ。

 出がらしかと思われたフェニモールこそ、レイネトワールという名と力を持つ少女だった。しかし彼女は自分と妹の入れ替わりが世間に露見することを恐れ、子に継がれる力も自分が墓まで持っていくつもりでこの村から出ることを拒んでいた。

「話を戻そうか。……レイネ君、君の力は既に君のものではない。フィリフィ女医によって君のお腹の中に擬似的な子どもとして放り込まれたモノに移ってしまった。少し前までなら母体の危機に反応してその力は発動していたようだけど、今はもう、ほとんど譲渡されてしまったようだね」

 ──フェニモールの震えが止まった。

「君の中にいるのは、人でもなんでもない。言うなればパンドラの箱だ。いずれ時がくれば箱は開き、その力は世界中に溢れかえってしまう」

「……わたくしは。この村から出ていくなんて、やっぱり無理だったのですね」

「どんなことがあっても村から出ない。それが君の願いだった。これで君は外にはいけない。ごめんね、だから君をここから出す願いは叶えられないんだ、以上で説明を終えよう」

「でも中にもいられない、ですね」

 フェニモールがわらった。その目から涙が一粒零れ落ち、ふっくらとした頬を伝っていく。ハクアスは優しく、驚くほど温かく微笑むと、そっとその涙を拭った。

「悲しいほどに賢い君に吉報だ。大変言いにくいことだけれど、一つ補足がある。パンドラの箱を開くのは、時間という鍵だけだそうだ。つまり、まだ間に合う。箱が開き、その力を振るう前ならば壊すことが出来る。そして作られた箱を壊すなら、君の手で、そして今しかない。君が未だ未完成であり、力の譲渡も完全には至っていない。君にも力が残っている、君の意思で動ける今しか。……安心して欲しい、嘘じゃない。君の実験のレポートはきちんと解析した。こんな結果しか見つけられなかったけれど」


 それが生まれる前に。秘密を守り通すならば……手段は一つ。


「君は僕を救ってくれた。だのに、僕は君を救えなかった」

「……いいえハクアス先生。今私の願いがもう一つできました。叶えて、救ってくださいますわよね」

 ハクアスは霧に濡れた髪を掻き上げて、無言で懐からナイフを落とした。良く研がれたナイフは泥に濡れても曇らなかった。

「ありがとう、先生」

「……レイネ君。君の決断を見届ける覚悟は僕にはない。それでもどうか、幸せにおなり。そう言わせて欲しい」

 手を伸ばし、ハクアスは彼女の頭を撫でた。それから僕の髪に少しだけ触れて、なんともいえない──実に人間らしい顔を浮べ、一歩下がる。そして背を向け、霧にその身を溶かしながら消えていった。

「よい旅を。レイネトワール」



 ──ハクアスの気配が消えると、完全に二人きりだった。僕は何も言い出せず、俯くフェニモールの首を見つめる。そのうちにぽつりぽつりと雨が降り出した。

 彼女は立ち上がらない。似合わない握ったナイフを持ったまま、ただただそうしている。僕はまるで眠る猛獣を起こさないかのように、ゆっくりゆっくりと立ち上がり、彼女の手を引こうとした──その時だ。彼女は僕の服を掴んでしがみ付くと、その顔をこちらに向ける。──美しくも悲しい決意の篭った目で。一目見て僕は全身の血が逆流していくような恐ろしさを味わった。

「……ボリス。お願いがあります」

 ──やめてくれ。言わないで。僕の声なき懇願も届いているのだろう。彼女は涙をはらはらと零しながら、ナイフを持った手を僕の手に重ねた。

「妹や国が、そんなに大事なの?」

「とてもとても。そして、貴方のことも、クロットのことも。だからこんなことに付き合せてしまって、本当に申し訳なく思っています。混乱もしたし、憤りもあったでしょう。けれども、私は私を葬らなければいけない。もうこれしか、大切な人を守れない。──一人で崖から身を投げても、私は安心することなんてできません。誰にも弄られることがないように、この手で箱の始末をしなくては」

 アイスブルーの瞳はどこまでも真っ直ぐで、ちっとも曲がってなんかいなくて。僕はこの強固な意志を崩せないことを思い知ると同時に、もう彼女を解放してあげたいと強く感じた。

