和睦
「共に生きるだと?
「なぜ、私が冒頓殿を愚弄しなくてはならないのだ」
扶蘇は穏やかな声音で話しかける。心底冒頓の言葉が理解できない、といった様子だ。
「お前は敗者に手を差し伸べているつもりなのだろうが、俺は生き恥など晒す気はない。敗者に残された道は死あるのみだ」
「生きることがなぜ恥なのだ。生まれた以上は、生きねばならないのが人ではないか。軽々しく死など口にするものではない」
「黙れ。戦に敗れた以上、おめおめと生きながらえるつもりなどない」
「殿下、あいつは傷ついてるんですよ」
陳勝が脇からそっと口を挟んだ。
「こういう時はね、半端に情けをかける方が相手は傷つくものなんですよ。あいつは自信満々で俺達に挑んだのに、大勢の味方の前で大負けしたんだ。そりゃ死にたくもなるってもんですよ」
「陳勝よ、私は情けをかけているのではない」
「じゃあ、何で助けようとするんです?あいつは死にたいって言ってるんだから、願いを叶えてやればいいじゃないですか」
「そのような願いは叶えるわけにはいかない」
「何をごちゃごちゃと言っているのだ。さっさとこの首を刎ねるがいい」
冒頓は叢に座り込むと、己の首を掻き切る仕草をした。
「冒頓殿、貴殿は死を選ぶのが勇者だと考えておられるのか」
「当然ではないか。負けた者が命乞いをするなど見苦しい」
「それは違う。ここで死を選ぶのは、弱き者のすることだ」
「俺が、弱い――だと」
冒頓は握った拳に力を込めた。怒りに全身がわなわなと震えている。
「貴殿がここで逝ったら、残された者達はどうなるのだ。ここにいる兵達は、貴殿だからこそ付き従っているのだろう。貴殿はこの者達を見捨てて一人死を選ぼうとしている。それは一見潔く見えるかもしれないが、実は今後待ち受ける生の苦しみを避けるための安易な道に過ぎない」
冒頓は絶句した。己を見つめる扶蘇の真摯な瞳を正視できず、目を伏せる。
「勝負は時の運。勝っても負けても生の苦しみはずっと続いてゆくのだ。安易な死を選ぶより、困難な生を良く抜くことの方がずっと尊いとは思われぬか」
「何を、ふざけたことを……」
「私はふざけてなどいない。私は貴方に生きていて欲しいのだ。生きていれば、私も貴殿の苦しみを減らす力になれるかもしれない」
「舐めた真似を!」
冒頓はやおら立ち上がると、腰の径路剣を抜いて扶蘇に斬りかかった。扶蘇も剣を抜き、その鋭い一撃を受け止める。
「俺の苦しみを除くだと?そんな物言いができること自体、お前が何も分かっていない証拠だ」
冒頓は扶蘇の顔めがけ刺突を繰り出した。扶蘇はかろうじてその一撃を
「分かっていないとは」
「俺達の土地は貧しい。遊牧だけでは民を養えぬこともある。ならばお前達の土地に攻め込むしかないではないか」
冒頓はさらに矢継ぎ早に斬り立ててくる。扶蘇は冒頓の剣劇を弾きつつ、無言でその言葉を聞いている。
「食料も資源も武器も、何もかも持っているお前達だからこそそんな口が利けるのだ。持たざる者は持てる者から奪うしかないではないか」
そう言い終えると同時に、冒頓は頭上から渾身の一撃を扶蘇の頭上に見舞った。扶蘇が冒頓の重い一撃を受け止めると、二人は鍔迫り合いの格好となる。
「お前達秦は国を統一すると市で穀物の値を釣り上げ、我等を苦境に陥れた。それでやむなく我等が食料を奪いに来れば今度は長城など築き、我等を邪魔者扱いする始末。お前達は我等を侵略者呼ばわりするが、元はといえばお前達秦が蒔いた種ではないか」
二人は剣を交えたまま互いに手に力を込める。二人の力は拮抗していて、歯軋りするような刃の擦れ合う音だけが草原に響く。
「確かに今まではそうであった。それゆえに、私は秦も匈奴も共に栄える道を探ろうとしている」
「共に栄える、だと?」
「そうだ。そのためにも、冒頓殿には生きて匈奴を束ねてもらわねばならない」
扶蘇のその言葉に、思わず冒頓の手から力が抜けた。扶蘇の剣に押されて数歩後ずさった冒頓は、大きく肩で息をつく。
「――本当に、そんなことができるのか」
「何事も、試してみなければわからぬ」
扶蘇はそう言い渡すと、ゆっくりと剣を鞘に収めた。その動きにつられるように、冒頓も径路剣を鞘にしまった。
