将器
不用意かもしれないとは思いつつ、扶蘇は陳勝だけを連れて
ひたすらに西へ駆け続けると、やがて月氏の軍営がみえてきた。そのまま馬を走らせると、見張りの兵が声をかけてくる。
「止まれ。何者か」
誰何の声を向けてくる月氏の兵の顔は彫りが深く、甲冑も匈奴のものとはかなり異なっている。遙か西方には肌が白く青い目の民が住むと聞くが、あるいは彼等の影響を受けているのだろうか。
「秦の第一皇子、扶蘇である」
扶蘇がそう告げると、月氏の兵は隣の者と顔を見合わせ、一度だけ頷き、
「お待ち申し上げておりました。お通りください」
と答えた。どうやら扶蘇がここに来ることも予想していたらしい。
(これも、未来を見通す力ゆえなのか)
そう思いながら、扶蘇は兵の指し示す方角へと馬を進めた。月氏の兵に警戒の色は見えないが、それだけにかえって月里朶の思惑が読めなくなる。扶蘇は迷いを振り払うように頭を振ると、馬を降りて月里朶の幕舎へと入っていった。
「よくぞ参られた、秦の仁君よ」
月里朶のよく通る声が幕舎の中に響いた。月里朶の豊かな黒髪は肩まで垂れ、長い睫毛に縁取られた瞳がこちらを見つめている。女王の座に座っていなければ、後宮で誰かの寵を得ていてもおかしくないような風貌だ。
「本日は、女王陛下にお返ししたいものがあって参りました」
「やはり、そう来たか。律儀もそこまでくれば見上げたものだが、一国の皇子がそれでは少々危なっかしいのではないか」
月里朶は扶蘇が兜を返しに来ることまで見抜いていたらしい。扶蘇を仁君と呼ぶあたり、扶蘇が儒教に傾倒していることも知っているのだろう。どうもこの女王は腹の底が知れない。
「この兜は私が受け取る筋合いのないものでございます。秦はすでに匈奴と和睦を結んでいるため、貴国と組むことはできません。この兜は謹んでお返しいたします」
扶蘇が脇の陳勝を見やると、陳勝は恭しく兜を両手で捧げ持った。
「そのことなのだが、今一度考え直してみる気はないか?」
月里朶の声音は妙に艶めいている。扶蘇は月里朶の視線に全身が絡め取られていくような息苦しさを感じ始めていた。
「何度問われても私の答えは変わりません。秦は月氏と組むことはありません」
「そう判断を下すには、まだ扶蘇殿はあまりに我等のことを知らぬのではないか?」 月里朶は艶然と扶蘇に微笑みかけた。どこかこのやり取りを楽しんでいる風すらある。
「まだ我等を信じるだけの材料が足りぬのであろう。匈奴と月氏のいずれを選ぶかは、もっと我が月氏のことを知ってから決めても遅くはないのではないか」
「匈奴との約定を違えるわけには参りません」
「やれやれ、ずいぶんと強情だ。なぜそのように頑ななのだ」
「その時の都合で組む相手を変えていては、誰も秦を信用しなくなります。信なくして国が立ち行きましょうか」
「扶蘇殿、それは違う。同盟とは信義で結ぶものではない。利害で結ぶものだ」
月里朶は真顔に戻ると、はっきりとそう言い切った。
「我が月氏には西方の
「そもそもなぜ貴国は匈奴を破らなくてはならないのですか?匈奴と月氏が並び立ってはいけないのですか」
扶蘇のその問いに、月里朶はわずかに顔を曇らせる。
「そのことまで、扶蘇殿に話す必要もあるまい」
月里朶の声音は少し憂いを含んでいるように扶蘇には思われた。
「いずれにせよ、何度問われても答えは同じです。秦が貴国と組むことはあり得ません」
「そうか、ならばこうするしかあるまい」
月里朶が右手の指を弾くと、左右に居並ぶ兵達が矛を手にして扶蘇を取り囲んだ。
