長城
長城の修築は、
しかし、扶蘇は父・始皇帝が求めたこの大事業に納得が行っていない。
「蒙恬よ、本当にこのような工事など必要なのだろうか」
扶蘇が脇に侍る蒙恬に問いかけると、蒙恬はいつものように謹直な様子で答える。
「この長城なくして、どうして匈奴の脅威から秦を守れましょうか。それに長城の増築は陛下のご命令です。我々は従うより他はありません」
「それは、そうなのだが」
扶蘇は汗と泥にまみれた人夫に憐れむような目を向けながら、言葉を続けた。
「たとえ夷狄の者といえど、武を以てこれを従えるのは最上の策ではあるまい。徳で懐けることこそ君子の望ましいあり方なのではないか」
「それは理想論に過ぎません。匈奴など禽獣に等しい者達です。いかに殿下が人徳に篤い方であっても、徳で教化できるような者達ではありません」
「なぜ、そう決め付けるのだ」
「今まで我が秦はずっと匈奴に苦しめられたきたではありませんか。どれほどの民が北方に連れ去られたと思っておられるのですか」
遊牧の民である匈奴にとり、執着する対象は土地よりも人である。匈奴は北方より襲い来てはしばしば北辺の民を拐っていった。人口の減少はそのまま秦の国力の減退につながる。
「我が国を匈奴より守るには、古より築かれた長城をひとつに繋げ、防備を固くするよりないのです。そのために我々はここにいるのではありませんか」
武威を以て匈奴を北方へと追った蒙恬にとり、今一番力を注ぐべきは長城の工事であった。扶蘇とてそれがわからないわけではない。しかし扶蘇には今一つ気掛かりなことがあった。
「私とて、父上の命に逆らうつもりはない。しかしもう少し人夫の負担を軽くできないものか」
扶蘇の目の前で、痩せこけた人夫が畚を担いだまま膝から崩折れた。それを見ていた監督官が人夫に鞭を振り上げようとするが、扶蘇はそれを手で制した。
「どうやらこの者は体が弱いようだな。少し休ませてやるがよい」
「ですが殿下、一度甘い顔を見せては人夫どもが言うことを聞かなくなります。ただ恩を施すことだけが民を統べる術ではありませぬぞ」
「物の役に立たぬ老病者まで鞭打って働かせねばならないほど、我が秦の力は弱いと言うのか」
思いがけぬ扶蘇の強い言葉に、蒙恬は押し黙った。
「あのような者達が一人二人欠けたところで工事が滞るはずもあるまい。今すぐに病坊へ連れて行ってやれ」
扶蘇の言葉を受け、蒙恬は渋々監督官に人夫を休ませるよう伝えた。一人二人などと言っているが、扶蘇はいつもこうして見回りの度に苦しんでいる人夫に情けをかけている。扶蘇に救い出された人夫の数はすでに百人は下らない。
「さて、戻るとしようか」
扶蘇は踵を返すと、執務のため辺境の城へと向かった。背後で蒙恬が軽く溜息をつく音が聞こえたが、扶蘇がそれを咎めることはなかった。
「本当にあれで良かったんですかね、殿下」
城の自室へと戻った扶蘇が執務を一通り終えると、陳勝がそう声をかけてきた。塞の
「あの人夫の扱いのことを言っているのか?」
「ええ、あんなに甘くして大丈夫かと思いましてね。人を動かすには徳も必要でしょうが、鞭が必要な時だってあるでしょう」
「鞭が必要な時とは、どんな時だ」
「そりゃ、嫌な仕事をする時ですよ。長城の工事なんて重労働は誰も進んでやりたがらない。体の弱そうな奴を率先して助けていたら、体の弱いふりをする奴だって出てくるんじゃないですかね」
「おい、陳勝、何てことを言うんだ」
呉広は陳勝をたしなめたが、陳勝は構わずに話し続ける。
「あんまり甘い顔を見せたら、皆が殿下の恩情を期待して働かなくなってしまう。そうなったらまた連中を鞭打たなきゃいけなくなるでしょう?一度甘い顔見せて厳しくしたら余計に恨まれますよ。だったら最初からずっと厳しくしたほうがいい」
「申し訳ありません、殿下。こいつは本当に口が減らなくて……」
呉広が必死に頭を下げるが、扶蘇はそれを微笑で受け止める。
「良いのだ、呉広。私の顔色を伺わないからこそ、私は陳勝をそばに置いているのだ」
呉広がようやく安堵の表情を見せると、扶蘇は陳勝に向き直った。
「陳勝、そなたは重労働など誰も進んでやりたがらないと申したな」
「ええ、そうですが」
「なら、そもそも労役を軽くすることができたならばどうだ」
「それが一番いいんでしょうが、果たしてそんなことができますかね」
