女王
「あの女、よもやこの事態を読んでいたのではあるまいな」
「読んでいた、とは?」
「俺が月氏にいた頃、
「まさか、未来を知ることが出来るというのか」
「あの女王は元来は巫女であったらしい。女王となった今も時にその能力が発現するのだ。その力ゆえに月氏の部衆は皆があの女を神仙と等しく崇めている」
「この地にも、そのような力を持つ者がいようとは……」
中華の地にも天文を観て未来を予見する者はいる。今皇帝に仕えている徐福もそのような力を持っていると扶蘇は聞いている。しかしこの漠北の地にもそのような力を持つ者がいることなど、扶蘇には知る由もなかった。
「奴等は夜襲を仕掛けてくるかもしれません。宴はすぐに中止しましょう」
匈奴兵がそう進言すると、頭曼は残念そうに眉をひそめた。
「しかし、まだ扶蘇殿をもてなしてる最中ではないか」
「父よ、戯言も大概になされよ。酒に酔ったまま月氏に首を取られても良いと言われるのか」
冒頓が下座から嗜めると、頭曼はばつが悪そうに横をむいた。
「仕方があるまい。今宵の宴はこれまでだ。皆の者、今夜は篝火を焚いて月氏に備えよ」
座は一気に白け渡った。女達が酒肴を片付けると、扶蘇の体から酒気が抜けていくように感じられた。
「全く、忌々しい連中だ」
冒頓は席から立ち上がると、そう吐き捨てた。
「しかし、その女王は本当に我等の戦のことを予見したのか」
「そうに違いあるまい。そうでなければこうも都合の良い時に攻めては来れぬ」
「だが、麒麟が来てくれたから今回の戦での貴軍の死者はごくわずかだ。月氏にとってそれほど好機というわけでもあるまい」
「あの女王とて未来の全てを予見できるわけではない。あの獣が来ることまでは読めなかったのかもな」
麒麟が冒頓の兵の怪我を癒したため、敗北したにも関わらず冒頓軍の力はかなり温存されていた。
「では、私は一度秦の陣へと戻るとしよう。もし月氏が攻めて来たならば知らせて欲しい」
「あんな連中など匈奴だけで撃退してみせる。あの不遜な女は生け捕りにして妾にでもしてくれるわ」
扶蘇は冒頓の傲岸な口調に苦笑すると、そのまま秦の野営地へと戻ることにした。
「しかし、厄介なことになりましたね。もし月氏の連中が攻めてきたら、俺達も加勢するんですか?」
秦の幕舎へと戻ると、陳勝は扶蘇にそう問いかけた。
「匈奴と共に生きると約束した以上、黙って見ているわけには行くまい」
「ですが、月氏の方が匈奴より強かったらどうします。ここは互いに争わせておいて、勝った方に味方するのが得策じゃないですかね」
「月氏の兵は強力です。西方から良い馬を手に入れている上に、兵は女王に絶対の忠誠を誓っていると聞きますから」
李左車は淡々と己の見解を告げた。月氏の来襲を聞いても、この若い将は全く動揺の色を見せない。
「なら、なおさら匈奴は助けないほうがいいんじゃないですか?」
「いや、ここは匈奴に恩を売ったほうがいい。月氏が匈奴を飲み込んでしまえば、我等は匈奴より厄介な敵と向き合わねばならないことになる。それに月氏を勝たせては冒頓を助けたことが無駄になってしまう」
李左車は陳勝の見解を否定した。陳勝はどこか納得がいかない様子で扶蘇の方に首をまわす。
「うむ、月氏を勝たせては冒頓殿と交わした約束を守れぬ。やはりここは匈奴に加勢するしかあるまい」
扶蘇は腕を組むと、己に言い聞かせるように話した。
「ただし、すぐに戦ってはいけません。あくまで月氏に攻めさせておき、匈奴が苦境に陥ったら初めて我等が参戦するのです」
