パチンコと風俗 いまも覚えていること
昭和40年代から50年代にかけての今でいう「風俗」について私の覚えていることをいくつか書いてみることにする。
とくだん、人に披露したい面白い話の用意があるわけでもない。書いているうち、思いだすのが嫌になってくる可能性の方がある。
しかたがない。そのときは無理せず、そこまでで止めておく。
「前から後ろからどうぞ」という言葉の混じった歌詞の若い女性の声の曲をその店に通っているときに何回もくりかえし聞いた。パチンコ店である。
当時よく流行った曲なのだろう。珍しい歌詞だから今でもなんとなく覚えているのだが、私はいまだに誰がうたっていたのか知らない。
パチンコ店にパチンコをしに来た客は店内で勝手に流れている流行歌をなんとなく聴いているだけで、うたっている歌手を知らない間に流行が始まり、そして終わっているのだろう。
さて、パチンコの成績についてだが、その頃いっときだけ、1年間くらいのことだが、後で思えばふしぎなことが起こった。
777の始まりだった。その機種は横に三つ7が並んだら一応当たりで少しまとまった分量の玉が出るのだが、その上にもうひとつ窓があり、それも7になると少しまとまったのが10回くりかえされる大当たりとなり換金するとだいたい1万2~3千円ほどになる。
しごとを終えて6時か7時頃から閉店の10時の間のことだがほぼ毎日2~3回は大当たりを出した。もちろん途中減らしもするが一万~二万は儲けて終われた。何回かに一回は負けただろうがほとんど記憶にない。毎日儲けて帰ったような気がする。
なにごともそんなものだが、自分ができることは誰でもできるだろうことで、周りのみんなも順次当てて儲けて帰っているのだろうくらいに初め思っていたが、どうもそうではなく私だけらしいことにやがて気づき始めた。
店員に誤解されて、そのうち「お客さん、ちょっと事務所まで」と肩をたたかれるんではないかと心配するようになったほどである。
その頃の私のポケットにはいつも10万以上のお金があった。減ってもまたパチンコで元どうりにできた。
今でもふしぎでしかたがない。後にも先にもそんなことはなかったが、もしかしたら長くパチンコに通っていれば誰しもそんな期間がいっとき訪れるものかもしれない。
ただ、そんなに儲かるのであれば、1年といわずアルバイトだと心得てそのままずっとやっていればよかったのにと、今考えてみて自分でもそう思うのだが、いつのまにか足を向けなくなった、その訳は思いだせない。その機種がなくなったからとか急に出なくされたという記憶はない。不思議である。
もうひとつ、パチンコのことで思いだすことがある。
それから何年か後のこと、痔の手術で3週間ほど入院した折り、パチンコを仕事にしているともに30代の夫婦と知り合った。
夫婦いっしょに同時に手術入院しているわけではなく、奥さんが入院しているのを毎日旦那さんが仕事帰りに毎日見舞いに寄りロビーで会う。ロビーは喫煙場所でもあるので私はたいていそこにいる。三人で毎日雑談するようになった。
旦那さんの仕事帰りとはパチンコ屋からの帰りである。5時を定時と決めているのだそうで毎日ほぼ5時半くらいに来る。
痔の手術は、命に関わらないのでそういう話題はなく和やかな世間話である。
二人には小さい子供がいるが、おばあちゃんが面倒を見てくれているとのことで旦那さんはかなり長く居た。
何の仕事をしているかを話すのにやや、ためらいがあった風だが、何日かして奥さんが「じつは二人ともパチンコをして稼いでそれで生活している」と打ち明けてくれ、私はありふれた勤め人だが、この夫婦のなりわいはかなり希少なので、私の方から訊いてばかりだったろう。
二人の勤務形態だが、決めた店に毎日10時に出勤する。土日祝日は休みである。奥さんは子供を保育園に連れていくのですこし遅れることもある。5時にはかならず仕事を終える。残業はしない。
だから、近所には会社勤めと称しているのを疑われることもない。それもあるが、勤め帰りの寄る混雑する時間帯にやるメリットはないからだ。
どうすれば儲けることが可能なのかは、むろん訊いた。
どれか一種類の全部の台の出具合に精通し、出る台にありつくこと。そのためには毎日10時に出勤しなければならないと教えてくれたが、教わってもふつうの勤め人にできることではない。
どのくらいの儲けになるのかも、もちろん訊いた。
すると旦那さんが答える。
