決戦

「ふむ、匈奴が長城の傍まで攻め来ったというのか」

 扶蘇の言葉に、雁門城は俄かに緊張に包まれた。匈奴の来襲を告げてきた使者を、扶蘇は硬い面持ちで見つめている。

「して、数はいかほどか」

「今回はおよそ三百。長城の外から矢を放って参りましたが、こちらが応戦するとほどなく逃げ去りました」

「こちらの死傷者はどれほどだ」

「怪我を負ったものは十数名に及びますが、いずれも軽傷です。死者はまだ出ておりません」

「うむ、左様か」

 扶蘇はゆっくりとうなづくと、隣に侍る李左者に顔を向けた。


「李左者よ、この事態をどう見る」

「これはおそらくは誘いでしょう。匈奴は与しやすいと見せかけておき、我等を長城の外に誘い出す気なのです。冒頓は自らに有利な草原で我が軍を叩きのめすつもりでしょう」

 李左者は若さに似合わぬ冷静な見解を扶蘇の前で披露した。扶蘇は満足気に唇の端を釣り上げる。

「そして、我等はその誘いに敢えて乗る、というわけか」

「その通りでございます。あえて冒頓の誘いに乗ったと見せかけることで、奴の油断を誘うのです」

「しかし、そんなに上手くいきますかね。長城で奴らを迎え撃つんじゃ駄目なんですか」

 陳勝が気怠げに扶蘇に問いかけた。

「長城で冒頓を迎え撃つ限り、大きな負けはない。だが大きな勝ちもない」

「そりゃそうでしょうが、冒頓の油断を誘うって、一体どうするんです」

「陳勝よ、そのために私は仁者の軍を育ててきたのだ」

「あの連中が本当に役に立つんですか?逃げ足だけはずいぶんと早くなったようですが」

「人には適材適所というものがある。私はあの者達も戦場で役に立つと証明したいのだ」

「証明、ねえ」

 陳勝は軽く溜息をついた。まだ納得の言っていない様子の陳勝を横目に、李左者が話し始める。


「仁者の軍は今回の戦の要です。あの者達の存在なくして、冒頓を破ることは叶いません」

「あの弱々しい連中が、ですか?」

 陳勝は無遠慮に李左車に問いかける。およそこの男は目上の者に敬意を払うことがない。

「そう見えるからこそ良いのです。冒頓は傲岸不遜な男。我等を侮るように仕向ければ、勝機は見えましょう」

「まあ、将軍がそう仰るんならそうなんでしょうがね。勇んで長城の外に飛び出したはいいが、漠北の地にむくろを晒すなんてのは御免ですよ」

「おや、陳勝、そこまで冒頓が怖いか?」

 扶蘇は珍しく、からかうような視線を陳勝に向けた。

「そ、そんなわけはありません。あんな野郎、この矛で突き刺してやりますよ」

「その意気だ。そのためにも、仁者の軍には働いてもらわなければな」

 陳勝は訝しげに顔をしかめたが、その矛を握る手には力が籠っていた。

「すでに我が軍の調練は十分でございます。あとは殿下が出陣の命を下すのを待つばかりです」

 李左者の面には静かな自信が漲っている。扶蘇の決断さえあれば、冒頓を破れると確信している様子だ。


「うむ、ここまで軍を鍛えてきたのだ。そろそろ討って出ねばなるまい」

 扶蘇はしばらく瞳を閉じると、腕組みをして一人何度か頷いた。

「我等は雁門の軍を率いて敵将・冒頓を討つ。そしてこの北辺の地に平和をもたらすのだ」

 扶蘇が決然と立ち上がると、李左車と蒙恬は深々と頭を垂れた。陳勝はその様子に高揚を覚えたのか、珍しく矛を持つ手を震わせていた。



冒頓ぼくとつ様、秦軍が長城の外三十里の地に布陣しました」

 物見の兵がパオの中央に座す冒頓にそう告げてきた。その表情には抑えきれない愉悦の色がありありと見える。

「どうしたのだ、何か良いことでもあったのか」

「実は、奴等の中に老いた者や弱兵が相当数混じっているのです。おそらくあれが仁者の軍とやらなのでしょう」

「ほう、扶蘇は本当に使い物にならぬ兵を率いてこの草原までやって来たというのか。救いがたい愚物だな」

