月氏

 視界を埋め尽くす草原は、果てしない大海に思えることがある。

 吹きくる風に揺れる草叢は、水飛沫を上げる波にも例えられようか。

 扶蘇を乗せる月氏の馬車は、遠目にはさながら波間をくぐり抜け航路を進む小舟にも見えたことだろう。

 月里朶ユリドの率いる月氏の軍は西へ西へと行軍を続け、扶蘇は天頂を過ぎた陽光に眩しそうに目を細めつつ、馬車の脇をゆく騎馬の将の言葉に耳を傾けていた。


「ご気分はいかがですか。この地は秦とはだいぶ気候も異なりますが、お加減の悪いところはございませんか」

 そう問いかけてくる若い将は、月氏の者に特徴的な彫りの深い顔立ちで、瞳には落ち着いた光を湛えている。安世光あんせいこうと名乗るこの男は、先日は匈奴に先陣を切って突撃する猛将ぶりを見せつけていたが、普段こうして言葉を交わす分には物静かで穏やかな印象がある。


「どうということはない。私は丈夫なことだけが取り柄だ」

 口元に笑みを浮かべる扶蘇の隣で、陳勝は不満げに唇を歪める。


「そうであればよろしいのですが。もしご気分が優れぬことがおありでしたら、すぐに傍のものにお申し付けくださいませ」

「気を使って頂けるのはありがたいが、私は眺めの良い草原を見ていると、むしろ心が晴れ渡っていくのを感じる。城壁の中にいるよりもむしろ気分が良いようだ」

「それはようございました。料理はお口に合わないということはございませんか」

「羊の肉も馬乳酒も大層美味い。月氏兵の強さの秘密の一端を垣間見るようだ」

 安世光はその言葉に目尻を下げた。扶蘇の言葉は世辞というわけでもない。月氏の食事は匈奴のものとそう変わらないものではあったが、やはり馬乳酒を飲むと心身に精気が満ちる思いがする。


「扶蘇殿は案外、草原の暮らしのほうが合っているのかも知れませぬな」

 扶蘇の言葉に気を良くしたのか、安世光は少し口が滑らかになった。


「私は中華の世界しか知らなかったものでな。だがこうしてみると、天地とは実に広い。秦の外にどれ程の大地が広がっているのか、想像もつかぬ」

 扶蘇も儒家の者であるからには、中華世界の外には夷狄の住む大地が広がっていると思っている。しかし今こうして月氏の者と親しく言葉を交わしてもなお秦が世界の中心であると思うほど扶蘇は頑なではない。月氏には月氏の思い描く天下があるのだろう、と扶蘇は世界像を改めつつあった。


「今しばらくは苦しい行軍が続きますが、我等の王宮に到着した暁には、精一杯のおもてなしをさせて頂きます。もし扶蘇殿がお望みなら、ずっと滞在していただいても構いません」

「さすがにそこまでご迷惑をかけるわけには参らぬな」

 安世光の言葉は、扶蘇に月里朶に仕えよと促しているようにも取れる。

 それだけ月氏の魅力に自身があるのだろうが、扶蘇もその誘いに乗る訳にはいかない。


(月里朶はそれほどまでに、私を手放したくないというのか)

 月里朶は先日、扶蘇の行動を危なっかしいと言った。月里朶からみれば扶蘇は脇の甘い男だということになるのだが、そのような者でもそばにおいておきたい事情があるというのか。


「もちろん、それは扶蘇様がお決めになることです。では、私はこれで」

 安世光は軽く頭を下げると、馬に鞭を当てて月里朶の元へ駆けていった。月里朶にも深い信頼を寄せられているらしいこの男は、先程からこうして何度も月里朶のそばと扶蘇の元とを行き来している。


「月氏の王宮とやらはそんなにいいところなんですかね。そこに着けばもっと美味いものを食わせてくれるんでしょうが、その程度のことで俺達を味方に引き入れられると思ってるのなら大間違いだ」

