蒯通
簡素な
「では、
冒頓は
「間違いはございません。私は扶蘇の軍が騎馬隊を増強するというので調練のために登用されたのですが、あの皇子は急に弱者にも国のため功を立てる機会が必要だなどと言い出し、寄せ集めの部隊を結成したのです。私は急遽その部隊の調練を任されることとなったのですが、あんな者達では物の役に立ちません。愚かしい限りです」
張廉は言葉の端々に悔しさを滲ませていた。冒頓は張廉の言葉の真偽を測りかねて黙り込んでいたが、やがて張廉の脇で跪いている男に向けて口を開いた。
「この者の申す事は本当か」
「はい、扶蘇が身体の弱そうな者どもを集めて訓練しているところは確かにこの目で見ました。あんな連中が戦場で役に立つとは到底思えません」
その男は、先日張廉が扶蘇の愚痴をこぼした馬商人だった。張廉は己の言葉を信じさせるために敢えて調練の様子をこの男に見せたのだが、男は張廉の狙い通りに冒頓に扶蘇の部隊のだらしなさを言上した。
「ふむ、どうやら扶蘇とやらはよほどの愚物であるようだな。先日俺が天馬を駆って奴の前に現れた時には些かの怯えも見せなかったが、大器なのではなくただ鈍いだけだったのだろう」
冒頓は髭をしごくと、満足気に含み笑いを浮かべた。
「どうか私を冒頓様の配下にお加えください。私をまともに用いようとしなかったあの愚か者にはこの手で討ってやらなければ気が済みません」
「良いだろう。お前のその怒りは戦場では大いに力となる。扶蘇の部隊など馬蹄の下に蹂躙してやるがよい」
冒頓の対応は打てば響くようだ。匈奴でも抜きん出た馬術の持ち主であり、易水では王翦の騎馬隊を大いに破ったという張廉を得れば、まさに百人の騎馬隊にも勝る力を冒頓は手に入れることになる。
「お前は千長に取り立てる。今日より我が軍のために励め」
張廉は顔を綻ばせると、深々と冒頓に頭を下げた。
「張廉さん、行ってしまいましたねえ。無事だといいんですがね」
呉広は雪蘭と連れ立って雁門の市に向かうところだった。張廉が匈奴に赴いたため、その間は雪蘭を護衛せよと扶蘇に命じられていたのだ。
「短い間ですけど、よろしくお願いしますね」
雪蘭は透き通るような白い顔に微笑を浮かべた。年を経てもなお衰えないその美貌に呉広は思わず身を固くする。
「しかし、雪蘭様は本当に雪のように真っ白なお方なんですねえ。この辺境で毎日北風に吹かれているのに、不思議なもんだ」
「あら、お上手ですこと」
「見たまんまを言っているだけですよ。何かこう、美しくいられる導引術の類でも身につけておられるんですかい?」
「そのようなものは何も知りませんけど、敢えて言えば何時でも良い声が出せるよう、気を張り詰めているということでしょうか」
「陽夏の娘達はよく桑摘み歌を歌ってましたけど、日に灼けて真っ黒でしたよ。――ああいや、雪蘭様の歌と一緒にしちゃいけないか」
呉広はぴしゃりと己の額を叩いた。その戯けた様子に雪蘭は肩を揺すって笑う。生真面目な張廉とは違う呉広の陽気さに、雪蘭はどこか救われるような思いがしていた。
「張廉がいない間、どんな方が来るかと少し心配していたんですよ。でも呉広さんのような方なら安心です」
「実はこの任務は俺の方から殿下に頼み込んだんですよ。雪蘭様の歌が傍で聞けるのなら願ったり叶ったりですからね」
「まあ、嬉しいことを仰いますこと」
「もし兵になっていなければ、雪蘭様の弟子にして貰いたいくらいで。
「歌の道は志のある者なら、誰にでも開かれています。良き師に付き修練を絶やさなければ、貴方だって羽声が使えるようになるかもしれませんよ」
「良い師匠、ですか。俺がずっと雪蘭様の護衛を務められればいいんですがねえ」
雪蘭は苦笑した。どうやら呉広は本気で雪蘭に歌を習いたいらしい。
