柘榴(ざくろ)の木を見上げない理由(わけ)

家の庭に柘榴がある。前の道にも幹が垂れ下がっていて、いまちょうどその橙色の花の季節である。柘榴は身に育たない余分の花を、自ら間引く。その花を道にたくさん落している。。この道は車など通らないので、アスファルトの上の花は落ちたままの姿でかなりながく留まり、綺麗でわたしはその場面が好きである。

それを眺めていたら一人の女性が通りかかり立ち止まり、落ちた柘榴の花をしげしげと眺め入っている。

綺麗だと鑑賞しているわけではなく、「何なのだろう」と首をかしげている風情である。

ならば、その女性は当然、つぎは上を向くだろうと予想したのだが、向かない。

向かず終いでそのまま過ぎ去った。

この人は道に散りばめられたものが何であるのか分からず終いのはずである。


柘榴の花はふつうの花とちがい、すこしばかり硬さがあり、羽子板の羽のような雰囲気がある。見慣れた人でないとすぐには花と判別できないかもしれない。

だが、上さえ見れば、その花がなんの花なのかまでは分からないまでもその木が落としたものであるという一応の納得は得られよう。

なのになぜ、それをしなかったのだろうか?


 この人が上を確認することなく通り過ぎたことが不思議でならなかった。

上を向けば、すぐに事態は理解できる。散らばっているのは何かの花だと。

だが、それをしない人がいるのだ。


 すぐに思い浮かぶのは好奇心の旺盛な人もいれば、そう出ない人もいる、という解釈である。あるいは人それぞれ興味の対象が違う、それだけのことだとか。

または、この人は何かの考え事で頭がいっぱいで、目の前のできごとにも上の空のような精神状態だったとか。


 平生の何気ない感想なら、そんなところだろうが、この場面にかぎって、ときどき思い出し、考えて込んでしまうことがある。

 その思いをあえて一言でいうとすれば次のようなことになろうか。


「人間を取り巻く事象の手に余るほどの多さ。なにもかも手あたり次第、知ろうと心がけてはいても人の命に限りがあるように限界がある。

視界に入っていてもほとんど何も見てはいないのだ。ほとんどなにも知らずに通り過ぎるのだ。自分にいま用のあるもの、いま興味のあるものしか目に入らないのだ。」

人のことは想像だが、私はたしかにそのようである。

人間の意識の範囲は広いように思われているがじつは案外、限定的なのではないのだろうか。


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