第5話 与えられた呪い
それは、随分と冷え込むようになった夜のことだった。
「待て、待ちなさいクロットユール!」
「やだぁ、助けてえフェニモール!」
きゃきゃ、と声高く笑いながらクロットユールがフェニモールの腰に纏わり付く。そのまま手を軸にして一回転し、彼女を盾に隠れるようにした。そこから僕を見上げ、舌を出す。
「あらあらまあまあ。なんの騒ぎですの」
「ボリスがヒステリーを起こしてるの」
「違うッ! クロットが僕のシャツをしわくちゃにして、泥の付いた手で触ったんだ!」
「お前、ちょっと潔癖症なんじゃないのお」
「育ちが違うんだよ、君とはね」
この言葉に、フェニモールは目を丸くして……笑う。クロットの返す言葉と、僕の反応が予想できたからだろう。
「今じゃお前だって泥まみれだろ」
「自分で汚すのはいいんだ!」
「屁理屈いうな!」
「そっちがだろ!」
つかみかかろうとしたボリスの手を交わし、クロットユールは逃げ出す。そのまま、二人はフェニモールの周りでどたばたとやり始めた。
「もう、そんなに騒いでると寝れませんわよ」
「いいもん、そしたら一緒に寝よ?」
「こら! 一人で寝なさい!」
「まあ、まあ」
走るクロットの首根っこを捕まえて、フェニモールが制止に入った。途端に目を細めて心地よさそうに笑うクロットが憎らしい。
「君はこの子に甘すぎる」
「お前が厳しすぎるんだろ」
「二人とも、仲がいいんだから」
「「良くないよ!」」
僕とクロットの声が重なる。そしてお互いに顔を合わせ、ぷいと背ける。
──正直なところ。フェニモールの言う通り、僕とクロットは随分とまあ、それらしく、うん。うまく暮らせていると思うよ。僕は最近じゃ畑仕事も板についてきて、ご近所との付き合いもそれなりにできるようになってきた。クロットだって、よく笑う子になったもんだ。あれもこれも、皆フェニモールのおかげだよ。
クロットの頬でも擽れそうなふさふさの睫毛で笑う彼女を見ていると、僕の心の、ぴんと張り詰めていたものがそっと緩んでいく。でもそれは決して不快じゃないんだ。
「今夜は皆で一緒に寝ましょうか」
「えー、こいつも一緒? フェニモールってば、ボリスに優しすぎぃ」
「言ってろ。……フェニモール、折角の誘いだけど僕は遠慮しておくよ」
「小難しいことを考えてますのね。どうせ、結婚前の男女が同じ寝床で寝るのはいかがなものか、とか」
図星だった。なんだか照れくさくなって眼鏡のズレを直す僕に、フェニモールが呆れた声を上げる。
「ボリス。貴方の志は立派ですけれども、ここはは貴方を背伸びさせるお屋敷じゃありませんのよ。ただの六歳らしく、なにも考えず、ただ好きな人の傍で眠ればいいのですわよ」
……確かに、そうだった。
ここは僕の、あの家じゃない。わかってはいるけれど、中々染み付いた教えは抜けないもんさ。これでもちょっとはましになったんだけど。
わかった、と僕は頷いて笑ってみせる。なにも考えずこちらを見上げてくるクロットのように、僕はもっともっと、子どもとして振舞っていいのかもしれない。
三人でベッドに入る。月明かりにクロットの白い髪がきらきらと光っている。フェニモール越しに眺めていると、彼女のアイスブルーの目が柔らかく瞬いた。
「私、幸せですわよ」
「この程度でかい?」
「ええ、とってもとっても。毎日が幸せで、楽しいのですわ」
僕の冗談を知っているからこそ、彼女は包み込むように笑う。溢れんばかりの幸せを帯びているかのように、彼女の周りの空気が温かい。僕はこの際、気になっていたことを聞いてみることにした。
「……フェニモール。クロットに以前言った話を覚えているかい? 悲しみは未来の幸せに繋がるっているやつだよ」
「ええ、もちろん。それがなにか?」
「あれってさ。逆に言えば、幸せになるためには不幸になる必要があるってことだよね」
「あら、イジワルを言いますのね」
毛布に半分顔を隠したフェニモールが、頬を膨らますのがわかった。
「じゃあ聞きますけれど。ボリス、人間は不幸になるために生きているのですか?」