「張廉様の仰る通りでございました。あのような者達を率いて戦などできますまい。あれでは我等に狩られるために来たようなものです」

「秦の仁君も戦場の露と消えるか。後継者を失う皇帝の心中はいかばかりであろうな」

「我等を夷狄いてきと蔑んだこと、後悔させてやりましょう」

「うむ、扶蘇を討ったならば、いずれ皇帝の首も貰い受ける。そう言えば扶蘇は長城の修復も止めたままなのであったか」

「はい、民を慈しむのだと言って今以上に高い壁は築かぬ気でいるようです」

「全く、どこまで愚かな男なのか。民に情けをかけて国を失う気なのか」

 冒頓の唇が残忍な笑顔に引き歪められた。冒頓は扶蘇を破ったらいずれ中華の地にまで攻め入るつもりらしい。


「おそらく、単于ぜんうは納得しないでしょうな」

 冒頓の脇に侍る張廉ちょうれんが静かに冒頓に問いかける。

「臆病者の父など今はどうでも良い。俺が扶蘇を討てたなら、父も俺を見直すだろう」

「ですが、頭曼とうまん様は十万を超える軍を持っておられます。もし単于が冒頓様を罰すると決めたらどうなされます」

「そうなったら、俺が単于の首を取るまでのことだ。戦は数ではない。俺が束ねる一万騎は精鋭中の精鋭だ。しかも俺の号令一下、一糸乱れぬ動きをみせる。あの臆病者の軍など物の数ではない」

 張廉は緊張に顔を引き締めた。冒頓はおよそ退くということを知らない。立ちはだかる者の喉笛に食らいつき、引き裂くことしか考えていない。冒頓には扶蘇の軍が飢えた狼の牙に狙われる羊の群れに見えている。


「今は単于のことより扶蘇のことだ。奴は俺に命を捧げに来たのだから、望み通り屠ってやろうではないか。この草原を秦兵の血で染めてやろう」

「仰せの通りにございます」

「扶蘇の首を取ることができたら、奴の髑髏どくろを盃にして皆と酒を酌み交わすとしよう。愚かな仁君を弔いながら飲む酒はさぞ美味いであろうな」

 冒頓は不気味にほくそ笑むと、唇を湿らせた。冒頓の胸中には、すでに髑髏となった扶蘇の姿が浮かんでいるようだった。


 

 草原を吹き渡る風が頬をなぶるにまかせるまま、扶蘇は小手をかざして前方の騎馬の一群を眺めやった。整然と行軍してくる匈奴の騎馬隊には一分の隙も見えない。軍全体が静かな殺気を放ち、一体の獣として今にも秦軍に飛びかかってくるように扶蘇には思われた。

「見事なものだな。あれが冒頓か」

 扶蘇は感嘆の吐息を漏らすと、脇を行く李左車にそう問いかけた。

「如何にも。ですが、冒頓はまだ若く己の力量を過信しています。私に言わせれば、あれほど与しやすい相手もありません」

「ほう、それは心強いな。李牧殿の孫であるそなたがそう言うのであれば、そうなのだろう」

「祖父は趙の北辺にあり、長きにわたって匈奴の来寇より趙を守ってきました。祖父の兵法は全てこの私の胸中に収められています。今こそ我が兵法の真価を見せる時です」

 李左車は匈奴の大軍を前に、些かも動じる風もなかった。その自信は若気の至りなどではないようだ。扶蘇は力強くうなづくと、眼前に迫りつつある匈奴に向き直った。


「いよいよ、あの野郎の首を取れるってことですね」

 陳勝はさすがにこの場では軽口は叩かなかった。その顔がいつになく緊張でこわばっている。

「勘違いするな、陳勝。私はあの者を殺したいのではない。降したいのだ」

「でも、降したんなら結局殺すってことでしょう」

「そうではない。無用の殺戮は避けねばならない。私が攻めるのは冒頓の軍ではなく、冒頓の心そのものなのだ」

「心、ですか」

 今ひとつ扶蘇の心中を測りかねたように陳勝は首を傾げる。

「まあ、今はそのことは良い。まずは目の前の敵に勝たねばならぬ。李左車よ、そろそろ準備にかかってくれ」

「心得ました」

 李左車は扶蘇に一礼すると、前方で守りを固めている仁者の軍へと馬を飛ばした。(皆の者、頼んだぞ)