陳勝は扶蘇の机の上の図面に目を落とした。そこには長城の完成図が描かれているが、壁の高さは二丈ほどになっている。
「我が秦の威厳を夷狄に見せつけるため、これほどの高さが必要だと命じられているのだが、果たしてこれ程の壁など必要であろうか」
扶蘇は図面を陳勝に示しながらそう問いかけた。
「そりゃ、壁は低い方が工事は楽ですがね。でもこっちで勝手に長城の寸法なんて変えていいんですか?」
陳勝は訝しげに扶蘇を見つめた。
「実は、私にも考えがないわけではないのだ。ついて参れ」
扶蘇は図面を机に置くと、どこか楽しげにつぶやいた。陳勝は呉広と不思議そうに顔を見合わせた。
扶蘇が陳勝と呉広を連れて城外へ出ると、すでに日は西へと傾きかけていた。
城下街の人の往来は絶えることがない。多くの兵が駐屯し民も労役に駆り出されているため、兵糧や物資を運ぶ商人が絶えず行き来し、馬を商う匈奴の者も訪れる。この北辺の城は辺境にありながら、一大消費都市として活況を呈していた。
「一体どこに行こうって言うんです、殿下」
「そう急くな、陳勝。何か聞こえてこぬか」
陳勝が耳を澄ますと、遠くからかすかに高く澄み渡る声が聞こえてくる。
「確かに何か聴こえますね。陽夏では聴いたことのない歌声だけど、どこか心に染み入るようだ」
呉広がそう感想を漏らすと、陳勝が皮肉げに片頬を歪めた。
「へえ、お前にも歌などに感じ入る心があったのか」
「馬鹿にするな。鋤鍬を振るうだけが人生ではないぞ」
軽口を叩き合う二人を尻目に、扶蘇は幾度か角を折れると、その歌声の響く方へと歩を進めた。
やがて三人は賑やかな市の立つ街区を抜け、人だかりのできている一角へと辿りついた。
微かに震える歌声に、皆が足を止めて聴き入っている。女の声だ。人の群れに囲まれて顔は見えないが、伸びやかな歌声は扶蘇の耳元にも届いてくる。三人はしばし時を忘れて女の声に耳を傾けた。
どのくらいの時が経ったのか、気が付くと割れんばかりの歓声が辺りを包んだ。周囲を見渡すと、感極まって涙を流している者もいる。扶蘇も目を閉じてしばらく感慨に浸っていた。
「殿下、いつまでそうしてるんです?」
陳勝が少し呆れたように問いかけると、扶蘇はようやく目を開けた。
「おお、済まぬ。これ程の歌は久々だったのでな」
「俺達に歌を聴かせたかったんですか?」
「そういうわけではない。実は、遭わせたい者がいるのだ」
「遭わせたい者、ですか」
陳勝が不思議そうに目を瞬くと、扶蘇が人だかりの向こうへと呼びかけた。
「羽声の使い手、雪蘭であるな」
「扶蘇様ですね。ようこそおいで下さいました」
扶蘇の周囲がどよめいた。扶蘇が陳勝に目で合図を送ると、陳勝は素早くその意を汲んだ。
「扶蘇様のお通りだ。皆の者、道を開けよ」
女人を取り巻く人垣が二つに割れ、扶蘇はその間を悠々と進んだ。
「見事なものだ。よくぞこの地まで来てくれたな」
「むしろ私の方から進んで参ったのです。この国の北の果てを一度この目で見てみたいと思いまして」
雪蘭と呼ばれた女人は扶蘇に一礼すると、臆することなくそう答えた。顔をあげた雪蘭の美しさに思わず陳勝は息を呑む。
「はて、この北辺の地にそなたが見たいものなどあるのだろうか。――うむ、そういうことか」
扶蘇は少し首を傾げたが、やがて何事か閃いたようにひとり呟いた。
「そなたは苦しむ民のあるところに姿を現すと聞く。長城の工事に駆り立てられる民の苦しみを癒す為、ここに参ったのではないか」
「いえ、そういうわけでは」
雪蘭の顔にわずかに憂いの影が差した。どうやら図星だったらしい。
「隠さずとも良い。実は私が話そうとしていたのもそのことなのだ」
「長城のことを、ですか?」
「そうだ。もっとも本当は私が用があるのはそなたではない。そこの男だ」
扶蘇は雪蘭の脇に佇む逞しい男に目を向けた。物静かな男に見えるが、一度怒りを発すれば数人掛りでも容易には打ち倒せぬ男のようにも思える。
「
「かつて易水の西で
「――この者をご存知だったのですか」
「王将軍から易水の戦については何度も聞かされていたのでな。もし良ければ城まで来て欲しい。馬に詳しい人材が欲しいのだ」
張廉は細い目をわずかに見開いた。無表情なこの男の顔に、初めて感情らしきものが浮かんだように扶蘇には思えた。
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