「声が大きいぞ、陳勝」

 扶蘇がたしなめると、陳勝は不機嫌そうに顔をしかめた。


「しかし、これから一体どうする気なんです?あの女王様は俺達が味方にならないと知ったら、俺達を殺すかもしれませんよ」

「そうだな、王宮とやらを見せてもらったら感心したふりをして、秦は月氏と結ぶと口約束でもすれば解放してくれるのではないか」

 扶蘇が声を潜めると、陳勝がにやりと笑う。


「おや、信なくして国は立たないんじゃなかったんですか?」

「それも時と場合による。月里朶は私を嘘をつけない男と思い込んでいるから、逆にそこが狙い目なのだ」

「殿下もなかなか油断がならない方ですね。でもそうでなくっちゃ困る」

「あの女王相手に気を抜くわけにはゆかぬからな。こうなった上はなるべく月里朶の自尊心を満足させてやるしかあるまい」

「秦に戻れるんなら、月氏なんぞいくらでも褒めてやりますよ。こんな夷狄の地で果てるなんてまっぴらご免だ」

「うむ、頼むぞ」

 扶蘇は珍しく陳勝の軽口を後押しした。少しでも早く秦に戻るには、この従者にも協力してもらわなければいけない場面もあるかもしれない。


(月氏の王庭は、いずこにあるのか)

 扶蘇が再び蒼穹を見上げると、刷毛で掃いたような細い雲が幾筋もたなびいていた。この空を、遥か遠くの月氏の王庭の者達も仰いでいるというのか。まだ見ぬ月氏の故地に思いを馳せつつ、扶蘇は心中にまだ王宮の明確な像を結べずにいた。



 それから幾日を経たのか、扶蘇は三日より先は数えなかった。

 いくつもの草原と砂漠とを超え、いつ終わるとも見えなかった旅程にさすがに飽いていた扶蘇は、馬車の脇に馬を寄せてきた安世光の言葉に、ようやくこの度が終わりに近づいてきたことを悟った。


「長らくお待たせいたしました。もうすぐ我等の王庭にたどり着きます」

 扶蘇が小手をかざすと、前方に月氏のパオが点在するのがみえてきた。この簡素な住居は作りこそ匈奴のものと大差はないが、数においては匈奴をかなり上回っているように扶蘇には思われた。


「ずいぶんと強盛を誇っているようだな……おや、あれは」

 馬車が緩慢な歩みを進めるうち、扶蘇の左手に何やら建造物が姿を表した。

 巨大な円形の建物で、二段に積み重ねられた柱の隙間から多くの門が口を開けている。


「あれは、大夏バクトリアの闘技場を模して作ったものです」

 安世光は誇らしげにそう語った。これほどの威容を誇る建築物を作れる月氏の国力とはどれほどのものなのか。秦が長城を築くのに用いた労力と、この闘技場を築くのに使われた労力にどれほどの差があるのか。


 扶蘇が月氏の底力に思いを馳せるうちに、扶蘇を載せた馬車は月氏の王庭へと近づきつつあった。

 月氏のパオが立ち並ぶ中、その中央を貫く道の両端には青く塗られた柱が立ち並んでいる。柱の中央はやや膨らみがあり、長閑な草原の風景の中に突如として異国の文化が立ち現れたような、ある種の興を添えている。


 (やはりこの国は、匈奴とは大きく異なっている)

 扶蘇は月里朶が自分をここに招きたがっていた理由が、少しわかったような気がした。月氏の国力は、少なくとも匈奴は上回っている。大夏バクトリアのものを模したという闘技場ひとつ取ってみても、月氏の力が相当なものであることは明らかだ。


 (このような国と、今まで匈奴は渡り合ってきたのか)