 扶蘇は祈りを捧げるような気持ちで李左車の背を見送った。これまで鍛えてきた仁者の軍がその力を発揮できるかは、ひとえに李左車の指揮にかかっている。 

「将軍なら、あいつらをうまく生かしてくれるでしょうよ」

 陳勝が珍しく扶蘇の心中を読んだかのように声をかけた。

「そうだな、そう信じるとしよう」

 扶蘇は安堵したように微笑むと、愛馬の手綱を強く握り締めた。


「二百歩の距離だ。まだ遠い。この場を動くな」

 李左者が周囲を宥めるように、落ち着いた声音で指示を下す。仁者の軍の兵は迫り来る匈奴を前に身を固くしていたが、この若き将の涼やかな声には不思議と緊張を解いた。

「百五十歩。慌てるな。まだ動くには早いぞ」

 匈奴兵は馬上で弓を構えたが、それでもまだ弓を放つ気配はない。馬上で弓弦を引き絞りつつ、秦軍を圧するように近づいて来る。

「――百歩だ。全力で駆けよ」

 李左車が鋭い声を発すると、仁者の軍は一斉に匈奴軍に背を向けて駆け出した。さっきまで秦兵がいたその場所に、匈奴の矢が降り注ぐ。しかし次々と射掛けられる矢の雨は、素早く退却する仁者の軍には届かない。

「退け、退けえっ」

 李左車は馬を疾駆させつつ声を嗄らして叫び続ける。その様子は傍から見ると、いかにも匈奴に怯えた将が戦いを放棄して逃げ去ったように思われた。李左車の声に応じて仁者の軍は後退を続ける。その様子を見て侮ったのか、匈奴兵は弓を撃つのをやめ、騎馬を疾駆させて突撃してきた。


「今だ。鉄甲隊は前に出よ。匈奴を迎え撃つのだ」

 後退した仁者の軍と入れ替わりに、李左車は大きな盾を持つ屈強な男達の部隊を前線へ投入した。

「防御陣の一、亀甲だ。冒頓の進軍を食い止めよ」

 李左者が指示を飛ばすと、鉄甲隊の兵は素早く盾を組み上げ、鉄の壁を匈奴軍の前に作り出した。

「今だ、突け!」

 鉄甲隊のぎりぎり近くまで匈奴軍を引き寄せると、李左車は盾の隙間から鋭い矛を繰り出させた。矛は匈奴の胡馬へと突き立ち、馬はたまらずに悲鳴を上げる。その場に斃れる馬もあれば棹立ちになり乗り手を振り落とす馬もあり、たちまち匈奴の前衛は崩れ立った。追いついてくる後続の騎馬も勢いを止められず、そのまま前衛の兵とぶつかったため匈奴軍は大混乱に陥った。

「陣を解け。奴らを追い立てよ」

 李左車は匈奴軍が軍の体を為さなくなるのを見て取ると、そう下知を飛ばした。鉄甲隊は組み上げた盾を降ろすと、矛を手に一斉に匈奴兵に躍りかかる。馬から地に放り出された匈奴兵は、算を乱して逃走を始めていた。


