別離

「私を求めていた……?」

 扶蘇は訝しげな瞳を月里朶ユリドに向ける。


「そうとも。匈奴のような禽獣に等しき者どもと組むのを止め、我等と手を結ばぬか。月氏は騎馬の民といえど、匈奴とは違って礼を知る民だ」

 月里朶は口元に笑みを湛えつつ、射すくめるような強い視線を扶蘇に注いでくる。


「匈奴とは先程和睦したばかり。今この場で約定を違えるわけには参らぬ」

 扶蘇は強い口調で月里朶の申し出を跳ね除けた。


「ふふ、やはり噂に聞く通り信を重んずる男か。ますます気に入ったぞ」

「私を評価して頂けるのはありがたいが、秦と組んでそちらにどのような利があるのだ」

 月里朶の見識を見定めようと、扶蘇はそう問いかけた。


「知れたこと。共に匈奴を撃ち、この漠北の地を我等月氏が治めるのだ」

「では聞こう。月氏と組むことで、我が秦が得る利とは何だ」

「冒頓は一度は矛を収めても、やがて力を回復すれば再び秦へと迫り来るであろう。だが月氏はそのようなことはせぬ」

「その言葉、果たして信ずるに足りるであろうか」

「我等月氏は常に西方に目を向けている。我等が重んずるのは大夏バクトリアとの交易だ。秦にはさほど興味がない」

「ほう、我等に興味がない、と」

 扶蘇はこの大胆不敵な女王に興味を抱きかけていた。この世に秦を上回る大国などない、と扶蘇は考えている。その秦が眼中にないとは大きく出たものだ。


「そうだ。常に秦を狙っている匈奴と、秦を狙う気のない我等と、いずれが漠北を制覇することが望ましいか解らぬそなたではあるまい」

 月里朶の口調は少し穏やかになったが、それでも語気の奥に鋭い刃が隠れているように扶蘇には思われた。


「そう言われても、私は月氏についてまだよくは知らぬ。今この場で実利を説かれても、よく知りもしない相手と組むわけにはいかぬ」

「なるほど、それも道理だ」

 月里朶は軽く微笑むと、やにわに黄金の兜を脱いだ。何度か軽く首を振ると、真っ直ぐな黒髪が風に流れる。


「ならば今回は、これをそなたに預け置くとしよう。詳しい話はいずれまたする機会もあるだろうからな」

 そう言って月里朶は兜を放って寄越した。陳勝は慌てて兜を両手で受け取る。


「じきにまた会うことになろう。さらばだ」

 月里朶は馬首を返すと、あっけにとられている扶蘇と陳勝を置き去りにし、月氏の騎馬隊を引き連れて丘を駆け下ってしまった。


「一体何なんですかね、あの女は」

 しばらく口を半開きにしたまま去っていく馬群を見つめていた陳勝が、ようやく口を開いた。


「我等と匈奴の結びつきを絶ちたいのだろうが、兜を預けていった意味が解らぬな」

「しかし、ずいぶんと豪勢な代物ですよこいつは。こんな見事な兜なんて始めて見た」

 月里朶の兜をしげしげと眺めつつ陳勝は溜息をつく。確かに見事な逸品だ。これほどの富を持っている月氏なら、秦など眼中にないというのもあながち虚勢ではないのだろうか。


「殿下、お気をつけなされませ。わざわざ我等に預けようとするからには、その兜には何か良からぬ意味が込められているに違いありません」

 李左車が面に緊張を滲ませながら話しかけてくる。その顔に扶蘇は柔らかな笑みを向ける。


「たかが兜ひとつで何ができよう。親善のつもりなのではないか」

「仮にも一国の王が殿下の眼前で兜を脱いだのです。ただの贈り物で済むはずがありますまい」

「うむ、それもそうか」

 扶蘇はわずかに首をひねった。確かに戦場で一国の王が敵将の前で兜を脱ぐのはただごとではない。


「おそらく月里朶は殿下が仁将であられることをよく知っているのでしょう。殿下が月氏の後背を突くことがないと信ずればこそ、兜を脱いで悠々と退却することができたのです」

「それも冒頓殿の言っていた予見の力とやらなのだろうか」

「それはしかとはわかりませんが、兜のことは匈奴には伏せておいたほうが良いでしょう。どんな疑念を招くかわかりません」

「そうだな、このことは黙っておくとしよう」

 扶蘇が陳勝に目で合図すると、陳勝は兜を荷物持ちに預けに行った。


 扶蘇が丘の上から眼下を見渡すと、すでに戦場からは月氏の姿は消えていた。

 後には血に染まった匈奴兵の死屍が散らばり、乗り手を失った騎馬が当てどもなく草原を彷徨っている。


「匈奴の損害は相当なもののようだな。冒頓殿も疲れていよう」

 扶蘇は眉根を寄せつつ、誰へともなく呟いた。月里朶の振る舞いに気圧されて結局彼女とは矛を交えることもなかったが、やはり一矢報いておくべきだっただろうか。今になって扶蘇の胸に後悔の念が沸き起こってきた。


