冒頓

「それにしても見事な歌声であった。初めて聴くが、あれが羽声うせいというものか」

 城内の謁見の間に招き入れられた雪蘭と張廉ちょうれんは、親しげに語りかける扶蘇にすっかり緊張を解いた様子だった。

「十年前には、皇帝陛下の前でも披露させていただきました」

「おお、そうであったな。そなたの歌声に初めて父上は心動かしたそうだが、そなたの歌声はいささかも衰えを見せておらぬようだ」

「それはどうかわかりませんが、少しでも多くの方に聴いてもらえるよう技を研ぎ澄ませ、常に己を律しております」

「良い心がけだ。おそらくそなたの師もそのような人物だったのであろう」

 雪蘭の歌の師は、かつて始皇帝の命を狙った荊軻けいかだ。荊軻は始皇帝がまだ秦王であった頃に直接刃を交えていたにも関わらず、その弟子の雪蘭は一度咸陽へ招いたのみで何の罰も与えず、秦国内を自由に旅することを認めていた。

 その父に似たのか、扶蘇もまた雪蘭が荊軻の弟子であることなど気にも留めていない様子だ。


「ところで、この張廉に何か御用があるとのことですが」

 雪蘭はわずかに首を回し、脇に立つ逞しい従者の肩を一瞥した。 

「その者は匈奴だそうだな。中華の言葉は話せるか」

「私は雪蘭様に仕えて一四年になります。問題はございません」

 張廉は淀みなく答えた。

「易水の戦いでは、そなたは大層我が軍を苦しめたそうだな。何でも王翦おうせんの左翼の騎馬隊を打ち破ったとか」

「その折は燕の騎将として全力を尽くしました。しかし力及ばず、敗北したことに変わりはございません」

「惜しいことだ。そなたほどの人物が我が秦にいたならば、どれほどの活躍をしていただろうか」

「もはや過ぎたことにございます。今はこうして雪蘭様を支えることが私の使命と心得ております」

「もう、武人に戻る気はないのか?」

「実は私からも何度も秦に仕えることを勧めたのですが、どうしても私に付いて来ると言って聞かないのです。女人が一人で旅するのは危険だと」 

 雪蘭は張廉に微笑を向けた。どうやらこの従者に全幅の信頼を置いているようだ。


「その男が従者ならば心強いだろうが、なぜそれ程までに雪蘭の力になろうとする」

「実は、張廉は私の師の引き立てにより燕の騎将に取り立てられたのです。師が亡くなってからは、どうしても弟子の私に仕えると言って聞かないのです」

「そうか、良き師に恵まれたのだな」

 扶蘇の脇に立つ陳勝が訝しげに眉をしかめた。陳勝には扶蘇が父の命を狙った荊軻を褒めるなど到底理解できないことらしい。

「では、もはや張廉が戦場を駆ける姿を見ることは叶わぬというわけか」

「私が戦う時は、雪蘭様の身に危険が及んだときだけです」

「そうか、それは残念だ。もはや騎馬を操る術も錆び付いてしまっているのであろうな」

「そのようなことはございません。私は騎馬の民。いつ何時でも我が身の如く馬は操れます」

 張廉はわずかに眉根を寄せると、語気を強めて答えた。

「しかし、そなたはもう武人ではないのだろう」

「匈奴の者は物心付く頃には既に馬の背に乗っております。馬を自在に操れなければ我等の生活は立ち行きません。馬術は忘れようにも忘れられないものなのです」

「ならばそなたの力、私に見せてくれぬか?」

「ですが、私は秦に仕えるわけには」

「仕えろと言っているのではない。そなたの力を借りたいのだ。張廉よ、匈奴の馬術を私に見せてくれぬか」

 答えあぐねた張廉は、雪蘭に顔を向けて判断を仰いだ。扶蘇の挑発に乗り己が馬術が健在であることを見せたいが、まだ決断がつかないようだ。

「張廉の馬術は何のために必要なのですか?やはり戦のためなのでしょうか」

 雪蘭はその表情に憂いを滲ませた。張廉を戦に駆り立てられることは辛いらしい。

「そうではない。北辺の民の苦しみを除くため、役立ってもらいたいのだ」

「張廉の馬術が、そのようなことに役立ちましょうか」

「役立つとも。この役目は張廉でなければ務まらぬ」

「張廉を戦には用いないと、約束していただけますか」

「張廉にはこの地の平和を守るために役立ってもらうのだ。誓って戦には用いぬ」

 雪蘭はようやく愁眉を開くと、一呼吸おいてきっぱりと伝えた。

「――わかりました。張廉は殿下に預けます」 

 扶蘇は満足げに深くうなづいた。陳勝は呉広と顔を見合わせると、二人でしきりに首を捻っていた。



 その翌日、扶蘇は張廉ちょうれんを連れて長城の傍まで来ていた。まだ建設途上の城壁は七尺ほどの高さとなっているが、秦の威厳を見せつけるためこの倍以上の高さの城壁を築けと扶蘇は命じられている。