「それは違う、と思いたいけど」
「そうですわ。誰だって、幸せになるために生きていくのです。その過程で、悲しいことも不幸なことも沢山あると思います。けれどもその先の未来があるからこそ、こうして夜に眠り、朝に目覚めることができるのですわ」
「……なるほどね。君のその人生論は誰から学んだんだい?」
「誰だって気付けますわ」
彼女は手を伸ばし、僕の頭をさらさらと撫でて蕩けそうに笑む。僕はというと、照れ隠しにずれた毛布を直しながら目を閉じた。
「おやすみ、また明日」
話せてよかった、の変わりに一言告げる。彼女が嬉しそうにええと返してくれるのが聞こえた。
──目を開ける。
開けてから、異常な眩しさに目を閉じる。変な夢を見ている。……そう思った。しかし場面は変わらない。どれだけまっても、瞼の向こうは赤い色。
もう一度目を開ける。精一杯眇めながら睨みつける。眼鏡がないから、あまりハッキリとは周囲が見えない。白い天井に、巨大な天道虫がぶら下がっている。いや、違う。ライトだ。九個のライトが、僕を見下ろしている。どうしようもない眩しさに顔を隠そうとする。
──ようやく異変に気付いた。そして気付いてしまった瞬間、肌が粟立った。
僕の両手は左右にぴんとのばされ、まるで十字架に掛けられたかのように冷たい寝台に縛り付けられていたのだ。身動きできないことに、慌てて周囲を見渡す。首も固定されているが辛うじて動いた。一つ一つ“異常事態”を把握するたびに、心臓が痛いくらい高鳴っていく。
白い部屋。僕の寝台の傍に、吊り下げられたカーテンがある。そのほかには検討もつかない機械が沢山並んでいた。銀色の寝台の冷たさが伝わったように、僕はズボン以外身に着けていない。こんなところ誰かに見られたら怒られてしまう。……いや、今はあの家のことを思い出している場合じゃない。フェニモールは、クロットは?
背中を嫌な汗が伝っていく。……ここは、どこなんだよ。
「お目覚めかなぁ」
間延びした声に首を捻じ曲げる。いつの間にか、壁に寄りかかっている白衣の男がいた。後ろに撫で付けられた茶色の髪がいくらか乱れている。気だるそうな声なのに、その瞳はきらきらと輝いていてどこか気色が悪い。クロットユールを連れてきたあの男だ。
「ハクアス……さん。なんのマネですか? 健康診断にしても、もっと賢いやり方があるんじゃないですか」
「うん、いやあ。これが最上級の賢い方法なんだよね。おめでとう、ボリスノーク」
なぜここで祝われるのかわからず眉を潜める僕に、ハクアスはゆっくりと近付いて白い歯を見せた。
「今まで君のデータを集めて経過を見てきたんだけどね、君は本当にいい素材だねえ。だから僕自ら、僕の手で、君を最高のスニフにしてあげることになったんだよ」
なにを言われているのかよくわからない。データを集める?……僕がこの村から出て行きたかった理由の一つが、大人たちから体のデータを取られることだった。でも、献血とか身長体重とか、そんな感じだよ。村の暮らしはどうだとか、栄養が足りてるかとか。そんなことを言われるたびに、僕はこの村が子どもたちが自分の力で生きていく場所じゃなくて、金持ちの道楽で作られた安全な遊び場に見えて嫌だったんだ。データだって、子どもたちの健康状態を把握するようなものだと思っていた……違うのか? 唖然とする僕の目を捉えて離さないハクアスの瞳は、瞳孔が全てを飲み込むかのように開いていた。
「夢と魔法のアリスの箱庭に対して作られる、科学と現実のスニフの方舟。ハコはハコから生まれハコに至る。いずれ世界が沈んだ時、君達は自分たちが選ばれたモンスターであることを実感するだろう」
「モンスター……? 僕は人間だ」
「そう、今はね」
ハクアスは唇が触れそうな距離で微笑むと、ついと指でカーテンを示した。唐突なことに僕の視線はそれに従う。またしてもいつの間に、水色の髪の女性が立っていて、音もなくカーテンを開けた。
「ボリス!」
