胡亥

 蒯通かいとうの言い分に興味を持った扶蘇ふそは、軍の調練を李左車に任せ、結局雁門の城内まで蒯通を伴って戻ってきた。


「そなたは興味深いことを申しておったな。この泰平の世が続くとは限らないとのことだが、この国に何か争いの種でもあるというのか」

 執務室に通された蒯通は恭しく一礼すると、己の存念を述べ始めた。

「私の見る限り、先程雪蘭さんを罵倒していたあの男は市井の者ではありません。恐らくは咸陽かんようから送り込まれた者でしょう」

「何だと?まさか陛下がわざわざあいつにあの歌姫を中傷させたってのか」

 陳勝は訝しげに眉をしかめた。雪蘭が国内を自由に旅することを認めた皇帝が、なぜそんなことをする必要があるというのか。


「いえ、陛下は雪蘭さんをお許しになったのですし、この件には関わってはおられないでしょう。しかし陛下の周囲の者達が陛下と同じ思いであるかは、また別問題です」

「誰か君側の奸が、よからぬことを企んでいるというのか」

 蒙恬もうてんがそう蒯通に問いただした。謹直な顔が緊張に引きつっている。

「しかし、仮にそうだとして、一体何が狙いなのだ」

 扶蘇も心に浮かんだ疑問を蒯通にぶつけてみた。


「恐らくは、扶蘇様がどの程度この雁門の民の心を掴んでいるかを試したかったのでしょう。だから雪蘭さんの歌を聴きに来た者を煽ってみたのです。今回はあの男に同調する者がいなかったので、扶蘇様を手強い相手だと認識したでしょうね」

「それは、そなたがあの男を言い負かしてくれたお陰でもあるのだがな」

「私が何も言わなくとも、あの男に味方するものなどいなかったでしょう。扶蘇様が雁門の民の人心を掴んでいると解ったので、今度は別の手を打ってくるかもしれませんね」

「しかし、その君側の奸とやらは何を考えてやがるんだ。殿下を貶めていったい誰が得をする?」

 陳勝は眉根を寄せて首を捻った。秦の入り組んだ宮廷事情など、陳勝の知るところではない。


「恐れながら、扶蘇様はまだ太子に立てられているわけではございません。次の皇帝の座を欲しがっている方がおられましょう」

「――まさか、胡亥こがいが?」

 扶蘇は押し殺したような声で弟の名を口にした。扶蘇が次代の皇帝と決まっていない以上、弟の胡亥にも次期皇帝に指名される可能性もある。そしてそのためには扶蘇の存在が邪魔になるのだ。


「しかし、まさかそんな事が」

 扶蘇は目を閉じると、瞼の裏に胡亥の無邪気な笑顔を思い浮かべた。幼い頃よりひたすらに扶蘇を慕い、喧嘩どころか扶蘇に異論を唱えることすらしたことのないあの弟がこの自分を押しのけて皇帝の座を狙っているなど、扶蘇にはにわかに信じがたいことだった。

「胡亥様ご自身の意思ではないかもしれません。しかし周囲の者がなにか良からぬ事を吹き込んでいる可能性もございます。ゆめゆめご油断あそばされますな」

 蒯通がそう念を押すと、扶蘇は渋面を作って黙り込んだ。何者かが自分達兄弟の仲を裂こうとしている。自分が皇帝になれなくとも構わないが、胡亥を操ろうとしている者がいるかもしれないという事実が扶蘇にはたまらなく不快だった。


「殿下のお心を煩わせてしまったのなら申し訳ございません。ですが、いかにご兄弟といえど、遠く離れた地にいる方と心を通わせるのは容易ではありません。人はどうしても近くに侍るものに心を揺さぶられるものです。この世は殿下のように心正しき方だけが暮らしているわけではないことを、どうかお心に留めておいて頂きたいのです」

 蒯通はそう己の話を締めくくった。蒯通の飄々とした話しぶりは事の深刻さをいくらか和らげているが、それでも扶蘇の心を覆う暗雲が吹き払われたわけではない。


「蒯通よ、そなたは今この雁門で何をしている?」

「知人の家に居候しております。無為徒食のため、そろそろ追い出されそうになっているところですが」

「ならば私の客となるがよい。急ぎ雁門の宿に部屋を用意させよう」

「私が殿下の客に、ですか」

 蒯通は目を丸くすると、畏まってそう答えた。

「私はあまり人を疑わないものでな。そなたのように私と正反対の事を考える者も傍に置いておきたいのだ」

「この泰平の世に、私ごとき縦横家が役に立ちましょうか」

「交渉事は国と国との間だけにあるわけではない。いずれそなたの弁舌が役に立つ日も来るかもしれぬ」

「ありがたき幸せにございます。機会があらばこの蒯通、殿下のために三寸不爛の舌を振るってご覧に入れましょう」

 蒯通は淀みなくそう答えると、深々と扶蘇に頭をさげた。


(やれやれ、また殿下の悪い癖が出たか)

