たつまお。

ダイナマイト・キッド

たつまお。

「ねえ、達(たつ)。」

「なに?」

「今日ご飯食べ行こうよ。」

「えーいいよ寒いし。」

「行こうよ。」

「やだ。お金ないし。」

「行こうよー!」

「服つかむな、電車ん中だぞ。」

「行かなきゃもっとつかむ!」

「やめろって!」

「じゃ僕がおごるし、美味しいとこあるから。」

「…やっぱいい。」

「なんでーバイト休みじゃん。」

「なんでも。」

「んー。」

二人の会話が一瞬途切れたその時、ぴんぽん、というチャイムとともにアナウンスが流れた。

「次は終点、舞浜。舞浜です。お出口は着きましたホーム右側です。今日も舞浜線をご利用頂きまして誠に有難う御座いま…」

「ほら真央。降りるぞ。」

「ねえ、ごはん!ごはんごはんごはん!」

「なんだよ…。だからいいって。」

出口近くの吊革に掴まってわちゃつく二人のそばに若い女性がやってきて降りる準備を始めた。その後ろからタブロイド紙を持ったサラリーマン、日に焼けた黄色い帽子をかぶった老人、たばこくさい中年女性が続く。夕方の電車は混み合っていて、いろんな人の息遣いが濃密に混じり合ってむっとしていた。

二人のそばに立った若い女性が、チラチラと真央の方を盗み見ている。二人の会話をそれとなく聞いているようだ。指先を携帯端末のタッチパネルに滑らせながら、耳だけがじっとそちらを向いている。

「ねえごはん!」

真央と呼ばれている華奢な男の子が、もう一人のがっしりした子、達の袖にしがみついて足を軽くばたつかせている。おかっぱの黒くてさらさらした髪がふわふわ揺れて、あどけない少年のような、可憐な少女の様な…実に中性的な美しさを振りまいている。女性でなくとも思わず振り向くような可愛らしさだった。

達と真央は高校2年のクラス替えで知り合い、やがて親友になった。何か共通点があるでも似通った部分があるでもなく、ごく自然な成り行きだった。以来12月初めの今日まで、登下校や昼食、時には夕食も共にするようになった。

「ねえ…。」

上目づかいで達を見つめる真央は、確かに可愛かった。いつしか達は彼の可憐さと、それを見て可愛いと思う自分に戸惑いを覚え始めていた。真央が嫌いなわけではない。でも、これ以上近づくことを、気持ちの何処かで漠然と恐れていた。自分の価値観を根幹から揺るがすような、何か重大な間違いを犯してしまいそうで。


ステンレスのボディに青と水色のラインが入った8両編成の満員電車が、舞浜駅の4番線に滑り込んだ。ごった返すホームに向かってドアが開き、構内のどよめきと冬の冷たい空気が車内を一回りした。達と真央の前を件の若い女性が通り過ぎていく。すれ違いざまに、再び真央の顔をちらっと見たようだ。長い黒髪が風に流れて顔はよく見えなかったが、達的にはなかなかの美人だと思った。

その視線を感じ取った真央は、少し不機嫌な顔をした。彼が達に執着する理由は周囲にも、自分にも明明白白だった。気付いていないのは、どうやら達だけらしい。

「ねえ達ぅ!」

「あんだよ真央ぉ。」

「…ごはん。」

「…いいって。もう。」

「………。」

達の少々面倒くさそうな受け答えを聞いた真央は、ふてくされた顔をしてスタスタと歩き始めた。肩をいからせ、速足で歩き去ろうとするそのお尻が、丸っこくて可愛かった。達は小さく頭を振って、わざと億劫そうに追いかけて彼の肩を掴んだ。