途端にクロットの泣き声が僕の耳に突き刺さる。カーテンの向こうはこの部屋と同じような作りで、真っ青な髪のクロットの向こうにもカーテンがあった。もちろん、クロットも僕と同じように寝台に拘束されている。懸命に動かない手を握ったり閉じたりして、助けを求めて声を張り上げるクロットの姿を見た瞬間、僕はこれが夢であるという希望の可能性を完全に捨て去らなくてはいけなかった。
「助けてよ、怖いよおお……ボリス、助けて!」
「クロット、落ち着け! 大丈夫、僕が付いてる。大丈夫だから!」
途端に、恐ろしいほどの聞き分けのよさでクロットが押し黙る。唇を噛んで泣き声を我慢する様子に、僕の言うことを聞けば助かると信じている彼の無垢さが胸に刺さった。
「フェニモールはどうしたんですか」
できるだけ震える声を抑え付けて問う僕に、ハクアスは両手をひらひらと振って見せた。
「あの子は大丈夫。安心して、僕はレイネ君にはなにもしない。する気もない」
「証拠は?」
「こればっかりは。信じてもらうしかないね?」
「……僕たちはどうなるんです?」
「うん。だからさ、楽しみにしててよ。残念なことに僕の体は一つだけ。まずはクロットユール、君からだね」
咄嗟にハクアスの白衣を掴もうとしたが僕の手は届かなかった。一歩一歩僕から離れ、一歩一歩自分に近付くハクアスにクロットが声にならない悲鳴をあげる。
「あげていいんだよ? 悲鳴。君は喉と声が大事だからね、声帯をしっかり引き締めて、ちゃあんと動きを見せてくれないと」
「やめろ、クロットに触るな!」
「はいはい、順番だから待っててね。さ、オーラ、抑えろ」
ハクアスがポケットから無造作に取り出したのは赤いチョーク。まるで魔法陣でも描く様に、顔を固定されて動けないクロットの首に滑らせていく。
「ひ、や、やだ、やだよぉお、やめてよぅ!」
「ちょっとくらい痛くても我慢してね。君の親族に負けないくらい素敵な声をプレゼントするからさ。麻酔は使えないから、暴れると死んじゃうかもね」
奥のカーテンからさらに数人の白衣が出てくる。……ところどころ赤に染まった白衣のまま、衛生概念なんて一つもない科学者たちはトレーに捧げられた大小さまざまなメスをハクアスに捧げる。
「ボリス君、あとはお楽しみだね」
ハクアスの声で、カーテンが閉められる。僕はたった一人動けないまま部屋に残され、クロットの名前を呼ぶ喉は恐怖で張り付いてしまった。
──だから、声だけが聞こえる。
「やだよおおお、やめてよおおおお!──いやだあ!」
クロットの泣き声。それは一度引き攣れたかのように途切れると、痛い、と小さく叫んだ。
痛い! 痛ぁい、痛い痛い痛いいたいいた……ああああああああああああああああああ。
僕の耳を突き刺すような悲鳴。それは段々と人間の言葉を模すのをやめて、野良犬が互いの体を引きちぎるような、ただの音の形骸へと成り果てる。僕の耳には、脳には理解できない脳裏をずたずたに引き裂くような音。ところどころにクロットの声の残骸が混じっているので、僕はその恐ろしい音がクロットの悲鳴であることを否定できずに、ただ、ただ聞いていることしかできなかった。
──たすけて、ボリス。
クロットが僕に助けを求めている。ノイズの中に辛うじて見つかった彼の声。
……けれども、僕は動けず。何もできず。そして理解できた現実を、受け入れることなんて到底できず。
フェニモールの優しい微笑みを脳裏に浮べて、意識を手放してしまった……。
*
──目を開けてしまった。再び押し上げた瞼の先に待ち受ける、攻撃的なライトが目を焼く。相変わらずの白い天井。……あぁ、やっぱり。なにもかもが夢だったら良かったのに。
身を起こしてから、自分の体を戒めるものがなにもないことに気付く。そして落とした視線に映った、白い包帯。僕の胸をぐるぐるに巻いているこれは、なに。
──一体、なにを。なにをされたというのか、僕がなにをしたって言うんだ……。
憎悪よりも、毛穴から吹き出たのは恐怖だった。触るのも恐ろしく、包帯の下を確かめる勇気もない。我ながら最低なたとえだと思うけど、穢された乙女のように身を丸めてしくしくとやるしかかなった……。
