反撃
「おい、お前、せめて下馬くらいしたらどうだ」
陳勝が気圧されそうになる自分を抑えつつ、馬上の冒頓にそう問いかけた。
「我等にとり馬は手足も同然。理由もなく下馬するわけには参らぬ」
「殿下の御前だ。
「さて、扶蘇殿は果たしてこの俺が礼を尽くすに相応しい相手だろうか」
「何だと?」
陳勝は不敵に微笑む冒頓をどうにか説き伏せようとするが、
「矛を持つ手が震えているではないか。お前のような臆病者の従者を持つ主は、さぞ腰抜けなのだろう。そんな者に俺が頭を下げねばならない理由はないな」
「調子に乗りやがって」
陳勝は矛を手に冒頓に突きかかろうとするが、扶蘇がその腕を後ろから掴んだ。
「やめよ、陳勝」
扶蘇の声音は落ち着いている。しかしこの場ですら怒りを露にしない扶蘇に陳勝は苛立っていた。
「なぜ殿下は奴の無礼を咎めないんです?
「陳勝よ、私は力で匈奴を従えたいのではないと言っているではないか」
「おや、扶蘇殿はよくお解りになっているようだ。秦の力では我等を抑えることなどできないということを」
「何を言っていやがる。お前らは
「それは父のしたことだ。だが俺は違う。秦など恐れはせぬ」
「我等が戦うことに、どのような意味があるのだ」
扶蘇は恐れる色もなく、静かに馬上の冒頓に問いかけた。
「知れたこと。俺が次代の単于に相応しいことを匈奴の部衆に示すのだ」
「それはそちらの事情であって、私が付き合わねばならない理由はないな」
「嫌でも付き合って貰う。扶蘇殿の力量、試させて貰うぞ」
冒頓は射すくめるような眼光を扶蘇に注ぐ。扶蘇はその視線をかろうじて真正面から受け止めていた。
「次は戦場で会おう。――さらばだ」
冒頓は馬首を巡らすと、鋭い掛け声を発し馬腹を蹴った。漆黒の馬は再び巨体を宙に躍らせると、冒頓を乗せて長城の外へと駆け去っていった。
「悍馬のような男でしたな」
「張廉よ、あの男についてどれくらいのことを知っている」
扶蘇は些かの動揺も見せずにそう問い質した。
「冒頓は以前は父の単于には嫌われており、月氏に人質に出されていたことがあります。ある時単于が月氏を撃ち、冒頓は殺されそうになりましたが、月氏の駿馬を奪って脱出したそうです。それ以降単于も冒頓の才を見込んで重用するようになり、今は一万騎を預けられていると聞き及びます」
「一万騎、か」
冒頓の兵力は秦に比べれば遥かに少ない。しかし勇将の下に弱卒なし、である。冒頓に率いられた一万騎はその数を遥かに上回る戦力を発揮するに違いない。
「あの馬は軽々と長城を超えてきたな。ずいぶんと巨大な馬だったが、あれが何なのか知っているか」
「恐らくは
張廉は淀みなく答えた。あのような馬を匈奴が持っているのならば、今の長城の高さでは足りないかもしれない。
「やはり、七尺の長城では匈奴は防げぬか」
「そうとは限りません。あれ程の馬を持っているのは冒頓と、せいぜい側近の数名くらいでしょう。今の長城を馬で超えられる者がそれほど多いとは考えられません」
「そうであれば良いのだがな」
扶蘇の秀麗な顔に憂いが滲んだ。万が一を考えて長城を高くしなければいけないのなら、やはり民の労役を軽くしてやることはできなくなる。だからといって辺境の防備をおろそかにするわけにもいかない。
「全く、腹の立つ野郎だ。いっそのことこっちから出向いて潰してやりませんか、殿下」
「陳勝殿、匈奴を相手にするのはそう簡単ではありませんぞ。彼等は全員が騎馬兵です。歩兵が主体の秦軍が追いかけても、草原の彼方へ姿をくらますだけのことです」
張廉は冷静に血気に逸る陳勝をたしなめた。
「なら、こっちも全員が騎馬で追いかければ良いんじゃないのか」
「同じ条件ならば、より巧みに馬を扱える匈奴に分があります。彼らは物心着いた頃より馬の背に乗っているのですから」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ」
陳勝は苛立たしげに言うと、脇に立つ扶蘇の方を振り返った。
「――やはり、戦わないわけには行かぬのか」
「だから蒙恬様もいつも言っておられるでしょう。所詮匈奴の連中に仁徳なんて通用しないんですよ。獣を躾けるには主人の方が立場が上だと身体に教えてやらなきゃいけない」
「陳勝、そこまでだ」
扶蘇はちらりと張廉の方を見やった。張廉の表情には変化は見られなかったが、陳勝の台詞を不快に思っていないはずがない。
「いえ、扶蘇様、陳勝殿の仰ることにも理はございます。冒頓は殿下の仁に感じ入るような輩ではありません。冒頓が矛を収める気がないのであれば、これを討伐することも必要になるのではないかと」
「お主も匈奴なのに、そのようなことを申すのか」
「匈奴だからこそ申し上げているのです。冒頓は己より強き者にしか従わないでしょう。仁や徳などより、今は秦の武力を用いる時です」
扶蘇は腕組みをして考え込んだ。やはり徳の力だけでは足りないのか。今までは徳を施すことで夷狄を懐けることが王道だと扶蘇は考えていたが、それは蒙恬の武力を背景とした上での綺麗事に過ぎなかったのかもしれない。
「このまま奴に侮られたままにして置いちゃいけません、殿下。冒頓を討ちましょう」
陳勝が珍しく全身に覇気を漲らせていた。冒頓に嘲笑されたことがよほど腹に据え兼ねたようだ。