「な、なあ真央。」

「なに。」

「あ、いや…。」

思っていたより冷たい真央の視線と言葉に、達は戸惑いながら精一杯明るい顔と声色で提案した。

「じゃ、じゃあさ、今日ウチ来いよ。俺が何か作るからさ…。」

「ほんと!そういえば初めてじゃん、達の部屋。やったあー!」

あまりの豹変っぷりに唖然とする達を置き去りにして、真央は駅員に定期をぱぱっと見せて改札を走り出てしまった。

「ま、真央!」

「なあに?」

真央は振り向きざま、くりっとした瞳をキラキラさせて、大きく顔をかしげて見せた。

「お、怒ってないのか?」

「えっ?なんで?」

さっきまでの表情とは打って変わってケロっとしている。達は後ろがつっかえているのに気が付いて、慌てて改札を出た。


舞浜駅から、その先にある私鉄の公田寺駅までテクテク歩いていく。乗り換えて電車で行くことも出来るけど、達は節約と体力作りのために可能な限り歩いていた。無論、真央も達とお散歩デートが出来るとあって喜んで隣を歩いている。公田寺駅まで今日あった事や真央の好きな映画の話をしながら歩いた。1970年にメキシコで作られたあの映画を、真央は是非一度、達にも見てもらいたいと言っている。ヨガの達人、自己喪失の極み、完全者、そして無の男が跋扈する砂漠の世界を。そこを旅するガンマンが、やがてフリークスたちの神になり開拓者の街で殺人鬼へと変わり果てる姿を。だが映画の内容をかいつまんで聞かされた達は、ぜひ遠慮したいと言い鑑賞を拒み続けている。


真央は普段と今日とでは帰り道が違う事に気が付いた。何度か達の自宅前までなら行った事があった。このまま公田寺駅の北口を通り過ぎれば、近所では有名な商店街だ。達にも真央にもなじみ深い、三角形のアーケードが見えてくる。長い信号と横断歩道を渡り、入り口に差し掛かったところで真央は達の袖を軽く引いて聞いてみた。

「あれ?今日はこっち?」

「ああ、おかず買うから。」

「ごちそう作ってくれるの!?」

「あ、居た居た。おっちゃん!」

「おおーたっちゃん!いま帰りかあ!」

「おう、ただいま!」

達は真央の無邪気な質問をわざと大げさに無視して、商店街入り口の魚屋の主人に声をかけた。応じた主人はずんぐりむっくりの体躯と大きなだみ声で愛想よく話し始めた。

「おっ!そっちの子は随分可愛いじゃねえか!」

「友達だよ、友達!」

「なーんだ男の子か。いやーもったいねえな!それにしたって今日も買い出しか、偉いな全く!」

「へへ。えーと今日は…」

「おう!今日はよぉ鮭のいいの入ってるぜ!脂がのっててなあ、どうだ!」

「じゃあ、それちょうだい。あと、いつもの、ある?」

達が少し照れくさそうに切り出すと、魚屋の主人は「おう、あるよあるよ!」と言いながらいそいそと店の奥へと入っていった。

「あいよ、お待ちどう!」

真央が察するに、どうやら中身は魚のアラのようだった。

「悪いね、いつも。」

「なぁーに、いいんだよ!がははは!!」

魚屋の主人は達のことがいたく気に入っているらしく、グローブのような手で彼の背中をぼんぼん叩き、また商いに戻っていった。達もこの主人とは顔なじみのようで、普段は見せないようなニッコリとした微笑みを残して歩き出した。

「ねえ」

「ん?」

「何作ってくれるの?」

「んー、鮭だから塩焼きかな。」

「えーお鍋が良い!石狩鍋!」

「俺、石狩鍋とか知らないぞ作り方。」

「いーよお鍋なら何でも!ねえーおーなーべ!」

「やだ!塩焼き!」

「お鍋が良いー!」

「しーおーやーき!」

こうなるとお互い意地になって来て、アーケードの下を歩きながら喧々諤々。どうしてもお鍋が食べたい真央と、作るのも片付けるのも面倒だという達。両者は一歩も譲らないまま、アーケードを半分ほど歩ききってしまった。