「気分はどうだい」
肩を撫でる声に弾かれたように振り替える。いつの間に、白い壁際に椅子が一つ置いてあった。そこに寄りかかり本を読んでいたハクアスは、僕の元に近付くとなにかを差し出してくる。……僕の眼鏡だった。
……無理だ。掛けられない。鮮明になった視界に、この包帯はどれだけおぞましく写るだろう。僕が無言で泣いていると、ハクアスはやれやれと肩を竦めた。
「痛むのかな? 薬を足そうか」
「……。」
「困ったな。口が聞けなくなる副作用なんて検証もしてないぞ。脳は弄ってないんだし、喋れるでしょう? なにも言わないんだったら、この場で頭を開いてあげようか」
脅しじゃない。ハクアスはただの指一本を振って見せたが、ブルーの宝石の光と相まって僕の目にそれはメスに見えた。
「く、薬はいらない」
咄嗟に出た声は酷いものだった。震え、罅割れた情けない声。
「痛くもない。平気、です」
「そうか。よかったね、包帯は何日かで取れるからね。一応傷からバイキンが入るといけないからね」
──傷。
聞くに聞けない疑問を僕が飲み込んでいると、ハクアスはふっと笑って自分から語りだした。どうも喋りたくて仕方がないような、浮かれている印象が焼きつく。
「ボリス君。君の家は、雷鳴竜を信仰してるでしょう」
「どうしてそれを……」
「興味があって調べたからに決まってるじゃないか。君は共和国の出身で、その家で英才教育を受けてたんだろう? 身なりからしてわかってたけど貴族の子だよね。それも王一族の分家の。……君はなんでも努力してきたけど、ご両親はまったく満足しなかったみたいだね。ご両親の愛は君の弟に注がれ、長男である君は辛く悲しい思いをしてきた。そして君は、親族たちの策略によってここ、“方舟”の管理する村へと連れられてきた」
「……それは、もう、昔のことです。今の僕には必要ないものですから」
「そういいながら、厳しい躾は今も君の身に染み付いているじゃないか。親の教育はどんな形であれ一生影響するんだ。だから僕は、君が胸を張って家に帰れるようにしてあげたんだよ」
「あんな家、帰りたくない!」
咄嗟にでた叫び声と同時に、体の胸あたりが痛んだ。それはなにかが走り抜けるような、神経に触れてしまったかのようなもの。反射的に僕は背筋を伸ばし、続いてやってきた引き攣れるような痛みに背を丸めた。
「あまり怒ったりしないほうがいいよ」遅すぎるアドバイスを言いながら、ハクアスは僕の顔に眼鏡を掛ける。「まだ制御できないだろうしね」
「制御?」
呟けば、待ってましたとばかりにハクアスは頷いた。
「君は、雷を操る力を手に入れたんだ」
なにを言うのか。僕は魔法使いじゃない。僕の疑問は予想していたのだろう、男の笑みが深くなる。
「──君の肺を改造したんだよ。わかりやすく説明すると、吸い込んだ酸素を元に静電気を発生させる装置を組み込んである。練習すれば、酸素があるところならどこでも放電できるようになる。ちなみに指先から放電するから、高温で焼けどしないように皮膚も人工的なものに変えてある」
男の言葉は僕には理解できなかった。ただ、“改造”という言葉だけがべったりとはりつくようにはがれない。
「体内にそこまで沢山の機材を入れているわけじゃないし、メンテナンスのために体を開く必要もない。君の生命活動こそが機械を動かすエネルギーなんだから、君が死なない限り機械は壊れない。水圧にも耐えるし、高温にも耐える。錆びない。なにも漏れ出さない。すごい技術だろう? 不調がでるとしても数年後か、数十年後か……エルバスが残した偉大なる技術、ここに極まれだ。雷鳴竜の力を擬似的に手に入れたようなものだから、ご両親も喜ぶんじゃないかな」
僕はのろのろと目線を落とす。自分の掌を見る。指先に張られた絆創膏が目に入った。そして包帯の巻かれた胸。……この中に、得体の知れないモノが入っているという。つまり、僕は。
「中々難しかったけど、良かったね」
──なにが?