 陳勝は内心呆れつつ、目の前で背を丸める蒯通に胡散臭げな視線を投げた。

 知人の家を追い出されようとしているなど、本当は嘘ではないのか。そう言って扶蘇の同情を買い自分を人好きのする扶蘇に仕えさせようとしているのではないか、と陳勝は疑っている。それが本当ならば、この男は早速巧みな弁舌で扶蘇を丸め込んだことになる。

(こんな調子でどんどん人を抱え込んでいいのか。こいつが本当に信用できるなんて保証はないだろうに)

 陳勝はそう自分のことを棚に上げつつ、その言葉を口には出さなかった。



 咸陽かんよう宮は降りかかる秋の夕陽に照り輝いている。かつて燕の送り込んだ刺客・荊軻の地に染まったこの宮殿も、今はその主である始皇帝の威厳が隅々まで行き渡り、曲者の忍び込む隙などどこにも見られない。

 この咸陽宮の主を前に、今一人の男が頭を垂れていた。

 

「趙高よ、雁門の様子はどうだ」

 玉座よりそう問いかける声に、趙高は身を竦ませる。擊剣の名手である荊軻とも対等に渡り合ったというこの帝王の声音は、気の小さい者ならば歯の根が合わなくなるほどの恐怖を呼び起こさせる。

「扶蘇様は雁門をよくお治めになっているとのことにございます。裁きも公平で長城の外には争いも絶え、我が秦の藩屏として申し分なきお働きぶりと申せましょう」

「うむ、そうか」

 始皇帝は満足気に髭をしごきつつ、趙高の色艶の良い顔を眺めやる。かつては始皇帝の末子である胡亥に守役として仕えていたこの男は、法に通暁した有能さと皇帝の心のひだの奥の奥まで寄り添う気配りで側近として台頭しつつあった。


「あれもなかなか良くやっているようであるから、いずれはこの咸陽に呼び戻してやっても良いかと思っているが、そなたはどう思う」

「御意のままに。扶蘇様は皇子にふさわしき資質をすべて持っておられます」

 趙高は決して皇帝とは争わない。言質を取られるようなことも言わない。ここでも趙高は扶蘇は皇帝に相応しいなどとは言わず、ただ皇帝の意を迎えるのみだった。

「北辺の守りは蒙恬に任せておけば十分であろう。扶蘇にはいずれこの国の要となってもらわねばならぬ。咸陽で政務も担ってもらわなければなるまい」

「まこと、陛下の仰せの通りにございます」

 趙高の声音は柔らかく、人の心に染み入るような話し方をする。誰もが安心感を持つよう計算し尽くされた趙高の挙措は、厳格な始皇帝の警戒すら解かせるものだった。しかし趙高はその柔和な仮面の下で、常に鋭利な刃を研ぎ澄ませている。


(――扶蘇め、思ったよりもやりおる)

 趙高が雁門に送り込んだ男は、雪蘭への敵意を駆り立てることに失敗した。それどころか、やけに弁の立つ男が扶蘇を弁護するために割り込む一幕すらあった。そのような有能な男の心を掴むほどに、扶蘇の人徳は際立っているらしい。

(胡亥様では、あれほどに人を惹きつけられぬ)

 幼き頃より胡亥の面倒を見てきた趙高は、胡亥の器が扶蘇には及ばないことをよく知っている。だからこそ、胡亥が皇帝の座に登れば己が権勢を振るう機会も訪れると睨んでいるのだった。扶蘇は己の耳に逆らう者を敢えて重用すると聞く。迎合することが身上の趙高では扶蘇の下では出番がない。

「扶蘇については何も案ずることはなさそうだな。下がって良いぞ」

 趙高は始皇帝に一礼すると、しずしずと音も立てずに退出した。 


 咸陽宮を下がった趙高は、胡亥に逢うためそのまま城外へと足を向けた。年齢の割に健脚な趙高は息も乱さず足早に咸陽の城門をくぐると、遠くに黒一色の鎧を身にまとった軍団が行進してくるのが見えた。土煙を上げきびきびと行軍する秦兵の姿は、遠目にはさながら一個の黒い巨獣のようである。

(胡亥様は、今日も励んでおられるのか)

 胡亥はここの所、王翦おうせんの孫である王離おうり将軍の指導を受けながら調練を続けていた。兄である扶蘇が雁門に赴いてからしばらく気落ちしていたが、ここ最近ようやく気力を取り戻してきたように趙高には思える。


「全軍止まれ。今日はここまでとする」

 胡亥の命令を受け、秦軍はぴたりとその場に静止した。一糸乱れぬ統率の取れた行軍ぶりに満足したのか、胡亥はわずかに口元を緩めた。

「趙高、そこにおったのか」

 趙高の姿を見咎めた胡亥はひらりと身を翻して馬を降りると、趙高に涼やかな笑顔を向けた。長身の扶蘇より一回り体躯は小さいが、秦の甲冑を身にまとった胡亥は凛とした貴公子ぶりを見せつけている。