「そういえば、雪蘭様のお師匠様はあのお方なんでしたね。実際、どんな方だったんです?」
呉広は
「――そうですね、実はあの人から私が歌を教わったのは、ほんの短い期間に過ぎませんでした」
雪蘭は真顔に戻ると、遠くを見るような目つきになった。
「あの頃師匠は燕の国政に関わっていて忙しく、私が会うことができたのは陽が落ちた後だけだったのです。いつも蝋燭の炎を吹き消したり、呼吸を整える訓練ばかりさせられていましたね」
「雪蘭様が、そんな基礎の基礎をやらされてたんですか?」
「どのような道も基礎の繰り返しの上にしか成り立ちませんからね。師はそのことをよく知っていました。当たり前のことを当たり前に行うことが実は最善なのだと」
「そりゃそうなんでしょうが、何か意外ですねえ。雪蘭様の師匠ともなれば、何か秘伝の発声法でも知っているのかと思ってたんですが、そういうもんじゃないんですかね」
「秘伝というものとはまた違いますが、羽声の秘奥に達するには、並々ではない感情の昂ぶりを経験しなければいけないようなのです」
「昂ぶり、ですか」
呉広は不思議そうに目を瞬いた。
「ええ。師も私も、存亡の危機に立つ燕に生きました。多くの人の命が奪われ、師も私も激情に心を揺さぶられたのです。あの時代に生きていなければ、私も今の境地に達することはできなかったかもしれません」
雪蘭は少し目を伏せると、声の調子を落として話し続ける。
「その意味では、本当は私がこんな風に歌を歌えない世の方がいいのかもしれません。悲しみに揉まれて歌が磨かれるのだとすれば、そのような世は望ましい世とは言えないでしょうから。私のような者は、乱世の果てに咲く徒花のようなものですね」
「寂しいことを仰らないでくださいよ。そんなに素晴らしい歌が歌えるのに、ご自分を卑下するようなことをしちゃいけませんよ」
呉広は雪蘭の憂いを吹き払おうと、努めて明るく振舞おうとする。その呉広の様子に、雪蘭の表情もいくらか和らいだ。
「卑下しているというわけではないのです。私の歌が乱世の落し子であるとするなら、いずれは私のような歌を歌う者もいなくなるのだろうと思ったのですよ」
「泰平の世が続くなら、そんな世に相応しい歌を歌えばいいじゃありませんか。そういう世を作るために、殿下も日夜骨を折っておられるんですから」
「――そうですね、そうだと良いですね」
雪蘭は少しの間考え込むと、そう呉広に答えた。雪蘭がしばし沈黙したことの意味を、呉広は敢えて問うことはなかった。
扶蘇の眼前を、騎馬隊が整然と行進してくる。今日も扶蘇は雁門の城外で李左車の調練の様子を眺めていた。騎馬隊は扶蘇の部隊へ次第に距離を詰めると、馬上で弓を引き絞る。
「百歩の距離まで来た。全軍、退け」
李左車が鋭い掛け声を飛ばすと、扶蘇の部隊が一斉に騎馬隊に背を向けて逃げ始めた。すでに扶蘇の部隊は調練にも慣れ、隊列を乱さずに退却することができるようになっていた。
「我が軍は逃げることばかり上手くなっていくな」
扶蘇が苦笑を漏らすと、脇に立つ陳勝が横目で扶蘇の方を見た。
「そいつが目的なんだから仕方がないでしょう。こいつらを正面から匈奴にぶつけるわけにはいきませんからね」
「それはそうなのだが、調練次第でもっと他の事にも役立てられぬものだろうか」
「贅沢言っちゃいけませんよ、殿下。人には適材適所ってものがあるんだ。連中は匈奴をおびき寄せる餌になってくれりゃそれで十分ってものですよ」
「おや、そなたにしては随分と寛容な事を言うのだな」
「寛容なんじゃなくて、何にも期待してないからこう言うんですよ。逃げるだけでもできればあいつらにしては上等だ」
「しかし、人は期待をかけられてこそ伸びるものではないのか」