「これで君は立派なモンスターだ」
もう人間じゃないのだ。その事実は発生とともに爆発的に膨れ上がり、僕の喉から絶叫となって飛び出していた。同時に這い上がるような痛みが、声帯を焼きつくすように広がる。青い光がばちばちと弾けとび、ハクアスの笑んだままの唇に傷をつけた。
もうなにもかも、なにもかも。
ただ叫び続ける僕は、一際大きな痛みをついに耐え切れず、再び身を丸くした。痛い、痛い痛い。痛い痛い痛い……。
「わからないなぁ、君はマゾヒストなのかな? 痛いの、わかってるでしょう」
「……あんたには、わからない」
せめて視線だけで。この男を殺せたらと願う僕に対し、ハクアスはどこまでも笑ったまま返してくる。
「いいねえその目。ゾクゾクするよ、レイン君と同じ目だ。ちょっと妬いちゃうね」
「……。」
「さて。落ち着いたところでクロットユールの様子を見に行こうか」
「……! クロット……」
意識を失う直前の、あの悲痛な声が蘇る。……彼もまた、僕のように玩具にされたのだろう。
「付いておいで、ボリス君」
思えばこの時、僕はハクアスを殺してしまうことは可能だったのかもしれない。
けれども、子は親には逆らえない。
僕はハクアスによって“教育”を施された子どもで、ハクアスは施した親。
……僕は。牙を持ちながらもそれをへし折られたライオンに過ぎなかった……。
*
部屋を出、階段を下がり続ける。地下へと続く湿った通路を歩きながら、天井から降りてくる音に耳を済ませる。僅かに聞こえてくる鐘の音は、この場所がまぎれもないあの村の地下であることを教えてくれた。
狭い階段を抜け、重い扉を押し開ける。早く入って、疲れるよという声に急かされるま、僕は足を進めた。
──そして、絶句。
緑色の気色悪いライトに照らされたケージの中に、動く“なにか”がいる。狭い通路をハクアスと同じような白衣を着た学者たちが動き回り、楽しげに笑いながら熱心にメモを取っている。“なにか”は複数だ。罅割れた声をあげたり、重たげな体を振り回したり。……だめだ、なんてことを、あぁああなんてことを!
一歩下がった僕に、ハクアスがぶつかった。
「おっと。足を踏んでるよ」
あんまりにも普通な反応に、僕はこの男が自分にした仕打ちを忘れて縋ってしまう。まともな反応をしてくれ、頼むから。そんなきょとんとした目で僕を見ないで。僕の目がおかしいのか?