「ほら達!これ美味しそうだよ!お鍋に入れようよ!」

と立ち止まった真央が指をさしたのは、高田青果店と書かれた八百屋の軒先にずらりと並ぶ、大ぶりで丸々とした大根だった。

「すごーい。太くてすっごくおっきいよ!こんなの見たことない…すごーい。ねえ入れてよ達うー。」

「……あ、あのなあ真央。」

何故か少し顔を赤くした達が、真央の肩にぽん、と手を置いて続けた。

「い、いくら美味しそうだからって、あの、まあ最近野菜は高くって…。」

「おっ!たっちゃん、今日は鍋か?」

そこへ抜群のタイミングで店主が出てきて達に声をかけた。太い眉とがっちりした体躯が特徴的な如何にもスポーツマンと言った風体に、○に高と書かれた藍色の前掛けがよく似合っている。

「あ、高田さん、いや、まあその…」

「そうなんです!これから二人でお鍋しようって話してて。」

「おい真央!」

「そうかそうか!いつも偉いよな。たっちゃん、男の中の男だよ!」

「ねっ!さーすが達!」

店主が達を褒めるのに合わせて、真央もちゃっかり持ち上げている。

「よし!この大根、安くしとくぜ。」

「ありがとうございます!やったね達!」

「は、はあ…。」

「あと鍋だろ、白菜と人参とタマネギとシイタケ、ああニンニク入れろ、青森のだから。な!もってけや!」

上機嫌の店主は白菜を丸々ひと玉、人参とタマネギとシイタケ、そしてそれ以外にも何種類かのキノコに加えて大ぶりなニンニクを2玉、大きな白いビニール袋にどさどさ入れて達に手渡した。

(これで今夜は、寄せ鍋か。)ここへ来て、達は腹をくくった。

「それでお幾らですか?」

「全部で1000円!」

「へ!?」

「すごーい!おじさん太っ腹!」

真央が手を叩いて喜ぶのを見ると、達も観念せざるを得なかった。桃色の、少し薄い唇と、その隙間からこぼれる白い歯。ふわりと顔の前を漂った吐息の温かさが、妙に生々しくて、達は慌てて財布から500円硬貨を2枚取り出して店主に押し渡すと、お礼もそこそこにそそくさと立ち去った。

「あっ、達!待って!」

慌てて追いかけた真央の手が、達の持つビニール袋に伸びた。

「ひとつ、持つよ。」

「えっ、いいよ。」

「いいから!わがまま聞いてもらったし。」

半ば強引に、野菜の入った重い方の袋を譲り受けた真央の指先が、達の手のひらを優しくなぞった。思ったより温かでしなやかだったことに、達はまた少し戸惑った。


長く伸びた影を引きずりながら二人は夕暮れの住宅街を並んで歩いていた。真央の右手と、達の左手には、それぞれ魚と野菜の入ったビニール袋がぶら下がって、ガサガサと上機嫌な音を立てている。

達は市内の古いアパートで独り暮らしをしていた。理由は真央も知らない。ただ実家を出て、普段は複数のアルバイトをして生活をしていることだけは聞かされていた。大家が昔からの付き合いだとかで、家賃などは多少融通してもらっているらしい。真央としても誰にも邪魔されず二人きりになれる空間があった方が好都合なので、あえて聞くこともなかった。

どこか遠くで気ぜわしく鳴る踏切の音を背中で聞きながら、真央は達の手をこっそり握った。温かい、でも少しごつごつしていて厚みのあるこの手が真央は大好きだった。

「なにしてんだよ。」

「えへ!」

「えへ、じゃなくてさ。」

「いいじゃん。」

「よくねえよ。」

達は真央の手を振りほどこうと腕ごと激しく動かしたが、真央も食い下がってくる。冷えた指先に少しずつ、真央の体温が伝わっていくのがわかる。

「離せって!」

「やあーだ。」

「離せよ!」

「やだっ。」

駅前の喧騒から少し離れた閑静な街並みに、ごぉーっと電車の通る音が響いてきた。二人は妙に気まずい沈黙を数秒間味わって、やがてどちらともなく再び歩き始めた。手は、つないだままだ。