「負けることもある。でも2日儲けても3日目に負けたんでは、そのペースでは生活できない。月に一度か2度の負けに止めなければならない」とのこと。
私が「いや、それで、つまり、いったい月にどのくらいの収入になるのか」と遠慮がちに訊く。
すると奥さんが
「サラリーマンと同じならやらない。やりたくないよねえ」と隣りの旦那さんの顔をちらと覗き見て答えた。
旦那さんは無言でうなずいた。
奥さんはパジャマ姿しか見ないがおっとりした美人である。肛門を病んで手術というのが似つかわしくない感じの人だ。旦那さんは細身で物静かで冷静沈着な性格に感じられた。会社なら総務とか経理の担当が似合いそうな感じの人であった。
それから、奥さんがこんなことを言っていたのも思いだした。
「いまはまだ子供はちいさいので話してないが、もうすこし大きくなったらおとうさん、おかあさんは何の仕事をしているか本当のことを話さなければならないときがくるだろう。隠せるものでもないし、隠すつもりもないがそのとき子供は何を思うだろうか」
となりで旦那さんは黙って聞いていた。
さて、私がパチンコで毎回儲けさせてもらっていた時期に、そのパチンコ店に通う道筋に電飾で囲んだ大きな看板の店があった。店のビルの幅とほぼ同じ幅の横長の大きな文字の看板である。店に入るとすれば看板の下をくぐり抜けるといった感じになる。
その手の店は中に入るとかなり客がいる店でもふしぎなほど入り口は客の出入りが目立たない。たいてい閑散とした印象である。この店も看板こそ派手だが陰気な雰囲気である。
看板には「マウストルコ バカ一代」とある。
ユーモアを含ませているのだろうが「バカ一代」とはなんだかおかしな命名である。
マウストルコもトルコと付いているのだから、トルコに違いなかろうが、前にマウスとあるから、ふつうのトルコではないことを示している。それに「5000円ぽっきり」と但し書きがしてある。この安さもふつうではない。
毎日看板を眺めてその店の前を通るうちに業種、業態の見当はほぼついてきた。「マウス」だから安いのだろう。だが、「バカ一代」という命名はひっかかるものがある。漫画かなにかからの流用、拝借かもしれないが、この手の店のものとしては奇抜だ。
受けるイメージとしては「もう、それこそ、理性などどこかに置いといて、とことんマウスでもってサービスします。馬鹿になったつもりで」といったところだろう。そのやけくそ気分を売りにしている感じが、私としてはどうにも気を削ぐのだ。
パチンコは年中無休なので元日にその店の前を通りかかったことがあった。
辺りの店はどの店もシャッターが降りている。
「バカ一代」だけが電飾を点けていた。電飾のスイッチを点けているということは、営業しているということを意味する。つまり、店内にはすでに客の相手のできる女性従業員が待機しているはずだ。
たとえ元日といえども開けてさえいれば客は来る、いくらかでも儲けになると店主が判断しているわけだ。
「店主は、出勤してもらう従業員は一人でもいいと考えただろうが声を掛けられた従業員もひとりではさみしいから仲良しをだれか一人誘っただろう。だから、たぶん待機している女性従業員は二人かな。」
などと想像しながらその前を通り過ぎようとしたところ、目の前をビジネススーツのうえにコートを羽織った30代くらいの男が私の目の前をすっと横切って電飾の下をくぐって店に入っていった。
辺りをうかがう素振りもなく、まるでじぶんの勤務先に向かうような真顔だった。
笑いがこみあげてきた。
元日なのにこの手の店がやっているのも可笑しいし、まだ明るい時間なのに早や客が来るのもまた可笑しい。もしかして、このぶんなら日が暮れてからは客がたて込む時間があるかもしれない。そのとき二人の手が空かず、せっかくの客を逃したりしては惜しい、などと店長の代わりに気を揉んでみたりした。
しかし、いまの私が冷静に考えてみるに元日も客はいる、という店主の読みは間違っていない。正しい。
世の中には元日でも出かけるところのない独身男はいくらでもいる。いや独身でなくとも家で身の置きどころのない男もたくさんいる。そういう連中が私のようにパチンコに興味が向けば、パチンコに行くのだろうが、無趣味でパチンコをやらない者はどうしよう。
あのとき、店の中に女性従業員は二人と予想したが、それは間違いで読みの渋い店主なのだからもっと多く勤務させていたかもしれないと今になって思い直している。