「あ、あああ、あんた、これ……」
白衣の大人たちは僕たちを気にしているそぶりも見せない。ただ夢中で、あれこれはどうだとか、ペンで得意げにケージを叩いている。
──僕が親しくなった住人に、双子がいた。どこでも一緒にくっついていた仲のいい二人。今や、彼らは一つの体を無理やり縫い付けられて共有している。うまく歩けずに、床に這って、涙を零している。衣服もあたえられず、人間としての尊厳も奪われた姿で死にたいと呟いている。……それを見て、声が重なったと感激する学者がいる。
──僕が親しくなった住人に、モランという少女がいた。ちょっと捻くれていたけれど、フェニモールに負けずおとらずおてんばで木登りが好きだった彼女。自慢だった早い足が今やあとかたもなくただれており、膝から下がない。引き摺るようにして歩くたびにぽっかりあいた眼窩から血が流れる。……懇願をまったく聞かず、抜かれた目を愛でながら、首を傾げる学者がいる。
他にも、変わり果てた住人がいる。体から葉が生え、一心不乱に肌を掻き毟る者。離れた胴体を見て笑っている首だけの者。目と口をなくた者。数人で一つの塊になった者。
しにたい、しにたい、しにたい、ころしてやる。
彼らの呪詛がそこら中から溢れているのに、学者達には一切聞こえていないようだった。……未だ自分の足で立ち、一見普通の人間に見える僕は、彼らの呪いを一身に受けているようで息が詰まる。僕だって被害者だ、僕を睨まないで。……誰か、助けて。
「いつまで立ってるの。ほら、こっちだよ」
しゃがみこみそうになった僕の腕を掴み、ハクアスが起こした。このときばかりは僕はこの男に感謝する。……それが、激しい自己嫌悪を伴ったとしてもだ。
ケージの列を抜け、大きな水槽まで引き摺られる。
「ほらついたよ。君の最愛の弟だ」
顔を上げた僕が見たのは、水槽の中で眠るクロット。喉から首元にかけて手術の痕と、不思議な文様の刺青が刻まれている。その足に巻きついた鎖のせいで、ただ水中を白い髪をゆらゆらさせながら漂うその姿は、僕に死を直感させた。
「ク、クロット……! どうして、いつから?」
「うん? どういう意味だい?」
「早くだしてあげてよ! 死んでしまうよ、クロットが溺れちゃう……、あッ!」
叫んだ拍子にまた痛みが走った。懲りないねと笑うハクアスがこんこんと水槽を叩くと、満たされた水の中、クロットのマリンブルーの目が開く。
「もともと、この子は水に長時間潜れる子だったろう。死なないよ、これくらいじゃね」
クロットの目がハクアスを睨んでいる。白い髪がじわりじわりと赤く染まっていく。焦げるような赤まで染まりきると、一瞬で白に戻った。目は怒りに爛々と燃えている。
「君の弟はね、ボリス君。最初っから人間じゃなかった。すでに、半分はモンスターだったんだよ」
水中でクロットがぱっくりと口を開けた。直後、満たされてただけの水槽の水が、側面に向かって波紋を作る。水槽のガラスがびりびりと震え、亀裂を作ってから砕けるまではあっという間だった。咄嗟のことで動けない僕を、ハクアスの白衣がガラスから庇う。水槽から溢れた水が部屋に流れ込み、奥のほうにいた学者たちからは迷惑そうな抗議の声が上がった。……その程度のことらしい。排水は迅速に始まり、迅速に終わる。
足かせによって動きを封じられ、しゃがみこんだクロットがゆっくりと立ち上がる。膝まで塗らしたままの僕を見、クロットはくしゃりと顔を歪めた。
──僕はクロットにも責められるのかと怯えていた。彼のあんなにも悲痛な声を聞いていたのに、なにもしてあげられなかったから。
「……ボリス。お前も、されたんだ。」
指を指す先には、僕の胸の包帯。僕が反射的に頷くと、クロットは瞳から涙を零した。
「……痛かったよね」
「いや、彼は麻酔を打つ前から眠ってたよ」
「ゆるさない。ゆるさないぞ、お前は絶対に許さない」
「おや」
クロットは足元の鎖も気にせず飛び掛ろうとする。結果、割れたガラスの上に倒れこみそうになり、思わず僕は彼を抱きしめていた。
「殺してやる!」
「クロット、だめだ、クロット、そんなこと」
「離せ、殺す! 殺してやるんだ!」
「だめだ!」
ハクアスから庇うように、僕はクロットを抱いたまま叫んだ。するとクロットの体がびくりと震え、途端に力が抜ける。まとめてガラスが散った床へ落ちるところをハクアスの腕が支えた。
「たった一日で傷だらけになったら困るよ。その煩い子を黙らせたことは評価するけどね」
「……え」
言われて、僕は恐る恐るクロットに視線を移す。クロットは……気絶していた。
「水は電気をよく通す」
ハクアスの言葉が鼓膜から直接脳内に触れる。
「君がその力に慣れるまで、兄弟の触れあいは最低限にしたほうがいいね」
ハクアスはそう言って笑うと、僕の手にチョコレートを握らせて頭を撫でた。クロットの足の鎖を解いて、そろそろ家へ帰ろうねと笑う男の後ろで、様々な機械を一心不乱に弄る学者達が動いている。
それはまるで、個をなくしたネズミのようにも見えた。
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