「優しいんだ。」

「…も、いい。好きにしろ。」

(そういうとこも、大好き。)真央はそんな言葉をそっと飲み込んで、柔らかな笑顔を作って見せた。


やがて前方に古びた二階建てのアパートが見えてきた。煉瓦造りの外壁には年季の入ったツタが幾重にも絡まり、赤い三角屋根と洒落た鉄格子の丸っこいベランダ、それに両端の部屋の出窓が時代を感じさせる。モダンなようだが、どこかうらぶれた寂しさも漂う建物だった。近くには真新しいアパートや建売住宅が立ち並び、余計にこの古いアパートを街並みから浮き上がらせていた。

「あらおかえり。仲がいいのねえ。」

「あっ。」

大家の老婦人がちょうど一階の自室から出てきて、達と真央を見るなりそう言った。達は慌てて真央の手を振りほどいたが、かといってどうすることも出来ずもじもじしてしまった。

「こんばんは!」

「あらこんばんは。いつも送ってくれてるね。ありがとうねえ。」

「いやそんないつもじゃ…。」

「はい!今日はお鍋するんです!」

「おい真央…。」

ヒジで脇腹をつつく達を尻目に、真央はにこにこしながら大家と話を続ける。

「まあいいわねえ!じゃあ、楽しんでね。」

「はあい!おばさんも寒いし気を付けてね!」

「ありがとねえ。じゃあ、またね。大事にするのよ、ね。」

「あ、はい…や、あの、あ」

大家は満足そうに微笑むと、新聞受けからハガキを数枚取り出して自室へ戻ってしまった。バタンとドアが閉まる時に、ようやく【大事にする】の意味を理解した達だったが、慌てて否定しようにも時すでに遅かった。


達の部屋は、このアパートの二階の角部屋だった。ところどころ塗装の剥げた黒い鉄階段をカンカカンカカンと登って行ったすぐ右側の素っ気ない鉄製のドアに、不釣り合いに可愛らしい小さな木の表札がかかっている。あまりに殺風景だからと真央が達の誕生日に買ってきて無理やり取り付けたものだった。白雪姫に出てくる7人の妖精たちが取り囲む切り株のテーブルの部分に苗字が一つと名前が二つ入るようになっている。ただし今のところ、表札には達の名前が書かれているだけだ。

(いよいよかぁ…。)

かじかんだ指先でガチャガチャと鍵を開けるのに手間取っている達を後ろで待ちながら、真央は少し感慨深くなった。思えば達と初めて出会った今年の春からこの日をずっと待ち望んでいた。一目惚れだった。達は男気があって優しいがどこか他人を遠ざけているような節があって、それが真央には気がかりでもあり、また魅力でもあった。そんな達が、自分を部屋に招き入れてくれる、という事は…。

(つまりは【オッケー】ってことだよね!)

いささか飛躍した結論を弾き出し、細い腰をくねらせて鍵の開くのを待った。彼と達の、狭く甘い空間へのドアが、目の前で開こうとしていた。


カチャ!と固く乾いた音がして、ようやくドアが開いた。

「古いんだよなこのドア。」

ぶつくさ言いながら、達はドアを開けて真央を促した。真央も喜んで後に続いて、玄関に踏み込んでまずは深く息を吸い込んだ。よそ様の家独特の違和感たっぷりの空気に達の生活臭が染みついていて、真央はたまらなくなったのを堪えながら元気よく言った。

「ただいまー!」

「俺ん家だよ。」

「いいじゃん、ねえお腹すいた!」

「待ってろって。手、洗えよ。」

「やだ!」

「は?」

「だってせっかく繋いでくれてたのに…。」

「お前なあ、どうした?今日。」

「え?」

「なんかこう…べたべた、さあ。」

「そう?」

真央はとぼけながら洗面所のドアを見つけて手と顔を洗った。かけてあるタオルに顔をうずめると、少し達のにおいがした。でもそれはすぐに、ツンとした生臭いにおいに変わった。(このタオル、何日このままなんだろ。)真央は狭い洗面所の片隅に積み上げられたタオルを一つ掴んで、今かかっているものと取り換えた。ついでに取り替えたタオルを洗濯機に放り込もうとフタを開けると、そこには…。