「しかし、この長城で冒頓を迎え撃つならば、さらに長城を高くすることも考えねばならない。それでは民の負担が増すばかりだ」
「それはもう仕方がないでしょう。殿下はお優しすぎるんですよ。今のままじゃ匈奴どころか民にも舐められちまう」
「侮られる、か」
扶蘇は寂しそうな笑みを陳勝に向けた。
「匈奴を防ぐならば長城で迎え撃つのが最善の策だと思うか、張廉」
「私はそう考えます。冒頓の挑発に乗ってこちらから打って出れば、匈奴の有利な漠北の地で戦うことになりましょう。それでは冒頓の思う壺です」
「やはり、長城を高くしたほうが万全か」
扶蘇は逡巡していた。扶蘇の使命は何よりもまず、この北辺の地を匈奴より守ることにある。長城はそのために作られている。しかしそのために民に労役の苦しみを強いることが、この仁君には耐え難い痛みなのだった。
「長城をさらに高くするなら、工事で苦しむ者も出て来よう。病坊も充実させなければならぬ。そういえば、麒麟はまだあの場所に居るのか」
「時々ふらりと現れては、怪我人の傷を治してやってるみたいですがね」
「おお、そうか。ならば様子を見に行くとしよう」
(――やれやれ、またこれだ)
陳勝は心中深く溜息をついた。この仁君には確かに病人の面倒を見るほうが性に合っているのだろうが、今は戦のことを考えてもらわなければ困る。
「麒麟がいてくれれば怪我人の治療も捗る。今後もずっと居てくれれば良いのだがな」
「殿下がここにおられる間は、居てくれるでしょうよ」
誰へともなく呟いた陳勝を尻目に、扶蘇は意気揚々と病坊へと歩き出した。陳勝は渋々その後に付き従った。
扶蘇が病坊に入ると、ちょうど麒麟が怪我人の傷に角を向けているところだった。角の先から青白い光を発し傷を癒す麒麟の前に、怪我人が長蛇の列を作っている。
「ずいぶんと盛況ですねえ。こりゃ麒麟を使って一商売できそうだ」
「何を言うのだ、陳勝。怪我人から銭を取るというのか」
陳勝は扶蘇の生真面目さに閉口するが、扶蘇は構わず話し続ける。
「しかしこれだけ怪我人や病人が多いのでは麒麟も身が持つまい。やはりこれ以上労役を増やすというのは考えものではないか」
「そうは言っても、長城を高くしたほうが安全なのは間違いないでしょう。匈奴が攻め込んできたら怪我人の心配なんてしてる場合じゃない。こいつらの命すら危ういんですよ」
「それはそうだが、あまり労役を増やしてはこのような物の役に立たぬ者達を増やしてしまうことになる」
「恐れながら殿下、儂らは役に立たん訳じゃございません」
病坊の隅の床からおずおずと身を起こした老人が、力無い瞳を扶蘇に向けてきた。
「確かに儂らは体も弱く、工事の現場では邪魔者かもしれません。でも儂らだって望んでこの場に来た訳じゃねえんです。故郷に帰れば種の撒き方から刈り入れの方法まで、若い者に教えてやれることはいくらでもある。ただこの場においては出来ることが何もない、というだけの話でさ」
俄かに病坊の中がざわめいた。老人の周囲の者達は隣同士で何事か囁き交わしていたが、やがて哀願するような目を扶蘇に向けてきた。この年寄りを許してやってくれ、とその目が語っている。
「爺さんの言うとおりだ。殿下は以前も俺達のことを物の役に立たん連中だと仰ったが、こんな気候の合わない所に連れてこられてこき使われたら病気にもなる。人をさんざん痛めつけておいて、物の役に立たないとはあんまりじゃございませんか」
今度は老人の隣で臥せっていた痩せこけた男が口を開いた。陳勝も珍しく男達を咎めようとはしない。
「殿下、人ってのはね、ただ上から恩をかけられるだけじゃ生きていけないんですよ。誰だって自分が役に立たない奴だなんて思いたくはない。誇りを失ったら、人は人じゃなくなっちまう」
陳勝が静かにそう言うと、扶蘇は瞳を閉じ、何度もゆっくりと頷いた。
「――そうだな。私が間違っていた。そなたらが使い物にならないのではない。そなたらを活かす場所を、私が作ってやれなかったことが問題なのだ」
扶蘇は素直に己の非を詫びた。扶蘇に抗議していた者達がわずかに表情を緩め、周囲の者達がようやく安堵の息を漏らす。
「では、そなたらには私の役に立ってもらうとしよう。張廉、ひとつ頼まれてくれるか」
「どのような御用でしょうか」
「匈奴に赴いてもらいたい。そなたならば冒頓も信じよう」
「それは構いませんが、何をなさるおつもりなのです」
「この病坊の中から、怪我と病の癒えた者達には我が軍に加わってもらう。張廉には匈奴に寝返った振りをしてこのことを冒頓に伝えてもらいたいのだ」
「正気ですか、殿下?こんな奴等を軍に入れたところで使い物になりませんよ」
「人は役に立ちたいものだとそなたは言ったではないか、陳勝」
「でも、何も軍に入れなくても……」
気色ばむ陳勝の脇で、張廉も訝しげな目を扶蘇に向けていた。
「私にも理解しかねます。なぜこのような者達を軍に入れるのですか。怪我が癒えても、この者達は強健な者とは言えません」
「心を、攻めるためだ」
扶蘇の心中を測りかねた陳勝は、思わず張廉と顔を見合わせた。怪我の治療を一通り終えた麒麟は一声小さく鳴くと、不思議そうに扶蘇を見つめていた。
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