「自分の器を超える働きを求められたって、人は困るだけですよ。あいつらを伸ばしたければ、逃げ足を限界まで早くしてやればいい。それ以上のことを求めるのは酷ってもんです」
「なるほど、そなたにはいつも教えられるな」
陳勝は軽く溜息をつくと、大袈裟に肩をすくめて見せた。扶蘇はそんな陳勝には構わず調練の様子に見入っていたが、その時雁門の警備兵が息を切らせて扶蘇の陣中に駆け込んで来た。
「扶蘇様、東の市で騒ぎが起こっております」
警備兵は緊張に顔を強ばらせつつ、そう報告した。只事ならぬ雰囲気を感じ取った扶蘇は、
「何事か。わざわざ私に知らせる程のことなのか」
と問い質した。
「実は、雪蘭様の興行を邪魔する者が現れたのです。それだけならばともかく、この者は殿下の誹謗中傷まで行っておりますので捨て置くことはできません」
「ふむ、雪蘭が困っておるのか。それは気掛かりだな」
扶蘇は眉をひそめると、己の事は脇に置いてまず雪蘭の身を案じた。
「私の評判などどうでもいいが、雪蘭は助けてやらねばなるまい。陳勝、付いて来い」
「そりゃもちろん行きますがね、殿下の評判がどうでもいいってことはないでしょう。どっちかというと歌姫の身の上なんかよりそっちを心配しないといけないんじゃないですかね」
「常にこの身を正していれば、悪評などいずれ消え去ろう」
この仁君の頑固さを身にしみて知っている陳勝はもう反論はしなかった。足早に雁門の城門に歩いてゆく扶蘇の背を追いかけながら、殿下の正直さの穴埋めはこの自分がやらなければ、などと恐れ多いことを陳勝は考えていた。
扶蘇と陳勝が東の市へとたどり着くと、髭面の男が雪蘭を指差して何か叫んでいる。男の背丈は周囲の者達より頭ひとつ高く、横幅も広いその巨体は熊を思わせる。
「雁門の民よ、この女が何者かご存知ないのか。この女の師はかの天下の大罪人、
男は破鐘のような大声で叫んでいる。雪蘭は歌を聴きに来た大勢の人並みに囲まれつつ毅然とした表情で男の罵倒を受け止めているが、男は気にする色もなく叫び続ける。
「畏れ多くも陛下に刃を向けた男の弟子が、ずっとこの雁門に居座り続けている。これが何を意味するか。この地は罪人の弟子を匿う風紀の乱れた都市と甘く見られているのだ。このような真似を諸君は黙って見過ごすのか」
「黙れ。師の罪はこの方とは関係なんかない」
呉広が鋭い叱声を男に飛ばしたが、男はなお声を励まして叫び続ける。
「この女が荊軻の弟子なれば、この女も秦へ憎しみを抱いていることは間違いあるまい。歌で衆を惑わし、秦の天下を覆そうと企んでいるのではないか」
雪蘭を囲む聴衆がどよめいた。雪蘭は無言で男を睨みつけているが、返す言葉を見つけられずにいる。
「扶蘇様も扶蘇様だ。なぜこのようないかがわしい女を放っておくのか。民を惑わす女狐をこの街に受け入れるなど、陛下に反逆の意思ありと疑われても仕方がないのではないか」
「おい、そこまでだ。このお方を何方と心得る」
男の罵詈雑言に耐え兼ねた陳勝は矛を手に男に近付こうとしたが、扶蘇はそれを手で制した。
「なぜ止めるんです、殿下」
「あれを見よ、陳勝」
そう言って扶蘇が顎をしゃくった方を見ると、人垣を少し離れたところで小柄な男が一人しきりにうなづいている。男は餅を噛みながら、面白い芝居でも見物するかのように事の成り行きを眺めていた。
「ご高説は確かにお聞きした。しかし貴殿のお話にはいくつか納得しかねる点がある」
小柄な男は餅を飲み込むと、明日の天気の話でもするかのように気軽に話しかけてきた。
「俺の話のどこが納得できないというのだ」
「まず一つ。そこの雪蘭さんという方は、陛下の前で歌を披露し、秦国内を自由に旅することを認められていた筈。たとえ師が大罪人であろうとも、弟子にまで罪が及ぶことはないと陛下がお認めになっているのだから、何の問題もないのではありませんかな」
