予言
その日の夜は、扶蘇を歓迎する宴が張られた。
大きな
「どうです、楽しんでおられますか、扶蘇様」
己の席を立ち、親しく語りかけてきたのは
「ああ、この料理は実に美味い。秦でもこのようなものは口にしたことはなかった」
扶蘇は目の前の皿から、多くの粒の連なる果実をつまみ上げながら言った。どうやらこれは葡萄と言い、交易路に点在する小都市から手に入れたものらしい。
「それはようございました。実は我等の食事がお口に合わぬかと、密かに心配していたもので」
「とんでもない。このような贅を尽くした料理は、生涯に何度も味わえるものではない」
扶蘇は月氏の王庭にたどり着いたらできるだけ
「ところで、少しものを尋ねたいのだが」
「はい、何なりと」
「この
「いえ、そういうわけではございません。実はあれは、西方の
「その
「肌は白く、目の碧い者達が住む国にございます。祖先は遙か西方より来たりて彼の地に攻め入った者達であると聞き及びます」
「この地より西方に、まだまだ多くの国があるということか……秦の治める天下など、この大地のごく一部にすぎないということなのか」
バクトリアにはヘレニズム文化が栄え、主要都市のアイ・ハヌムからはギリシア様式の劇場や日時計などが出土しており、当時を偲ばせる手掛かりとなっている。
「この大地にどれ程の国があるのか、私には見当もつきません。この私にせよ、秦をこの目で見たことはないのです。私には東方の世界の方が、未知の霧の彼方に霞んでいるように感じられます」
「そうか、そういうものかもしれないな」
安世光の言葉から察するに、月氏はどちらかと言えば西の方を向いている国なのだろう。
「あの柱は、陛下の命により建てたものなのか?」
扶蘇がそう水を向けると、安世光はわずかに顔を曇らせた。
「いえ、そういうわけ――ではないのです」
安世光はなぜか少し口ごもると、床に目を落とした。この質問には答えたくない様子だ。
(月里朶はあの柱を気に入ってはいないということか)
月里朶の忠実な側近である安世光がこのような様子を見せるということは、あの柱には月里朶以外の者の意志が関わっているということだ。それが誰であるのか、扶蘇にはおおよその見当はついている。
「余計な質問をしてしまったようだな」
扶蘇が安世光から目をそらし、顔を前方に向けると、ふと
(やはりこの男、油断できない)
丘就は宴を楽しむふりをしつつ、こちらの様子をうかがっていたようだ。この月氏のもう一人の王が何を仕掛けてくるつもりなのか、扶蘇も気が気ではない。
(いっそのこと、こちらから誘い出してみるか)
丘就の肚の底が読めぬ以上、自分から動いてみた方が早い。扶蘇は卓に置かれた酒盃を一気に飲み干すと、決然と席から立ち上がった。
「いかがなされた、扶蘇殿」
そう問いかけてくる安世光に、扶蘇は微笑で応じる。
「どうやら少し酔ってしまったようだ。君子が人前で見苦しい姿を晒すわけにはいかぬ。少し夜風に当たって酔いを覚ましてくるとしよう」
私もお供いたしましょうか、と訪ねてくる安世光をやんわりと拒否すると、扶蘇はそのまま
夜空を見上げると、空を満天の星が埋め尽くしていた。
秦で見るよりも夜空の闇はより深く、星々の輝きはより強く感じられる。
心地良い夜風に頬を撫でられながら、扶蘇は酒気の混じった息を吐きだしつつ、天高くそびえ立つ柱の間を歩いた。
中央の湾曲した柱のそばで足を止めると、思った通り背後から何者かが草叢を踏む足音が聞こえてくる。
「月氏の星空は、秦でご覧になるものとは異なりますかな」
低く豊かな声に振り向くと、そこに立っていたのは丘就だった。
「星の位置関係は秦で見るものと変わらない。だが、この地では不思議と星の瞬きも近くに感じられる」
扶蘇は再び天を仰ぎながら答えた。
「私は秦を訪れたことはありませんが、彼の地とは空気も異なるのでしょう。同じ天を仰いでいても、みえてくる景色が同じとは限らないのです」
「丘就殿と陛下の見ている景色は、果たして同じであろうか」
「これは異なことを承る」
丘就は破顔した。こちらの揺さぶりにもいささかも動揺する様子は見られない。王と言われるだけあって、確かにこの男も一角の者ではあるようだ。
「見事な柱だ。
「私が陛下に進言し、ここに建てて頂いたのです。この王庭は大夏の者も訪れますのでね」
丘就はあくまで女王の意志によりこの柱が建てられたのだと言いたいようだが、本当は丘就に逆らえなかったのかもしれない、と扶蘇は思った。
「扶蘇様、なぜ遠路はるばるこの地においでになったのかは聞きましたぞ。陛下のなさりようは相変わらず強引だ」