「……君の願いを叶えるよ」

「あら、私はまだ何も言ってませんわ」

 手を握り返した僕にフェニモールは目を丸くしてから、僕の震えを溶かす様に笑った。


「手を握っていてください、どうか最期まで」


 ……振り出した雨の下、僕はフェニモールの背中を抱くように座った。右手はナイフを持つ彼女の右手に添えて。左手は彼女の左手と強く絡めて。

 彼女の手は迷わない。それでも震えるのは、恐怖に蝕まれているからではない。……僕の体から走る電流が、彼女の意識を繋ぎとめていることを実感する。僕のこの力があるからこそ、彼女はまだ、立ち向かうことができている。


 ──ボリス。願わくば、どうか恨まないで。


 蒼白な彼女の顔。顔に掛かる雨粒すら彼女の命を吸い取っているように思えて、彼女の顔をできるだけ覆うようにした。目と目が合う。……唇は強く噛み締めたせいで、血が滲むどころではなく深い傷跡ができていた。いっそ左手を離せば彼女は気を失える。けれども、繋いだ手は剥がれない。ふと、彼女の顔がぼやけた。眼鏡に落ちた涙のせいで。


 ──貴方に世界を恨ませるために、私たちは出会ったわけじゃない。


 彼女は震える左手を動かす。僕の左手も導かれる。彼女の切り開いた運命から、血に濡れた小さな箱が取り出された。彼女が望むままに僕も右手を動かして、ナイフを持つ手を思い切り握り締める。……ナイフは振り翳されることはなかった。プディングを切るように、すっと箱の中を滑る。途端にあふれ出した音は、赤ん坊の泣き声のように切なく弱弱しく響いて消えた。箱は小さな光となって僕らの手の中からあふれ出し、空へと昇っていく。

 フェニモールは木の葉が揺れるように笑った。それから僕を見て、二回だけ瞬きをする。三回目はなかった。彼女の開かれたアイスブルーの瞳が、ゆっくり、ゆっくりと色を失っていく。砂時計から落ちるように、彼女というものが消えていく。


 ──ボリス。優しいボリスノーク。

 貴方は、私を救うために出会ってくれた。そしてまた、誰かを救うために、今私と別れていく。

 私は幸せ。不幸なことなんて、この幸せで全て消えてしまった。貴方と会えて、救われて、最期にこんなワガママを聞いてもらえた。


 さようなら。

 ありがとう。


 どうか、良い旅を。


 ……そして残ったのは、僕だけだった。彼女が息絶えた瞬間を見守ってから、ようやく堰が切れたかのように嗚咽が叫びとなって喉を駆け上る。青い雷が走り回って幼い左手を二つ焼いたが、痛みなんてもう感じなかった。


 彼女が死んだ。

 僕は事切れた彼女の瞼に右手で触れる。けれども、薄い青い瞳に付いた泥を払うことは出来なかった。まだそんなことを考えてしまう自分は、彼女の死を受け止められていない。それでもあえて僕はもう一度呟く。彼女が、死んだと。

 雨はいつの間にか霧雨に変わり、悼むように森に染み渡る。世界から音が消えてしまったようにあたりは静まり返り、今この世界には僕と彼女だったモノだけが存在しているような錯覚を覚える。

 右手を服に押し付けてできるだけ滑りを落とし、僕は自分の左手に触れた。まだ彼女の手はしっかりと僕のそれに絡み付いている。だが、もう温もりを失い、硬直は直に訪れる。そうなったら僕は彼女を降り払うことができないだろう。

 それでも心を引き裂く思いで絡んだ手を解く。僕の左手にははっきりと、彼女の指の痕が付いている。……何度目かわからない涙の粒が、眼鏡の内側にぼたりと落ちた。

 

「──フェニモール……!」

 僕の引き攣れた叫びの上に、霧雨は降り注いでいく。


 彼女がどれだけのことを背負っていたかわからない。けれどもこんな結末を選ばせるほどの重荷であったことは確かなんだ。

 そんな彼女を、僕は守ることができなかった。

 ごめん。本当にごめんねフェニモール。……でも、君がどうして最期まで笑ってくれていたのか、僕はちゃあんとわかってる。しっかり伝わったよ、だから安心して。──もう届かないけれど、僕は言うよ。君のことが好きだった。君の笑顔が、とてもとても大切だった。幸せにしたかった……。