 扶蘇が冒頓の立場を思って思わず身震いするうち、行軍の列が止まり、月里朶は女王の帰国を出迎えに来た家臣と言葉を交わしていた。三十を少し超えたばかりと思しき男の体躯は引き締まり、立派な口髭を蓄えた風貌は堂々たる貫禄を備えていたが、月氏の者にしてはやや細い瞳の奥から油断ならぬ眼光が放たれている。


「留守居ご苦労であった、丘就クジュラ。大事なかったか」

 丘就と呼ばれた男は恭しく一礼すると、

「私が目を光らしておりましたゆえ、国内に不穏な動きは見られませんでした。大夏バクトリアも今のところ、怪しい動きは見せておりません」

 と月里朶に答えた。


「うむ、ならばよい。私が安心して出陣できるのも、そなたが我が民を束ねてくれていればこそだ。そなたはこの月氏のもう一人の王といっても過言ではない。その力量には今後も期待しているぞ」

 月里朶はそう言うと、再び頭を下げた丘就には目もくれずに、再び異国の柱の中を歩いていった。馬上の月里朶が進む先には、ひときわ大きなパオがある。あれが月里朶の王宮なのだろう。扶蘇は馬車に揺られつつ、今後どうして月里朶の元を離れたものかと考えを巡らせていた。


「夷狄の住居はどんなものかと思いましたが、こいつはなかなか悪くないかもしれませんね」

 陳勝は扶蘇とともに案内されたパオの中を眺めながら、声音を弾ませた。長い旅路を終えてようやくゆっくり休めるという安心感も手伝っているのだろう。天窓の付いた室内は採光も良く、床に敷かれた絨毯は繊細な刺繍が施され、扶蘇の目を楽しませている。


「陳勝よ、あの丘就という男、そなたはどう思う」

「どう思う、ってどういうことです」

 陳勝は小首を傾げた。


「女王はあの男に留守を任せたようだが、果たして本当にあの男を信用しているのだろうか」

「信用してなかったら、留守は任せられないでしょう」

「うむ、そう考えるのが普通なのだが……どうも女王の言葉が棘を含んでいたように思えたのでな」

 月里朶は丘就の力量に期待していると言ったが、扶蘇にはその言葉は形ばかりのもののように思えた。扶蘇も人の上に立つ者であるから、あの言葉の裏にどんな思いが込められているのか、朧げながらみえてきている。


「殿下は、あの女王様があいつを信用していない、と?」

「いや、そうとは決めつけられないが、全幅の信頼を置いているようにも思えないのだ」

「でも、信頼の置けないような奴を後に残してきたら、それこそ国を乗っ取られかねないんじゃ――」

 そこまで言いかけて、陳勝はあっと目を見開いた。


「月里朶は丘就を月氏のもう一人の王とまで言った。これは主君が臣下にかける言葉ではない。丘就の力量を認めるにしても、自分と同等の存在とまで言う必要はなかろう」

「そう言われると、確かにきな臭いですね。あの女王ですら遠慮せざるを得ない男が、この国にはいるってことですかね」

「そういうことだ。これは考え過ぎかもしれないが、そのような男を排除したければ、陳勝ならどうする」

「何かしら罪をなすりつける、ですかね」

「それでは足りない。家臣を処罰するには正当な理由が必要だ。誰もが納得する理由としては――」

「謀反、とか?」

 陳勝が扶蘇の言葉を遮った。扶蘇はわずかに口元を緩め、含み笑いを漏らす。


「そういうことだ。月氏のもう一人の王と言われるほどの男が、女王が国を留守にしたら何をするかを月里朶は考えたのではないか」

「まさか、そのためにわざわざ出陣を……?」

 陳勝は信じられない、と言った風に顔を歪めた。


「これはあくまで仮定の話だ。実際には丘就は謀反を起こさなかったのだから、月里朶の狙いは外れたのだ。だがどうもあの二人の間には不穏なものを感じる。そこを上手く突ければ、案外早くこの国を出ることもできるかも知れぬな」

 扶蘇は自分に言い聞かせるように言うと、一人何度も頷いた。

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