「こいつらも案外大したことがありませんね、殿下」

 陳勝は扶蘇とともに、右翼から匈奴を攻め立てていた。すでに二、三人を付き伏せてその顔に返り血を浴び、ようやく戦場の昂奮に酔いしれている。

「侮ってはならぬぞ、陳勝。今回は冒頓が油断していたゆえ勝てたが、今度はこうはいかぬ」

 扶蘇は気丈にもまだ己に刃向かってくる匈奴兵の矛をかわすと、自ら矛を取って匈奴兵を馬上から突き落とした。

「しかし、李左車様の作戦がこうも図に当たるとは。俺もさすがに驚きましたよ」

「仁者の軍は見事な働きをしてくれた。これであの者達も役に立つことを証明できたな」

「でも、今こうして戦ってるのは俺達ですよ。あいつらは後方に引っ込んだままでしょう」

「それで良いのだ。前線で戦うだけが戦ではない」

「まあ、あいつらも殿下の役に立てて喜んでるんじゃないですかね」

「ほう、珍しく私に同意してくれたな」

「目の前でこれだけの成果を見せられちゃ、こう言わざるを得ませんよ。人ってのは、身の置き場所によって使える奴にも使えない奴にもなる。あんな弱々しい連中にも使い道があるとは思いませんでしたよ」

「あの者達だからこそ、冒頓を誘き寄せることができたのだ。この戦が終わったら、厚く報いてやらねばなるまい」

 扶蘇はなおも矛を振るいながら、感慨深げに言った。陳勝は珍しく扶蘇には反論せず、ただ無言でうなづいた。


「ええい、何たる様だ。それでもお前たちは草原の狼なのか」

 冒頓は迫り来る秦兵を斬り伏せつつ、苛立たしげに吐き捨てた。

「冒頓様、ここは一旦退きましょう。このままでは我等に勝機はありません」

 側近の者が懇願するように冒頓に進言した。その顔には疲労の色が色濃く滲んでいる。

「扶蘇ごときに背を見せるというのか。そのような事を言うのならばまずお前から斬るぞ」

 冒頓が剣の切先を側近に向けたが、そのとき冒頓は首筋の後ろに冷ややかなものが押し当てられているのを感じた。

「――どういうつもりなのだ、張廉」

 冒頓は後ろを振り返らないまま、呻くように言った。

「これ以上、部下の命を危険にさらすおつもりですか。勝てない戦を戦うことに、何の意味もございません」

 張廉は冒頓に刃を押し付けたまま話し続ける。

「どうかこのまま降伏してください。扶蘇様は貴方の命を奪うことはなさらないでしょう。無駄な血を流すことは扶蘇様の願うところではありません」

「扶蘇様、か」

 冒頓はくつくつと笑いだした。張廉の言葉で全てを悟ったようだ。


「俺はお前に謀られていたというわけだな。忌々しいことだが、付け入る隙を作った者が討たれるのはこの世の掟だ。さあ、俺の首を討って手柄とせよ」

 張廉は黙って頭を降った。

「何をしているのだ。さっさと殺せ」

「扶蘇様は、そのようなことは望んでおられない」

「何故だ。敗者の命は勝者のものではないか。俺に生き恥を晒せと言うのか?とんだ仁君もあったものだな」

「負けることは、恥ではない」

 凛とした声が戦場に響き渡った。その威に打たれたように冒頓の周囲の者達が自然と道を開け、その声の主を通した。

「私の望みは、貴方の命を奪うことではない」

 扶蘇がそう口を開くと、しずしずとその脇を歩む麒麟がその場に立ち止まり、天を仰いで一声高く嘶いた。

(――これは、何だ)

 麒麟の嘶きは、心の中に直接響いてくるように冒頓には感じられた。その残響が消えないうちに、麒麟の角から青白い光が発せられ、巨大な円を描くように周囲に広がってゆく。

 唖然としてその光に包まれるうち、冒頓は心身に力がみなぎってゆくのを感じていた。周囲を見渡すと、怪我を負っていた者達の傷が見る見るうちに癒えていく。皆が不思議そうに顔を見合わせている中、冒頓だけは毅然と扶蘇の顔を睨みつけていた。

「何の真似だ、これは。小賢しいまやかしで俺たちをたぶらかそうというのか」

「そうではない。共に、生きるためだ」

 扶蘇は何の衒いもなくそう言ってのけた。およそ冒頓には理解を超える仁君の姿が、確かにそこにあった。

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