 彼女から離れ、弔いをしようと立ち上がったときだった。枝を踏む微かな音に僕の心臓は跳ね上がる。

 誰かくる。

 僕はフェニモールを見下ろす。せめて別れの挨拶くらいと思ったが、近付く足音は待ってくれない。濡れたシャツを脱いで彼女の腹部を覆うと、僕は一目散に駆け出した。 

 ……僕は生きなければ。生きて、証明をしなければ。

 君を奪った世界も、胸の痛みも、なにもかも、なにもかも。

 君の言葉を忘れない。君を忘れたりなんかしない。

 

 *


 青年は冷たい雪の上にしゃがみこむ。吐く息は白く色付くか、すぐに風が攫っていった。周囲には何もない。切り立った崖の下には、どこまでも白い大地が広がっている。

 十五年ほど前のことだろうか。ここには一つの谷があった。谷には小さな村があり、そして深い森が囲んでいた。今はもう……何もない。

 風が悪戯に癖の強いアッシュグレーの髪を撫で回した。青年は気にした素振りもなく、懐から煙草を一本取り出して咥える。長い前髪が揺れ、赤いフレームの眼鏡と左目の泣きぼくろを晒しても、まったく意に介さず紫煙を吐き出す。体勢を変えようと左手を着いたとき、その掌の傍らに黒い傘が刺さった。

「危ねェですよヒメさん。お気に入りでしょ」

 青年は笑いながら傘を抜く。ぐるりと包帯が巻かれた左手で器用に雪を払うと、青年は恭しく頭を垂れ、傘を差し出す。青年の後ろには、いつの間にか小さな少女が立っていた。少女は闇から編み出したようなドレスを身に纏い、顔にもヴェールを掛けているために肌は一切露出していない。白い雪の上に立つ黒い少女は青年に近付くと、乱暴な仕草で傘をもぎ取った。

「またなくされて大騒ぎされても困りまさァ」

「わたし、もう飽きたわ。お前の故郷っていうからわざわざ着いてきてみれば、なぁに? 見渡す限り雪しかないじゃない」

 少女は自分の意見だけ述べると、未だ垂れたままの青年の頭に傘を当てる。しかし、青年は笑った。

「ヒメさん、心配しなくても落ち込んだりなんかしてませんぜ」

「寒さで頭が壊れたのかしら」

「まあなんでもいいですよ。さて、そろそろ行きましょうか」

 青年は立ち上がり、長い髪についた雪を払うと少女を抱き上げる。片手に煙草、片手に少女。一つの足跡と二人分の影が雪に落ちていく。

「もういいの?」

「ええ、ヒメさんの言うようにここにはもう何もありませんから」

「ふうん。わたしはてっきり、お前の故郷ってあの奴隷市かと思っていたのだけれど」

「あのって、どれです? ここを出てから点々としてたんで思い当たるもんが多すぎますなァ」

「わたしが知ってるのは、お前と出会ったところだけだわ」

「あ、そういやそうですね。でもヒメさん、あんなんが故郷だなんて冗談でも笑えねェですよ」

「そう? ニンゲンの考えってわからないものね」

「またそう言う。変わりませんね、ヒメさんは」

 青年の腕に座った少女はくすりと笑い、ヴェールの奥の瞳を煌かす。

「……お前は変わったわね。お前と出会ったのは十年以上前だったかしら。あんなに小さな子供だったのに、すっかり大きく育ってしまって」

「外見の話はしていませんよ」

 苦笑しながら青年が告げるが、少女はまたこれを無視した。

「それにしても何もないところだったわね、お前の故郷は」

「自分も、まさかここまでとは思いませんでしたけど」

「あぁ、寒いから間接が軋む。早くお風呂に入りたいのだわ」

「すぐにご用意しますよ」

「いえ、その前に温かいお茶を飲みましょう。お前も一緒にね、ボリス」

 少女は黒い手袋をした手で青年の頭を撫でる。チェスもしましょうねと笑う少女に、青年は手加減してくださいねと微笑んだ。

 “──私達は、失って不幸になることは決してない。”

 青年は一度だけ振り返る。

 あれからいくつも夜を超えた。それでも自分は生きている。沢山悲しい目にもあったし、辛いこともあった。それでも今。

 彼女が愛した世界を、僕は今も愛している。




おわり





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ヴィレッジ 森亞ニキ @macaro_honey

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