丘就の声音は穏やかで、扶蘇の心の隙間に忍び込んでくるようだ。だが丘就の目は笑っていない。気を抜けば、この男の操る見えざる糸に絡め取られてしまうような気がする。
「早く秦にお戻りになりたいとは思われませんか」
「私はまだこの地に着いたばかりだ。もう少しこの国の様子を見て回りたい」
帰りたいのは山々だが、いきなり心中を漏らしてしまうわけにはいかない。だが丘就は扶蘇が何を望んでいるかを十分に理解しているようだ。
「なるほど、ならば案内役はこの丘就が引き受けましょう。最もその前に、扶蘇様とは一度ゆっくり酒など酌み交わしたい。後日改めて我が家で宴を催そうかと思っておりますが、いかがでしょう」
やはりそう来たか、と扶蘇は思った。月里朶が今この場で扶蘇を歓待しているというのに、改めて扶蘇のために宴を開こうとするのはただ親交を深めるためではあるまい。丘就は扶蘇を己の陣営に引き込もうとしているのだろう。
(さて、どうしたものか)
軽率な返事は避けるべきだ。丘就の誘いに応じたら、月里朶は良い顔はしないだろう。丘就も相当な実力者なのだろうが、月氏の女王は月里朶だ。扶蘇は今のところ、月里朶の機嫌を取りつつ帰国する機会をうかがうつもりでいるが、丘就との距離をどう保つべきか――
そこまで考えていると、近くの
「どうも騒々しいですな。戻って様子を見てみましょうか」
丘就の誘いに扶蘇は無言でうなずくと、駆け足で宴の催されていた
月里朶は何かに憑かれたように身体をわなわなと震わせつつ、席から立ち上がって天を仰いだ後身を二つに折り曲げ、再び背を伸ばして苦しげな声を漏らし始めた。
「……西より、長き槍を携えた者達がこの地へと迫り来る」
月里朶はあらぬ方向を見つめながら、誰へともなく語り始める。辺りは水を打ったように静かになり、皆が月里朶の言葉を聞き漏らすまいと耳をそばだてる。
「銀に輝く鎧をまとった強者が吶喊の声をあげ、我が騎兵へと攻め寄せる。この軍を率いる者は……」
(率いる者は?)
扶蘇はその先の言葉を聞きたかったが、月里朶がそこまでは話す前に瞳がぐるりと回転し、白目を剥いて仰向けに倒れた。
「陛下!」
安世光が急いで月里朶に駆け寄り、荒い息をつきながら肩を上下させている月里朶の顔を覗き込む。
「何をしている。お前たちは早く陛下を寝所へお連れせよ。医師も同行させるのだ」
安世光がきびきびと指示を飛ばすと、侍女たちがあたふたと集まってきて月里朶を
「久しぶりの陛下の予言ですな」
丘就の顔からは、先程までのどこか人を喰ったようなふてぶてしさは消えていた。渋面を作って腕組みをする丘就に扶蘇は静かに問いかける。
「西方から迫る長き槍を携えた部隊とは、いかなるものだと丘就殿はお考えか」
「おそらくは
「
扶蘇の心中を不穏な空気が包みつつあった。月里朶の予言はどうも解せない。月里朶が国を留守にしていたときこそ
「それは私にも分かりようがありません。ただ何しろ、陛下の予言は外れたためしがない」
丘就はそう言うと、一層苦々しげな表情になった。女王の予言にはどうも含むところがあるらしい。
「それでは、本当に
「そう考えるしかありますまい、いや、扶蘇様も大変な時にお出でになりましたな」
「私にも、なにか協力できることがあればいいのだが」
「とんでもない。この国の事情で扶蘇様を煩わせるわけには参りません」
ここに連れてこられた時点でとっくに煩わされているのだ、という言葉を扶蘇は飲み込んだ。
「だが実のところ、我が秦にも長槍の力を活かして戦う部隊があるのだ。私にもいささかこの部隊を率いて戦った経験がある。今は一兵も持たぬ身ではあるが、私の知識が貴国のお役に立てる機会もあるかもしれない」
「おお、それは頼もしい。そのことをお耳に入れれば、陛下もさぞお喜びになりましょう」
扶蘇の言葉で緊張を解いたのか、丘就は顔をほころばせた。しかしこの男の瞳の奥には、相変わらず見る者の心を撥ねつける冷たい光がある。
「そろそろ夜も更けたようだ。私はこれにて失礼する」
扶蘇はこれ以上丘就と向き合っていたくなかった。宴席もすっかり白けわたったし、もう十分に酒肴で腹も満たした。今は女王の予言にどう対処するかを考えなくてはならない。扶蘇は一礼して去っていった丘就の背を一瞥すると、疲れた心身を引きずるように己の寝所へと歩き出した。
崑崙仁帝 左安倍虎 @saavedra
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