「私には貴方の力が必要なのだ。我等の力で、共に新しい世を築こうではないか」
扶蘇が朗々と冒頓に呼びかけると、冒頓は曖昧に首を振った。
「お前はいずれ皇帝の跡を継ぐ男なのだろう。つまりお前は中華の主となる男だ。中華の者にとり、俺達は所詮異分子ではないのか」
「私の目指す世は誰も拒むことはせぬ。出自も種族も問わぬ。強き者も弱き者も、各々が長ずるところで力を発揮する世を目指すのだ」
「はっ、弱き者に一体何ができる?この草原では弱き者は死ぬだけだ」
「先程、貴殿の軍は我が弱兵を侮ったために負けたのではないか」
冒頓はぐっと詰まった。固く唇を引き結んだまま、何も言い返すことができない。
「弱き者にも使い道があるのだ。それを見つけてやることが、私の為すべきことだ」
自信に満ちた扶蘇の言葉に、冒頓は決まりが悪そうに横を向いた。扶蘇は微笑をたたえながら、この草原の勇者の横顔を見つめていた。
扶蘇は漠北の草原で一夜を明かした後、冒頓を伴って匈奴の単于である頭曼の
「おお、よくぞおいでなされた。このような地ではさぞ皇子も不自由しておられるだろう」
頭曼は白いものの混じる
「いえ、慣れれば草原の風もなかなかに心地よいものです」
「このたびは息子が勝手に戦を始めたこと、深くお詫び申し上げる。我等匈奴は秦に刃向かう気など毛頭ないのだが、あれはどうも狂躁の血がが收まりませんでな」
深々と頭を垂れる頭曼に冷たい一瞥をくれたあと、冒頓は扶蘇の脇で鼻を鳴らした。
「冒頓にはこちらで厳重に処罰を下すといたそう。扶蘇殿は我等は秦に背く気などないということを、ぜひ皇帝陛下にお伝え願いたい」
「いや、冒頓殿の処罰など無用に願いたい。むしろ私は冒頓殿に感謝しているくらいなのです」
「あの愚か者に、感謝を?」
「はい。私は冒頓殿と一戦交えたあと、匈奴の窮状について冒頓殿から聞かされました。そして、冒頓殿が決して理由なく我が秦に戦を仕掛けてきたわけではないことを悟ったのです」
「ふむ、それはどういうことなのであろう」
頭曼は白いものの混じる髭をしごくと、扶蘇に訝しげな目をむけた。
「貴方方は生きていくために穀物を必要としている。しかしこの地で穀物は育たない。だから中華の者との商いで穀物を手に入れなければならない。違いますか」
「いかにも、その通りだが」
「しかし秦が中華を統一し、その力を背景に穀物の値を釣り上げたために匈奴が苦しんでいる。足りない穀物は中華の地より奪う他はない。そのために冒頓殿は秦を攻めたのです」
「そうだとしても、あの者のしたことは許されることではない」
「単于よ、私は秦と匈奴が共に栄える世を作りたいのです。冒頓殿はその機会を私に与えてくれました。この戦は起こるべくして起こったこと。我等が戦わなくとも良い世を作らなければ、冒頓殿を処罰しても何も解決しないのです」
「では、扶蘇殿はいかがなされると言われるのか」
「市に監督官を置き、物価を厳重に監視させましょう。不正な商いが行われないよう、国境の取り締まりを強化するのです」
「我らが損を被らないよう、取り計らっていただけるというのか」
「商いとは双方に利益がなくてはなりません。たとえ穀物を高く売りつけて一時は利を得たとしても、それで戦を招いては元も子もない。それは私の望むところではないのです」
頭曼は腕を組むと、何度も深くうなづいた。
「扶蘇殿の口から、まさかそのような言葉が聞けるとは思わなかった。我等が何を求めているのかを、そこまで正確に見通しておられるとは」
「全ては冒頓殿のおかげです。どうか処罰などなさいませぬよう」
「わかった。この度だけは特別に許すとしよう」
扶蘇の顔に安堵の色が浮かんだ。その脇で冒頓は苦々しげに眉根を寄せる。
「それでは、宴の支度を始めるとしようか。扶蘇殿のお口に合うかわからぬが、羊の肉でもてなさせて頂くとしよう」
「どのようなものでも、美味しく頂きましょう」
「扶蘇殿は大事なお客人だ。我等の最高級の酒肴を用意せよ」
頭曼がそう支持を飛ばすと、側近の者が慌ただしく