「これはどういうおつもりか、陛下」
「扶蘇殿、人が皆善意に基づいて動くなどと思わぬ方が良い。貴殿は私を信じて単身ここに参ったのであろうが、そのような甘さは時に命取りとなる」
「畜生、俺達をどうする気だ」
陳勝は悔しそうに唇を噛んだ。月里朶は楽しげに微笑むと、
「心配せずとも殺しはせぬ。扶蘇殿の命は最大限に使い切ってみせよう。我が月氏の元にいる方が、秦などで生きるよりよほど面白いかも知れぬぞ」
と言い放った。月里朶は席を立ち陳勝に歩み寄ると、その手から兜をもぎ取って頭に被り、扶蘇を睨み据えた。
「申し訳ないが、貴殿はしばらく拘束させてもらう。さっそく私の役に立ってもらうとしよう」
そう一言言い置くと、月里朶は踵を返した。扶蘇はその言葉の意味を測りかねたまま、月氏兵に縛り上げられるのを黙って耐えるしかなかった。
「……で、何だって俺達はこんなことになってるんです、殿下?」
陳勝の苛立たしげな声が扶蘇に向けられる。陳勝は身体に縄を巻かれたまま、扶蘇と並んで馬車に乗せられている。扶蘇が捕らえられた翌朝、月氏はすでに陣を引き払い、本拠地へと引き返す途中だった。
「我を人質に取って、秦から何か引き出すつもりだろうか」
扶蘇は縛り上げられているというのに落ち着き払って答える。その様子にますます陳勝は怒りを募らせる。
「やっぱり李左車様の言った通りだったじゃないですか。何も二人だけで敵地に乗り込むことはなかったんですよ」
「まだ敵と決まったわけではなかろう」
「何を呑気なことを言っておられるんですか。この期に及んでまだ月氏が敵じゃないなんて、本気で思ってるんですか?」
「何か事情があるのだろう。あの女王が何をするつもりなのか、これからじっくりと見定めようではないか」
「全く、人が良いにも程がある」
陳勝は扶蘇から目を背けると、半ば独り言のように言った。
「済まぬな、陳勝。そなたまで私の事情に付き合わせてしまった」
「ああもう、そんな話はいいんですよ。殿下について来た時点で、俺がいい目を見るはずがないんですから」
「まるで私が悪運に取り憑かれているとでも言いたそうだな」
「違いますか?運が良い奴はこんな有様になったりはしませんよ」
「だが、まだまだ我等の運も捨てたものではなさそうだぞ。見よ、あれを」
扶蘇が顎をしゃくると、陳勝の眼前に黒雲のような騎馬の一軍が湧いて出た。
「冒頓の野郎のお出ましか」
月氏が陣を引き払うことを嗅ぎつけた冒頓が、その後背を突こうと自ら一隊を率いて襲い掛かってきたのだ。扶蘇の背後でもさっそく月氏兵が飛来した矢に貫かれ、落馬する者が出始めている。
「逃げるな。踏み止まって戦え!」
扶蘇のそばを賭けていた若い将が声を張り上げ、月氏兵を励ます。
日に灼けた精悍な若者が剣を抜き、匈奴兵の放つ矢を何本か切り捨てると、そのまま匈奴兵の中に飛び込んだ。月氏兵もその後に続く。
「匈奴は我等が何の備えもしていないと思い込み油断している。今こそ我等月氏の意地を見せる時だ。あの単于の馬鹿息子を討ち取ってしまえ」
若い将は月氏兵の後尾に食らいつく匈奴兵を次々に斬り倒し、その様子を見て奮い立った月氏兵も勢いを盛り返して匈奴兵に突きかかる。両者の勢いは拮抗しているかに思われたが、やがて疾風のような黒い影が躍り込み、月氏の陣を切り裂いた。周囲を圧する天馬の巨躯は馬蹄の下に何人もの月氏兵を踏みにじり、馬上の男は矛を舞わせるたびに血風を巻き起こしている。冒頓だった。