「おーい真央、手伝って!」

「あ、ああうん…ちょっと待って!」

真央は慌てて返事をしながらも、洗濯機に突っ込んだ手を休めはしなかった。しっかり握った黒い布きれ…それは達のボクサーブリーフだった。台所に居る達に背を向けて、それを両手で口元にしっかり押し付けると一気に息を吸い込んだ。

一瞬、息が詰まりそうなほどの強烈な臭気が鼻腔を突きぬけて、肺の奥まで染みわたっていくようだった。真央はそれでもブリーフを口元から離そうとはせず、伸縮する生地に顔をめり込ませていった。

(ああ、すっごい…。これ欲しいなー。)

「おーいってば!」

「あ、うん!ごめんごめん!」

名残惜しそうにもう一度だけ深く息を吸い込んでからブリーフを洗濯機に戻して、真央は達の元へと駆け寄った。達はすでに上着を脱いで白いシャツの袖をまくって料理に取り掛かっていた。

「麺つゆ出して。」

「はーい(ああ、今も達は同じぱんつ穿いてるんだ、凄く臭うんだ)。」

今しがた味わった臭気の余韻から妄想を膨らませて上機嫌の真央は、ガス台と米びつのさらに隣にある小さな冷蔵庫の扉を開けた。中身は綺麗に整頓されていて、ドア横の棚に置いてあった麺つゆもすぐに見つかった。真央はしゃがまずに中腰になって冷蔵庫をあさった。内股で、小ぶりなお尻を思いっきり突き出しながら。そのお尻の頂点の先には、達が居たからだ。

「はい、麺つゆ!」

「あ、ああ。ありがと。」

赤くなった顔を伏せながら麺つゆを受け取った達が調理台に向き直るのを見計らって、真央は少しだけほくそ笑んだ。


トントントトントン…。小気味良い包丁の音が狭い部屋に響く。ぐらぐらと火にかけた鍋からは、もうもうと湯気が立ち上ってきている。真央は居間のこたつにもぐりこんで、そんな達の様子をじっと見ていた。手伝って、と言われたは良いものの近所の中華料理店の厨房でアルバイトをしている達の手際は見事で、野菜も魚もあっという間にさばいてしまった。真央の出る幕は微塵もなく、初めこそ感心していたが今は飽きてしまってこのざまだ。

達の背中には少し汗が浮いてきていて、白いシャツに灰色の染みを作っていた。まくり上げた二の腕には大きな力瘤が盛り上がっていて、これも日ごろの中華鍋と鍛錬の賜物なのだろう。真央はそんな何もかも自分とは正反対の肉体と経験を持つ達を見ているのが、いま何より好きだった。

「ねえ達。」

「んー?」

鍋をかき回す達は、真央に背を向けたまま呼びかけに応えた。

「まだー?」

「まだー。」

「ねえー。」

「んー?」

「おなかすいたー。」

「まだ!」

「ねむいー。」

「テレビでも見てろよ。」

「んー。」

真央はうつぶせに寝転んだまま腰までこたつに入り込んでいたので、起き上がってリモコンを探したりテレビの主電源を探したりするのが億劫だった。それよりも、せっかく達のお部屋に来たのだし、髪の毛や肌が汚れているのが気になる。そして真央は閃いた。