「陛下が許していれば何をしてもいいと言うのか。お前は自分の父を殺した男の息子が自分の家に土足で上がり込んだらどう思うのだ」
「陛下は私の父ではいらっしゃいませんし、この雁門は私の家ではありませんな」
「ふざけているのか。俺はそういう話をしているのではない。この街が罪人の弟子に目をつけられるようでいいのかと言っているのだ」
男は満面に怒りを注ぐと、早口でそうまくし立てた。周囲の者達はすっかり男の巨体と舌鋒に気圧されて何も反論することができない。
「では二つ目。貴殿は先程、雪蘭さんが歌で衆を惑わすと仰った。しかし見た所この町の民は泰平の世を謳歌しており、特に騒擾の起きる気配もございません。一体何を以てこの街の民が惑わされているなどと言われるのか」
「そ、それはまずは一旦この街で人気者となってから、いずれこの街の者達を扇動する気なのであろう」
男の声が少し低くなった。明らかにこの男は自分より頭二つほども小さい男の鋭い舌鋒に押され始めている。
「そして三つ目。貴殿は先程よりこの街の民がそこの雪蘭さんに惑わされると言っておられるが、この街の統治者は雪蘭さんか、それとも扶蘇様でしょうかな」
「知れたこと。扶蘇様に決まっておる」
「ということは、貴殿はこの街の民は扶蘇様よりも雪蘭さんの言う事を聞くと思っておられるのですな。殿下の影響力をなぜそこまで低く見積もっておられるのか」
「い、いや、俺は何も殿下を見くびっているわけでは」
「仮に雪蘭さんに衆を惑わす意図があったとしても、その時には扶蘇様が裁きを下して下さるでしょう。我等ごときが口を挟むような問題ではありません」
「しかし、そうは言っても」
「そもそも雪蘭さんを自由の身としたのは陛下のご意思。それは彼女の歌一つでこの秦が揺らぐものではないと思えばこそです。貴殿は陛下のお作りになったこの国が、歌伎一人の力で傾くとお思いなのか。よほど秦の力を侮っているのですな」
巨体の男は絶句した。これ以上反論を重ねても、それは結局秦の力を信じていないということにされてしまう。答えに窮した男は舌打ちすると、巨体を揺すって足早にその場を立ち去ってしまった。
「よくぞこの場を収めてくれた。礼を申すぞ」
扶蘇は小柄な男に近づくと、男は恭しく一礼した。この場に扶蘇が赴いていることには気付いていたらしい。
「あの程度のことなど礼には及びません、殿下」
「ずいぶんと弁が立つようだが、誰かに弁論術でも習ったのか」
「私の学問はすべて独学でございます。蘇秦張儀に私淑しておりますが、特定の師についたことはございません」
「ほう、縦横家か」
扶蘇の目に好奇の光が宿った。かつて戦国七雄が相争っていた時代には諸国を股にかけて活躍した外交家がいたというが、扶蘇はそうした者達を直に知っているわけではない。
「しかしこの泰平の世では、そなたの学問も生かしようがないのではないか」
「それゆえ、あのようなつまらぬ男を相手に舌戦を仕掛けるくらいしかすることがないのです。今のところは、ですが」
「今のところは?」
「この泰平の世がいつまでも続くとは限らない、ということです」
男は穏やかな笑みを湛えつつ言うが、男の瞳の奥に微かに野心の光が煌めいたように扶蘇には感じられた。
「剣呑な事を言う男だ。まあ良い。折角だから名を聞いておこうか」
「
男はもう一度頭を下げた。来る冒頓との決戦を前に、このような男が必要とされる未来が有り得るのだろうか、などと扶蘇は心中密かに気を揉んでいた。
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