「殿下、冒頓殿より使者が参っております」

 李左車の言葉にふと我に返った扶蘇は、眼前にひざまづく匈奴兵に目を向けた。


「冒頓様が扶蘇様に今すぐお話したいことがあると仰せです。速やかに我等が陣中においでください」

 使者の口上は慇懃ながら有無を言わせぬ、という感触だった。冒頓が丁寧に口を利いているような様子に扶蘇は苦笑する。


「ではすぐに参ると伝えてくれ。ちょうど行かねばならぬと思っていたところだ」

 使者は深く頭を下げると、急いで駆け去った。扶蘇は馬に鞭を当てると、冒頓の陣へと急いだ。



「全く、どこまでも忌々しい女だ!」

 天幕を訪れると、扶蘇を一目見るなり冒頓はそう叫んだ。怒りに全身を震わせる冒頓の様子に、左右の者も息を殺したまま一言も発することができない。


鷲獅子じゅじしなど連れてくるとは思わなかったからな。空から襲い来る獣には勇猛な匈奴の騎馬でも対抗するのは難しかっただろう」

 扶蘇は冒頓を気遣うように言ったが、冒頓は怒りを収めようとしない。


「あんな獣ごときどうでもよい。俺が許せんのはそのことではないのだ」

「では、何を許せないのだ」

「あの女、戦場を去る時、一度俺を振り向いて笑ったのだ。あの時、奴の頭にはあの黄金の兜がなかった」

 扶蘇は愕然とした。月里朶は兜を脱いだ姿をわざわざ冒頓の前に晒したのだ。その行為が、一体何を意味するのか。


「月氏にいる時、月里朶は一度も俺の前で兜を脱いだことがない。だが奴がお前の陣営に向かっていった後、兜のない姿を俺の前にみせた。――扶蘇よ、俺が何を言いたいかわかるか」

 扶蘇はその問いに答えあぐね、視線を床に落とす。


「隠しても無駄だ。扶蘇よ、月里朶は兜をお前に預けたのだろう?」

 扶蘇はその問いには答えなかった。しかしそれは冒頓の言葉を肯定しているようなものだ。


「たしかに、兜は預かっている」

 正直に答える扶蘇の脇で、陳勝が驚きに目を見開く。

「ちょっと殿下、それは言わない約束でしょうが」

「もはや隠したところで無意味だ。冒頓殿、確かにあの女王は私に兜を投げて寄越した」

「で、お前は月氏と組むつもりなのか?」

 冒頓は低く声を抑えたが、その声は明らかに怒気を孕んでいた。


「我等が月氏と組むはずなどあるまい。先程会ったばかりの相手など信用できぬ」

「だが月里朶はお前をたいそう高く買っているようではないか。本当はお前も密かにあの女の誘いに乗ろうとしているのではないか」

「馬鹿な。あのような得体の知れぬ者と組めるはずがない」

「なら得体が知れたら組むのか?」

「そういう話をしているのではない。月氏がどのような者達であろうと、我等はすでに和睦したばかりではないか」

「ふん、地にへばりついて生きている者どもの言うことなど当てになるか」

 もはや取り付く島もない。何に怒っているのかわからないが、冒頓は扶蘇の言うことを聞き入れるつもりなどないようだ。


「冒頓殿、どうか私を信じて頂きたい。あの兜は月里朶が一方的にこちらに投げて寄越したもの。私はただそれを拾ったに過ぎない。あんなものは私には必要のないものだ」

「口でなら何とでも言える。本当にそう思っているのなら、行動で示せ」

 冒頓は急に立ち上がり、腰の剣を抜いて切先を扶蘇に突きつけた。陳勝も呼応して剣を抜こうとするが、扶蘇が手でそれを押しとどめる。


「わかった。兜は月里朶に返却するとしよう」

 冒頓の頑なさには扶蘇も閉口したが、信じてもらうにはこうするしかない。今ここで匈奴との和睦を破ってしまうわけには行かないのだ。扶蘇は匈奴を滅ぼすために漠北の地に赴いたのではない。