あるいはこのビジネススーツの男のように世に中には元日でも仕事のある人間は、われわれの想像が足りないだけで、じつはいくらでもいるのだろう。
この店は呼び込みはやってなかったので私は終に入らずじまいになった。
今、思えば、お化け屋敷を探検する気分で一度は看板の下をくぐってもよかったな、と残念な気がしている。
水着喫茶というものがあった。
ノーパン喫茶ではない。ノーパン喫茶ほど流行らなかったので今では誰も覚えていないだろう。
ノーパン喫茶はノーパンだが、水着喫茶はノーパンではない。上下に分かれた水着を着て、いちおう喫茶店のウエイトレスだから飲み物を運んできてくれる。
それだけのことといえば、それだけのことである。
喫茶店ということだからコーヒーを注文する客もいる。コーヒーの客にはコーヒーを持っていくだけである。ただ値段は純喫茶の倍以上はしただろう。(当時、純喫茶という看板を掲げた喫茶店がたくさんあった。アルコール類を置いてないまじめな喫茶店という意味だったのだろうか。今のふつうの喫茶店のことである。)
私の通っていた店は雑居ビルの地下にあった。店内はふつうの喫茶店と較べたらかなり薄暗いがバー、スナックよりは明るい。
アルコール類も置いてある。私はビールを注文した。
たいてい他に客はいなかった。アルコール類を注文した客には愛想をしてくれる。。立ったままではおかしいのでしゃがみこんだ格好でビールを注いでくれる。
「まあ、椅子に座ったら」というと隣の席に座る。
水着の格好をするわけだから歳のいったものはさすがにいない。皆、二十歳前後だろう。皆といったところで全員揃っても5~6人か。
そのなかに、訊けば18歳で高校生というイギリスと日本のハーフだというアルバイトの娘がいた。ほんとだろうか。こういうアルバイトを高校生がしてもいいのだろうかと訝った。
その店は地下にあった。日暮れ時、私が店に入ろうと階段を降りていたら、後から急ぎ足でつづいて来たものがいた。振りかえったら、出勤してきた高校の制服を着たままの、つまり学校帰りの彼女だった。
と、ここまで書いてきて、だれも私のこんな昔話興味はないだろうな、と思ってしまう。あと、ストリップとかノーパン喫茶とか話題はないことはないのだが。
参考にと、田中小実昌さんの歌舞伎町辺りの飲み屋で知り合った女性との数々の交友というか、交合の体験を綴ったエッセイを読み直してみたが、どうも、それがそれほど今はおもしろくないのだ。
田中小実昌、通称コミさん。時にテレビのバラエティー番組にも顔を出していた流行作家で、私は小説も好きで、エッセイも好きだ。高く評価している。それは今も変わらないのだが、どうも色事もののエッセイについては共感しづらい。当時コミさんのこの手の本を何冊も読んだのは、羨ましくて何か参考にしようという気持ちで読んでいたはずだ。だが今は年寄りになってしまい、また当時と境遇も違っていてまね事もできないからだろうか。
参考に読んだが、かえってますます書く気がうせてしまった。
もう、このあたりで止めておこうと思ったが、あとひとつだけ、ごく最近の体験を報告しておしまいにする。なに、たいしたことではないが。
場所は飲み屋の多い繫華街のはずれ。
繁華街もすこしはずれるとどこも、すぐ近くには公園あり、公民館あり、幼稚園あり、ごくふつうの民家あり、飲み屋もありといった、どういう地域と説明のしにくいところになる。そんな柳並木のある用水路沿いの道を一人で夕方歩いていた。
この道は女子高校の生徒の通学路でもあるが飲み屋もたくさんある。この時間はどんな種類の人が歩いていてもおかしくない道である。
「ねえ、ねえ、よかったら、抜いていかない。手で3千円」
と声をかけてきた女がいた。歳は30代くらいか。
「どこで抜くんだ」と訊くと
「そこら辺よ。」
そこら辺といってもこの界隈で見当はつかないが、女は通行人の死角になる按配のいい場所を見つけているのだろう。
客がいるから、いや客になる男がいるからと言った方が正確か、こうやって声をかけてくるのだ。
風俗もあれこれジャンルがあるがこれはなにに分類されるのだろう。個人営業にはちがいない。野坂昭如さんの「マッチ売りの少女」を連想した。風貌はむろん似ても似つかぬものだが、すこし言葉を交わしているうち、なにやら健気にも思えてきた。
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