「どうだ、張廉。匈奴の騎馬を防ぐのに、これほどの高さは必要か」

 扶蘇は長城の図面を張廉に示した。この高さを維持する限り、工事に駆り出される民の負担を軽くすることはできない。


「騎馬を防ぐ目的であれば、騎馬が飛び越えられない高さであれば十分でしょう。二丈の城壁が必要であるとは思えません」

「では、どれくらいの高さであれば良い」

「七尺もあれば、匈奴の馬ならばまず越えられません。匈奴の強さは騎馬の機動力あってこそのものですから、馬を足止めできることさえできれば問題はないはずです」

「うむ、そうか」

 扶蘇は顎に手を当ててうなづいた。他ならぬ匈奴の張廉がそう言うのだから、間違いはないだろう。


「匈奴の馬の背は高くはありません。汗血馬か天馬でもない限り、この長城を越えることは不可能でしょう。私が一度跳んで見せましょうか」

「そうだな、一度そなたの馬術を見せてくれ。陳勝、呉広、あれを」

 陳勝と呉広は二本の棒を地面に立て、七尺より少し低い高さに縄を張って棒の間を繋いだ。

 張廉が馬腹を蹴ると馬は張られた縄に向かって勢いよく駆けた。張廉が鋭い掛け声を発すると馬は高く跳躍し、見事に縄を飛び越した。


 思わず感嘆の声を上げる陳勝と呉広のそばで、扶蘇も会心の笑みを漏らした。

「匈奴の者でも、私ほどに馬を操れるものはそう多くはありません」

 扶蘇の傍へ馬を返すと、張廉は何の衒いもなくそう言ってのけた。この男は雪蘭に長年従っている程であるから野心は少ない。張廉は己を誇っているのではなく、事実をありのままに話しているだけなのだろう。

「これ以上城壁を高くしても無意味だというわけだな」

「匈奴を防ぐためならば。ですが、壁を高くするのは秦の威厳を示すという目的もあるのでしょう」

「問題はそこだ。私は秦の威厳などより、民の労役を軽くすることを優先したい。本来ならばこの長城すら要らぬとも思っているが、父上の命に背くわけにもいかない」

「しかし、長城なくして匈奴の侵入は防げますまい」 

「徳を以て夷狄を従えれば、長城など必要は無かろう」

「扶蘇様がこの地におられる間はそれでも良いでしょう。ですがその後はどうなります。武力を以て匈奴に対峙する者がこの地に赴任するかもしれません」

「うむ、そうか」

 扶蘇は痛いところを突かれた気がした。どうやらこの男は存外賢いらしい。

「できることならば私がこの秦を統べる身となり、中華全土に徳のまつりごとを行き渡らせたいところなのだが……おっと、こんな事を言っても仕方がなかったな」

 扶蘇は部下でもない男につい余計なことまで話してしまっていることに気づいた。張廉の実直さは相対する者の心を開かせ、つい饒舌にさせる。


「城壁を高くする必要がないのはわかりましたが、果たして陛下が納得してくれますかね」

 棒を片付けて戻ってきた陳勝が気怠げに扶蘇に問いかける。

「父上とて、条理を尽くして説得すれば受け入れてくれないこともあるまい。これも結局は人と人との間の問題なのだからな」

「そうであってくれることを願いますよ」

 陳勝は大げさに肩をすくめてみせた。扶蘇の言うことなどまるで信じていない様子だ。

「今後は七尺を越える高さの長城は築かぬこととする。蒙恬もうてんをここへ呼べ」

 陳勝は一礼すると、蒙恬の陣所へ向かおうとした。しかしまさにその時、巨大な黒い影が扶蘇の眼前の長城を軽々と飛び越し、扶蘇へと突進してきた。

「殿下、危険です」

 張廉は急いで扶蘇を脇へと突き飛ばすと、自らも地へと転がった。扶蘇の脇を何者かが疾風のごとく駆け抜ける。扶蘇が振り返ると、そこには漆黒の巨馬に跨る辮髪の男がいた。男は馬首を巡らすと、扶蘇に向き直った。


「何者か」

 衣服の埃を払って立ち上がった扶蘇の前に、漆黒の馬体がそびえ立っている。その馬上では、戎衣を纏った男が獰猛な殺気を放ちつつ扶蘇を睨み据えている。男の魁偉な容貌は愛馬の巨躯に相応しく、まさに人馬一体の雰囲気を醸し出していた。

「秦の第一皇子、扶蘇殿とお見受け致す」

 扶蘇は信じられぬ思いで場上の男を見た。張廉が馬では越せないと言った長城の壁を、この男は軽々と飛び越えてきた。匈奴の中でも相当な手練に違いない。

「我が問に答えよ。そなたは何者か」

「匈奴の大単于ぜんう頭曼が第一子、冒頓ぼくとつ

 張廉は大きく目を見開いた。今単于の有力な後継者候補として台頭しつつある男が、駿馬を駆り目の前に現れたのだ。

「このような長城では物の役に立たぬぞ、扶蘇殿」

 冒頓は不敵に微笑むと唇の端を湿らせた。扶蘇はその鋭い眼光を受け止めながら、どうにか言葉を紡ごうとする。

「匈奴の者が皆軽々と長城を越えられるわけではあるまい。それほど見事な馬を持っている者は貴殿くらいのものではないのか」

「あまり我等を見くびらない方が良いぞ、扶蘇殿。今は我が匈奴にも西方の良馬が数多く存在する。あのような貧弱な壁で我等を防ぎ切れるなどとは思わぬことだ」

「我が秦と戦うつもりなのか」

「俺は臆病者の父とは違う。その気になればこの塞の民など我が馬蹄の下に踏みしだいてくれる」

 冒頓は傲然と胸をそびやかした。馬上から扶蘇を睥睨する両の瞳は強い光を宿し、何者にもたじろがぬ猛将の天稟を感じさせた。

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