「雁門から使いの者が参りました。扶蘇様はご壮健であられるそうです」

 趙高は胡亥に一礼すると、そう簡潔に報告した。

「それは良かった。特にこれといった問題は起きてはいないのだな」

 胡亥は端正な顔を綻ばせる。今でも心から扶蘇を慕っていることは変わりがないようだ。


「問題というわけではございませんが、少々気になることがございまして」

「何があったのだ。兄上の身辺に良からぬことでも起きているのか」

「実のところ、雁門に奇妙な獣が現れた、と知らせが入っているのです。使いの者によると、どうやら麒麟であるとか」

「ほう、麒麟が?」

 胡亥の瞳が好奇心に輝く。その瞳に促されるように、趙高は話し続ける。

「何でも今はすっかり扶蘇様に懐いているようで、長城の工事で怪我をした者の傷を治してやっているとのことにございます」

「流石は兄上だ。かの仁獣を手懐けてしまうとは、やはり兄上こそが帝位にふさわしきお方なのであろうな」

 胡亥は声を弾ませるが、そんな胡亥が趙高には不満だった。この皇子にはもっと扶蘇に対抗心を燃やしてもらわなければ困るのだ。

「恐れながら胡亥様、これは必ずしも良い兆候とは申せませぬ」

「何を言うのだ、趙高。麒麟が現れることが瑞祥でなければ何なのだ」

「今のところ、まだ扶蘇様は太子に立てられたわけではございません。なのに扶蘇様は麒麟を自分の傍に置いておられる。これがどういうことか、お分かりになりませんか」

「趙高よ、何が言いたいのだ」

 胡亥はわずかに表情を曇らせた。扶蘇のすることには少しでも疑いを挟みたくない、といった様子だ。

「麒麟とは聖人の世に現れるという言い伝えがございます。現在陛下がまだ帝位におられる以上、麒麟を見つけたならこれを陛下に献上し、陛下の御代が聖人の世であるという証となすべきではございませんか」

 胡亥は少し目を伏せて黙り込んだ。兄を弁護するための言葉を探している様子だが、胡亥は二の句を次ぐことができずにいる。


「なのに扶蘇様は今、麒麟を手放そうとはなさらない。これは自分こそが次代の皇帝に相応しいのだと、暗に言っておられるようなものではございませんか」

「それ以上申すな、趙高」

 扶蘇の心中を忖度した趙高に胡亥は怒りを隠さなかったが、趙高は構わず話し続ける。

「麒麟が現れたこと、それ自体は確かに瑞祥でありましょう。しかし己を良く見せるために麒麟を用いようとする、これが果たして帝位を継ぐべき方の振る舞いと言えましょうか」

「趙高!」

 胡亥が趙高を叱り飛ばすと、趙高は大袈裟に首を竦めてみせた。

「兄上が嫌がる麒麟を手元に無理やり引き止めているのではあるまい。兄上の徳に麒麟の方が懐いているのに決まっている。それこそが兄上が帝位に相応しき方であるという証拠ではないか」

 趙高は胡亥に言葉を返すことはなく慇懃に頭を下げたが、心中ではなお胡亥を説き伏せることを諦めていない。

(この皇子、意外に頑固だ。さて、どこから切り崩したものか)

「胡亥様、陛下が胡亥様についてどう仰っているかご存知ですか」

「私は何も聞いていないが、そなたは知っているのか」

「実は先ほど陛下がこう仰言いました。あれは素直で朕の言うことをよく聞くが、少々物足りない、と」

「物足りない、か。兄上に比べれば私が見劣りのする男であることは間違いあるまい」

 胡亥は軽く息を吐くと、力なく笑った。

「そう決めつけられますな。陛下がそう言われるのも、胡亥様に期待しておられるからなのです。陛下としては胡亥様がもっと帝位への野心をお見せになるくらいの方が、頼もしいと考えておられるのでしょう」

「なぜ私が兄上と帝位など争わねばならないのだ。私の器量が兄上に遠く及ばないことくらい、私とてよく解っている。この国を継ぐべき方は兄上しかいないのだ」

(こういう所が、物足りないのだ)

 ひたすらに兄を振り仰ぐだけの胡亥が、趙高にはどうにも歯痒かった。しかしこういう男であるからこそ、皇帝に押し上げれば自分がどうとでも操れるという自負が趙高にはある。

「殿下のお心を煩わせてしまったこと、どうかお許し下さい。私はただ、胡亥様の資質も決して扶蘇様に劣るものではない、と申し上げたかっただけにございます」

 趙高はそんな心にもないことを言うと、深々と胡亥に頭を下げた。

(――このままでは埓が明かぬ。もっと別の方向から揺さぶってみなければなるまい)

 端正な顔を悲しげに歪ませる胡亥の顔を上目遣いで見上げながら、趙高は次の一矢をどう放ったものか思案を巡らせていた。

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