「俺達の有り難みを味あわせてやろうってわけですね。さすがは将軍だ」
陳勝の軽口を、李左車は涼しい顔で聞き流した。
「しかし、その女王とやらはどんな奴なんでしょうね。自分で軍を率いるくらいだから、男並みのいかつい女だったりするんですかね」
「騎馬の民なら王自ら陣頭に立つのが普通ではあるが、女王ならどうであろうな。いずれにせよ、手並みの程をしっかり見ておかねばなるまい」
扶蘇がそう告げると、陳勝は無言で頷いた。
結局、その夜は月氏は攻めて来ることはなかった。まんじりともせず朝を迎えた扶蘇は寝床から身を起こすと、両の手で頬を叩いて気合を入れる。
一人幕舎を出ると、東の空が少しづつ白み始めていた。天と地の交わる地平線を遠く眺めていると、生まれたばかりの太陽がその端をのぞかせ、空を赤く染めつつある。この美しい大地のどこに戦などあるのかと思えるような光景だった。
しかし、慌ただしく駆け寄ってきた物見の兵の声に、扶蘇の意識は現実へと引き戻された。
「殿下、月氏の軍勢がが匈奴に攻めかかりました」
「いよいよ始まったか。冒頓殿の様子はどうだ」
「冒頓殿は左翼の指揮を任されています。今はどちらが優勢というわけでもありませんが、今後どう転ぶかはわかりません」
「うむ、ご苦労であった」
扶蘇が兵を労うと、兵は一礼して扶蘇の前を下がった。
(――気が緩む頃合を見計らったか)
月氏は夜襲があることを警戒させつつ、夜襲はかけてこなかった。一夜が明けて皆が安堵する時を狙って攻めてきたのだ。
(これは、気を引き締めてかからねばなるまい)
扶蘇の中で、
「一進一退といったところですね。まだ勝負の行方は見えません」
李左車は眼下で展開する戦の様子に見入っている。秦軍は小高い丘の上に布陣し、扶蘇は匈奴と月氏の戦いを観察できる位置にいた。
「しかし、どうにも妙だな」
扶蘇はわずかに首をかしげた。一見双方とも力を尽くして戦っているかに見えるが、月氏の側に今ひとつ覇気が感じられない。
「殿下もそう思われますか」
「うむ、どうも月氏が本気で戦っているように思えぬのだ。あの者達は何かを待っているのではないか」
「何か策があるのかもしれませんが、この見通しの良い場所では伏兵も用意できません。
「案外大したことのない奴なんじゃないですか?匈奴が思ったより強くて怯えてるんでしょう」
「いや、そのようには見えない。あれはまだ力を温存しているように思える」
扶蘇は頭を振って陳勝の言葉を否定した。陳勝は不満気に下唇を突き出す。
「一体、何を考えているのか……おや、これは何の音だ」
扶蘇の耳に、遠くからかすかに澄み渡る旋律が聞こえてきた。何者かが笛を吹いているらしい。
「李左車よ、そなたにも聞こえるか」
「はい。どうやら月氏の陣から聞こえてくるように思われますが」
扶蘇は戦場に響き渡る音色に耳をそばだてた。人馬がぶつかり合い、剣や矛が火花を散らす音が戦場を支配する中、それとは別にはっきりとした音色が聞こえてくる。
「これはまたなんとも不思議な音色だな。中華では聞くことのない旋律のようだが――何だ、あれは」
その笛の音に応じるように、上空から一羽の奇妙な獣が飛来した。獣の首から上は猛禽類の姿をしており、背にも大きな翼が生えている。しかしその四肢は獅子のものだ。
「まさか……
いつも沈着な李左車が、この時は珍しく驚きにその瞳を大きく見開いていた。
「李左車よ、あの獣を知っているのか」
「匈奴の者より聞いたことはございます。西方には翼持つ獅子がいると。しかし、まさか本当にこの目で見ることになるとは」