「扶蘇よ、なんだその樣は。女王ごときに膝を屈するか」
遠目に扶蘇の姿を認めた冒頓が大声で呼びかけてきた。
「わざわざ助けに来てくれるとはありがたい」
扶蘇も冒頓に届くよう馬者の上から声を張り上げる。
「お前のために来たのではない。月氏を平らげに来たら、たまたまお前がいただけだ」
「だが、まさか私をこのままにしておく気ではないだろう?私が秦へ戻れなければ、匈奴と交わした約束も守れなくなってしまうのだぞ」
「ええい、世話のやける奴だ」
冒頓は群がる月氏兵を突き倒しながら叫ぶと、扶蘇の乗る馬車へと駆け寄ってきた。
(やれやれ、どうにか助かりそうだ)
扶蘇は心中で安堵の息を漏らしたが、しかし冒頓の前に立ち塞がる一騎があった。その背に流れる艶のある黒髪を横目で見ながら、扶蘇は己の考えが甘かったことを悟った。扶蘇の首筋にはすでに月里朶の剣が突きつけられている。
「残念だが、扶蘇殿は匈奴には渡すわけにはいかぬ」
月里朶は冒頓をねめすえると、口元に余裕の笑みを浮かべた。
「ふざけた真似を。俺が秦の皇子の命など惜しむと思うのか?」
冒頓は舌で唇を湿らせたが、月里朶は全く動じる様子もない。
「貴殿はそうであっても、周囲の者はどうであろうな」
「何だと?」
「単于の第一子が秦の皇子を見殺しにするような愚か者であったとなれば、果たして匈奴の部衆は貴殿に従うであろうか」
「貴様、俺を脅すつもりか」
冒頓は眉根を寄せると、きつく唇を噛んだ。
「脅しなどではない。貴殿の身を案じているだけだ。扶蘇殿をここで死なせたら、秦は貴殿を恨みに思うであろう。今度は匈奴を殲滅する勢いで攻めてくるやも知れぬな」
「おのれ、調子に乗りおって……」
「冒頓殿、兵を退かれよ。さすれば扶蘇殿の命は保証する」
月里朶は扶蘇の首に刃を向けたままそう告げた。冒頓はしばらく黙り込んでいたが、一声呻くように叫ぶと、馬首を返して駆け去ってしまった。
「さっそく私の命を使ってみせた、というわけか。お見事です」
扶蘇はどこか他人事のように、月里朶の手腕を褒め称えた。状況は全く好転していないのに、心のどこかでこの女王の手並みをもっと見てみたい、という気持が頭をもたげ始めていた。
「無礼な真似をして済まなかった。縛めを解いてやれ」
月里朶が左右の者に命ずると、ようやく扶蘇と陳勝は縄を解かれた。扶蘇はゆっくりと胸を張り、何度か肩を回す。
「これで我々を解放して頂ける、というわけではないのでしょうな」
「さすが、扶蘇殿はすでにお見通しだな。今後扶蘇殿には、我々月氏の国へ来て頂くことになっている」
「もし断ったら、私はどうなります」
「もう一度縛られる趣味が、扶蘇殿にはおありか?」
月里朶のふてぶてしい言い草に、扶蘇は肩を竦めた。この女王は物言いこそ威圧的ではないものの、冒頓などより数段手強い相手であることを扶蘇は理解しつつあった。
「これより我等は秦国第一皇子・扶蘇殿を王宮にお連れする。粗相のないようにな」
そう言い残すと、月里朶は急いで月氏の先頭へと駆けていった。半ば拉致するようなものであるのに、まるで招待するかのような物言いに扶蘇は苦笑せざるを得なかった。やはりこの女王は食えない。
いつ帰還できるかわかったものではないが、いつしか胸の奥でまだ見ぬ月氏の故郷への期待が膨らんでいくのを扶蘇は感じていた。馬車に揺られながら、扶蘇は草原を吹き渡る風を胸いっぱいに吸い込んだ。
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