「ねえ達。」

「んー?」

達は手を休めることなく、具材を鍋に入れてオタマでかき混ぜているところだった。

「先に、シャワー…浴びるね。」

 わざと悩ましそうな、映画の吹き替えにでもありそうな声と仕草を作ってみる。

一瞬の沈黙のち。

「お、おう…。ん?なんでだよ!」

「だってえ。」

「だってえ、じゃねえよ。」

「汚れてちゃ恥ずかしいじゃん。」

「だからそれが…」おかしいじゃないか、と達は言いかけて、その言葉を飲み込んだ。

「ん、しょっと。」

真央はコタツから抜け出すと、その場で衣服を脱ぎ始めた。

「お、おい真央!」

オタマを片手に持ったまま、達が二度びっくりして声を上げる。

「なあに?」

「こ、ここで脱ぐな!」

「えー。いいじゃん、僕オトコノコだよ?」

「そうだけどよ…。」

そう言いながら、達は慌てて鍋の方に向き直った。真央はそんな達の態度も意に介さず、するすると制服を脱ぎ終えた。白く滑らかな裸身に不釣り合いなほど生い茂った黒い毛が、腋と下腹部にだけちらほらと見え隠れする。

達は少し震える手先を、オタマで鍋をかき混ぜながら誤魔化した。真央はそんな達がこちらに振り向くのを期待していた。鍋の中で煮える食材に強引に集中させた意識が、背中から溢れて真央の白い素肌に突き刺さる。しかし結局、達が振り向くことはなく、真央は部屋の寒さに耐えかねて浴室に入った。


蛇口をひねって、シャワーの水がお湯に変わるのを待つ間、真央は狭い浴室を見渡した。小さくて深い湯船、薄いピンク色をした風呂桶、男性向けのトニックシャンプーのボトル、身体を洗うためのスポンジの代わりに置かれていたのは、なんとヘチマだった。

蛍光灯で白く照らされた空間に、濃密な湯気が立ち込めてきた。

(この同じ空間の中に、普段は一糸まとわない達が居て、同じお湯を浴びている。同じ石鹸を使って、同じタオ…ヘチマを使って、同じ湯気を吸いこんでいる。)

真央にとって、もはや彼の全てが愛おしく、興奮を増すものとなっていた。それは些細な事から下着などの直接的なものまで様々だったが、こと同じ浴室に自分が今たしかに存在していると思うのは格別だった。この部屋を出れば、達が居る。どんな姿で出ていこうか。どんなそぶりを見せてみようか。真央の思考は膨らみ、熱く凝り固まっていった。


一方の達は、かき乱された心を押さえつけるのに必死になっていた。まるで煩悩と戦う僧侶が一心不乱に仏像を彫るように、目の前で煮立つ鍋を凝視している。だが考えることと言えば今日までの真央の振る舞いであり、さっき見た彼の可憐な仕草と突き出された尻の事。自分は同性愛者ではない、断じてない。その筈だった。だが今はどうだ、あの満員電車でのやり取りからたった2時間も経たないうちに、彼の事で頭がいっぱいになってしまっている。思い返せば真央と友人として付き合いを始めてからというもの、やけに彼が可愛らしく振る舞ったり、自分に甘えてきたりするようなことが多かった。

(違う、ぜったい違う!)

かぶりを振って再び鍋に突っ込んだままのオタマをぐるぐると回してみた。沸騰を始めたみそ味のつゆが、濃厚な香りを運んでくる。上出来だ。

(早く準備しちまおう。)

達は火を止めて、コタツの上を片付け始めた。麦茶の入ったボトルと小ぶりなグラスを二つ並べて、茶碗と汁椀、それにタッパに入ったヒジキの煮物を付け合せに。これは実家の姉が来たときに作っておいて行ってくれたものだ。


「ああーさっぱりした!」

バタン!と音がして真央が浴室から出て来たのがわかった。達は引き戸の曇りガラス越しにその姿を見て、またドキッとした。真央は彼愛用の大きなバスタオルを、女性がするように胸元まで包むようにして白く艶めかしい肢体に巻きつけていたのだった。

「おい真央!」

考えるよりも先に、身体と声が前に出ていた。曇りガラスからひょいと乗り出した達の視線の先には、先程と同じように冷蔵庫に向かって身体をかがめた真央の後姿があった。

「あれえ達、お茶はー?」

どうやら今ここに出した麦茶を探しているらしい。

「ま、真央…。」

「なあにー?」

真央はこちらを振り向きもせず、代わりに可愛らしいお尻が左右に揺れた。

「お茶…こっちだから。」

「そう?ありがと。」

と声をかけて背中を跳ね上げるように勢いよく上体を起こした拍子に、真央の身体を包んでいたバスタオルが音もなく剥がれ落ちた。透き通る白磁の様な肌と、ふくよかな尻が露わになった時、達は目を逸らすことが出来なかった。