鷲獅子の耳をつんざく一声が戦場に響きわたると、冒頓の部隊の馬は恐慌状態に陥った。一斉に棹立ちになる馬から落馬する者も多く、冒頓の隊は崩れ立った。
「冒頓殿が危ない」
遠目にも冒頓がなんとか馬上でこらえ、懸命に味方を励ましている様子が見て取れたが、混乱した匈奴兵に嵩にかかって襲いかかる月氏を前に苦戦を強いられている。鷲獅子も冒頓の隊の中へと降り立ち、鋭い爪を振り上げて次々と匈奴兵を血で染めていく。
「ここは我等らが加勢しましょう。このままでは冒頓殿の命すら危うい」
「うむ。全軍我に続け。月氏を突き崩すのだ」
扶蘇がそう命じると、秦軍は一気に丘を駆け下った。しかしその時、まるでその動きをあらかじめ察知していたかのように、月氏の後方で待機していた部隊が移動し始め、秦軍へと迫ってきた。
(――どういうことなのだ。私が匈奴に加勢することを知っていたとでも言うのか)
月氏の騎馬兵はみるみるうちに勢いを増し、扶蘇の眼前へと立ちはだかった。その先頭で馬を疾駆させている者は黄金の兜の下から流れる黒髪を風になびかせており、一目で女人であることが見てとれる。
「そなたが、扶蘇だな」
女人は馬上で弓をつがえたまま、少し掠れた声で最初の一言を発した。その後すぐに女人が放った矢は真っ直ぐに飛び、鋭く空を割いて扶蘇の目前に迫った。
扶蘇は剣を抜き放ち、飛来する矢を斬って落とす。
「ふふ、流石だ。そうでなくてはな」
女人は不敵な笑みを浮かべる。その浅黒い顔は優美な曲線で縁どられ、扶蘇を見つめる蒼い双眸は澄み渡る湖面のような深い光をたたえている。
「月氏の女王、
「如何にも」
扶蘇の問い掛けに月里朶は簡潔に答えると、弓をしまって笛を取り出し、唇に押しあてた。
「殿下、今のうちに攻めかかりましょう。あの女は鷲獅子を呼び寄せる気です」
「待て。あの獣をこちらに引き寄せられれば、冒頓殿を助けられる」
扶蘇は今にも月氏に襲いかかろうと逸る陳勝を押しとどめると、月里朶の笛の音に耳を傾けた。初めて聞くはずなのにどこか懐かしさを覚えるその調べに釣られて、鷲獅子が冒頓の陣から飛来し、月里朶と扶蘇の間へと着地する。
「皆の者、心を強く持て。あの獣の声に惑わされてはならぬ」
扶蘇のその声に、周囲の兵が緊張で身を固くした。
鷲獅子は翼をたたむと首を持ち上げ、天を仰ぐような格好になる。
(――来るか)
扶蘇は両の手で己の耳を塞ごうとしたが、次の瞬間、鷲獅子は首を降ろし、扶蘇を見つめたまま何度か目をしばたいた。
(鳴かないのか)
鷲獅子はしばらく扶蘇を睨んだあと、おずおずと扶蘇に向かって歩いてきた。鷲獅子は扶蘇の馬の前で足を止めると、何度か馬と鼻先をこすり合わせたあと、前脚を折って扶蘇に頭を垂れるような格好になった。
「――ほう、これは面白い。やはりそなたは私の思った通りの男のようだ」
「思った通り、とは?」
扶蘇が月里朶に問を向けると、月里朶は優雅な仕草で兜を脱いだ。風に流れる黒髪の美しさに、思わず扶蘇の周囲の兵が息を呑む。
「そなたが凡百の男であれば、私が笛を吹いている間に私を亡き者にしようとしたであろう。だがそなたは己を盾に匈奴を守ろうとした。そのような者をこそ、私は求めていたのだ」
月里朶は何もかもを見通しているかのような深く静かな瞳を扶蘇に向けてくる。扶蘇はその視線を受け止めながら、月里朶の心中を探ろうとしていた。
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