程なくして扶蘇の前に料理が運び込まれ、宴が始まった。天幕の中は羊肉の焼けた香ばしい匂いで満ちている。
「うむ、これは美味い。このような野趣に満ちたものは中華では味わえぬな」
扶蘇はよく炙られた羊の肉にかぶりつくと、隣の席の冒頓にそう話しかけた。
「ほう、お前にもこの肉の良さがわかるか」
「わかるとも。こういうものを日々食らっているから、匈奴の兵は強健なのだろうな」
「我らの強さの秘訣は肉だけではないぞ。これも飲んでみろ」
扶蘇の言葉に気を良くしたのか、冒頓は盃を馬乳酒で満たして扶蘇に差し出した。
「これは、馬の乳なのか」
「こいつは美味いだけでなく、滋養にも富んでいる。男が飲めば精気に満ち、女が飲めば色艶がよくなる」
「それは豪勢だな」
扶蘇は破顔すると、一気に酒盃を傾けた。
「これはなかなかに濃い。確かに力が沸いてくる」
馬乳酒を飲み干すと、扶蘇は体が芯から温まる気がした。
「そうであろう。中華の地にもこれほどの美酒はあるまい」
冒頓は得意げに胸をそびやかした。酒が回ったせいなのか、戦に負けたわだかまりも少しづつ解けてきているらしい。
「扶蘇よ、本当に市を取り締まる気なのか」
「そうしなければ、匈奴は穀物が不足してしまうのだろう」
「それはそうだが、穀物は秦からでなくとも手には入る」
「では、どこから手に入れる?」
「月氏よ」
冒頓は馬乳酒を飲み干すと、舌で唇の端を舐めた。
「しかし、月氏も遊牧の民ではないか。月氏の地で穀物が育つのか」
「奴等も商いで穀物を手に入れているのさ。そいつを奪えばいい」
冒頓は片頬を釣り上げて笑った。この男は欲しいものは全て奪い取ればいいと思っているようだ。
「そういえば、貴殿は以前月氏にいたそうだな」
「一時期人質となっていた。つまらぬ日々だったな。人の顔色を伺うなど俺の性に合わぬ。神懸かりの王にただ付き従うだけの無気力な民も気に食わん」
冒頓は憤懣を酒臭い息とともに吐き出した。月氏の地での忍従の日々は、比類なき驍勇を誇る冒頓にはよほど堪えたらしい。
この頃、まだ月氏の勢力は匈奴を上回っていたともいわれる。史記には列伝も立てられておらず、民族系統も不明なこの遊牧の民の実態は太古の霧の彼方に霞んでいるが、かつて人質の日々を送った冒頓にとり目障りな存在であったことだけは間違いない。
「父はあの時、俺が月氏にいるにも関わらず月氏を攻めた。俺を殺そうとしたのだ」
扶蘇は何も言わず、冒頓の言葉に耳を傾けている。
「だが黙って死んでやるほど俺も愚かではない。俺は月氏の駿馬を奪って逃げた。それからようやく父も少しは俺を認める気になったようだ」
その時に奪った馬というのが、軽々と頂上を飛び越えた天馬なのだろう。あの光景は今でもしっかりと扶蘇の目に焼き付いている。
「それでも、まだ不満があると?」
扶蘇は冒頓の不機嫌そうな横顔に語りかけた。
「あのような臆病者は単于に相応しくない。匈奴はこの世で最も強き者に率いられるべきだ」
その最も強き者とは誰なのか、とは扶蘇は訊かなかった。
「言葉を慎め。単于はすぐそこにおられるのだぞ」
扶蘇は横目で上座の頭曼を見やった。幸い、頭曼は左右の者との歓談に集中していて冒頓の言葉は耳に入っていないようだ。
「構うものか。どうせあの男は俺をどうにもできまい」
扶蘇は軽く溜息をついた。ちょうどその時、匈奴兵が慌ただしく天幕の中に駆け込んできた。
「申し上げます。月氏の軍勢がこちらに向かっております」
「何だと」
頭曼は一言叫んだあと、料理を喉に詰まらせ咳き込んだ。側近が背をさすりようやく料理が喉を通ると、頭曼は兵に先を話すよう促す。
「して、数はいかほどだ」
「およそ二万。率いている将は
「あの女が……!」
冒頓が酒盃を卓に置き、
「
扶蘇がそう問いかけると、冒頓は苦々しげに顔をしかめた。
「月氏の女王よ」
扶蘇の酔いが一気に覚めた。女王の率いる騎馬の軍勢が、今この匈奴の地に向かっている。長城の内に居ては決して知ることのできない漠北の実情を知り、扶蘇の頭は目まぐるしい勢いで回転をはじめた。
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