「あっ!」

「やだっ!」

二人は同時に声を上げた。達は咄嗟に目を伏せたが、よく考えたら同性でこんなに恥ずかしがる必要もなかった事に気が付いた。しかし、そんな達の仕草を、真央はしっかりと見て確信していた。

「ねえ達?」

「な、なに?」

「見た?」

「な、何を?」

「ぼく。」

「え、あ、み…見てない。」

「なんで?」

「なんでってそりゃあ…。」

達が最後まで言い終わるよりも先に、真央は達の正面に回り込んで、俯く彼の顔に手を回した。達のたくましい首筋にぶら下がるように迫る真央の濡れた髪の毛から、冷たい滴が畳に、達の爪先に、ぽたぽたと音を立てて零れ落ちる。


お互いの濃密なにおいがはっきりと混じり合う程の至近距離で二人は見つめ合った。達の鼻腔には使い慣れたせっけんとシャンプーと、あと何か甘いにおい。真央の胸いっぱいに広がっているのは、達の乾いては染みた汗とほろ苦いわきが。

「よせって!」

「なんで?」

達は目を閉じてかぶりを振った。真央はしつこくぶら下がって、そのまま自分の華奢な胸板に達の横顔をぎゅっと押し付けた。焦る達を小馬鹿にしたような素振りとは裏腹に、真央の心臓も破裂しそうなほど激しく、熱くなっていた。

「いいよ。」

「え?」

「見て。」

「な、なにを…?」

達の声は情けないほどかすれていた。

「ぼく。」

真央はおもむろに立ち上がり、達の前にその裸身をさらけ出した。両手を後ろで組んで少し後ろにそらせた体の線が、殊更に真央の下腹部を強調している。達は顔を上げることが出来ないまま、しゅうしゅうと荒い呼吸を繰り返した。

「よせったら!」

達は大きく体を揺すって、なるべく真央に打撃が無いように、しかし確実に突き放そうとした。しかし身体をくねらせていた真央は思ったよりずっと呆気なくバランスを崩して、居間のこたつの前へと吹っ飛んで行った。

「痛いっ!」

「あっごめん…。」

慌てて顔を上げた達の目に飛び込んできたのは、四つん這いを横に崩したような格好でうずくまる真央の、剥き出しになった下半身だった。きつく折り曲げた膝が、真央の白く丸い尻と、その中心の剥き出しの劣情を達に向かってぐいと突き出している。

「うっ…ぐすっ…っ…。」

「ま、真央…。」

泣いている…とうとう真央を泣かせてしまった。達は狼狽するあまり、思わず一歩前に踏み出した。みしっ、と床が軋む音がして、真央の肩が一瞬固く縮こまる素振りをした。それを見て…達は段々と頭の奥の方がじんじんと痺れてゆくのを感じていた。

「…真央。」

もう一歩、達は真央に近づいた。真央は、まだこちらに反応をしない。みしっ、みしっ、と鈍い足音を立てて居間に踏み込む。住み慣れた我が部屋が、まるで別世界のように感じられる。いつもと何も変わらないはずの部屋、今日この日この時、そして親友…すべてがぐるぐると達の頭の中で激しく回転し、混ざり合い、また溶けだしてゆく。そして達の手は、真央の両肩に触れようとしていた。近寄ってみると真央の白い肌には血の通った赤みがさしていて、それがより一層、彼を蠱惑的に見せていた。

(ぐくり…。)

達は生唾を飲み込んだ。そしてそれは、真央の愛くるしい誘惑を受け入れた音でもあった。そっと真央の上から覆い被さり、強く抱きしめた。

「今度は、痛くしないでね。」

やがて達を迎え入れ、下から包み込むように腕を回した真央が、耳元で甘く囁いた。

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