「あの女の頭に兜が戻るまでは、お前を信じることはできん」

 そう吐き捨てると、冒頓は剣を鞘にしまった。扶蘇は軽く一礼して冒頓の前を辞すと、急ぎ秦の軍営に戻ることにした。


「それにしても、一体何をあんなに怒っているのだ、あの男は」

 扶蘇が冒頓の陣を去る頃には、すでに空が茜色に染まっていた。胡馬の嘶きを遠くに聞きながら、扶蘇は愛馬の背中に揺られている。


「殿下も相変わらず鈍いですねえ。殿下に嫉妬してるんですよ、あいつは」

「私に嫉妬している、だと?」

「あいつは月里朶が一度も自分の前では兜を脱がなかったって言ってるでしょう?でも殿下の前では脱いだ。要は冒頓より殿下の力量を高く買ってるってことじゃないですか」

「まあ、確かにそういうことになるか……」

 だが、その程度のことであそこまで怒らねばならないのか。そのあたりが、どうも扶蘇にはよくわからない。


「仮にそうだとしても、私はどの道月氏と組む気などないのだからそれでいいではないか」

「ああ、だからもう、本当にわかっちゃいませんね殿下は」

「私が何をわかっていないというのだ」

「あの男はね、あの女王様に惚れてんですよ」

「ほう、あの女王に」

 扶蘇は陳勝に目を向けると、何度か目を瞬いた。まるで新たな真理に開眼したとでもいった様子だ。


「惚れた女が自分を向かずに他の男ばっかり見てるんだから、そりゃ腹も立つでしょう」

「だが、月里朶は別に私と夫婦になろうというのではない。私には利用価値があると言っているだけのことではないか」

「そうだとしてもね、そうそう冷静には考えられない奴もいるってことですよ」

「将来匈奴を束ねる男でも、そんなものか」

「王侯だろうが将相だろうが、人間なんて一皮剥けばそんなものです」

「そういうものだろうか」

 扶蘇には陳勝の人間観が今ひとつわからない。人の上に立つ者は、やはり衆に優れた器量を持ち合わせているものではないのか。少なくとも扶蘇はそうあろうと努めてきた。


「ともあれ、あの兜は返さねばなるまい。問題は、どうやって兜を被った女王の姿を冒頓に見せるかだが」

「何もそこまでする必要はないでしょう。返したとだけ言っときゃいいんじゃないですか」

「そうはいかぬ。兜があの女王の頭に戻らぬ限り、月里朶はまた冒頓を挑発に来るかも知れぬからな」

「でも、女王様が兜を受け取ってくれるとは限らないでしょう」

「そうだとしても、やはりあの兜は返さねばならない」

 陳勝は馬上で頭を振った。融通の効かない皇子だ、とでも言いたげな様子だ。


「もうすぐ陽も落ちる。早く戻って李左車にも事を咨らねばなるまい」

 扶蘇が愛馬の馬腹を蹴ると、陳勝も急いでその後に続いた。



「では本当に月里朶の元を訪れる気なのですか、殿下」

 扶蘇の幕舎の中で李左車が心配そうな面持ちで扶蘇を見つめてくる。月氏との戦いから一夜が開け、すでに物見の兵が月里朶が西方二十里の地に陣を構えていることを伝えてきた。


「ですが、どうやって月里朶の姿を冒頓に見せる気なんです?」

 陳勝が訝しげに扶蘇に尋ねる。

「月氏と匈奴を和睦させれば良い。私がその仲立ちになる」

 扶蘇は従者に甲冑を付けさせながら、陳勝の方を見ようともせずに答える。


「恐れながら、あの女王がそのような案を飲むとは思えません。まず冒頓が和睦など認めないでしょう」

 李左車は扶蘇をどうしても引き止めたい様子だ。しかし扶蘇は一度決めると決して後には引かない。


「匈奴の単于は冒頓ではない。頭曼だ」

「それはそうですが、やはり危険すぎます。月里朶は何を考えているかわかりません。何もこのようなことをせずとも、匈奴に誠意を見せる手ならいくらでもあるではありませんか」

「そういう問題ではないのだ、李左車。冒頓はいずれ匈奴を率いる者となる。この北辺の地を安んじるためには、あの者との間に信を築かねばならないのだ」

 李左車はそれ以上抗弁することはなかったが、かすかに漏らした溜息に抗議の意志が読み取れた。


「陳勝、付いて参れ。月里朶の元へはそなたと二人だけで行く」

「本気ですか」

「私が本気でなかったことが一度でもあるのか」

 真顔でそう言われると、陳勝はもう何も言えない。確かに扶蘇の口から冗談など出た試しがないのだ。


「せめて、私もお供させては頂けませんか」

「そうはいかぬ。私がいない間もしものことがあれば、秦軍の指揮はそなたに採ってもらわねばならないからな」

 扶蘇は李左車の申し出を即座にはねつけた。扶蘇は自分が無事に戻れない可能性があることも十分にわきまえている。それを知りつつ、なお行かずにはいられないのが扶蘇の気性だった。


「じゃあ俺も、もう一度あの不遜な女王様のご尊顔を拝ませてもらうとしますかね」

 陳勝は己に降りかかる不安を振り払うように、敢えて軽口を叩いた。扶蘇はわずかに口元を緩めると、軍営の外に出てひとしきり晴れ渡る西方の空を睨み、やがて馬上の人となった。

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