物事の外には出られない
ひとつ深呼吸でもして、心を落ちつけて考えてみる。
私は観察している。
何を観察しているか。
物事である。
何を観察することが可能か。
物事である。
物事があるから観察することが叶う。
物の性質を知ろうとする。
物の性質を説明しようとするには比較する対象物が要る。
対象物がなくては、それを説明することはできない。
小さい物があるから大きい物を大きいと言える。柔らかいものがあるから、これは硬いという。
例は、いくらでも、というより何についてでもあり、つまり物の数だけあるといえよう。
比喩という表現方法がある。
山のように大きい、豆腐のように柔らかい。
物は物を持ってしか説明できない。
たとえ話というストーリーで説明するやり方がある。
科学の世界でも、むずかしい理論を一般の人に説明するさい使う。「シュレディンガーの猫」などはその代表例だろう。
あるいは宗教の方面では、たとえ話はどういう流儀の宗派であろうと、教義のなかはたとえ話であふれかえっており、なにか例を挙げようにも選べないほど常套手段として使っている。
いくら入り組んだ一見、高尚に構えた論理であろうと、微妙な感情、機微を穿った情緒の表現であろうと、そんな抽象的なことがらも「物事」あってこそ、表現でき、人に伝えることが可能になる。
では、「物事がない」とはどういうことだろう。
どういうことかは分からないが、「物事がなければ思考する材料がない」、ということだけは少なくとも確定してもいいのではないだろうか。
たとえば、「物理の法則」といえばまるで無機質な作業の末にたどり着いた冷徹なこの世の真理のごとくな印象を与えるが、かならず、まず先に自然の観察があるはずだ。
だれか「偉い人」がある日、何もない「空」の、ひらがなで書けば「からっぽ」の、頭のなかに突如として「天の啓示を得た」、などという話を子供時分によく聞いた。そのころは「へー、偉い人はそうなのか」と信じて疑わなかったものだが、今は違う。私の観察では、「偉い人」のどんな発明も発見も、あるいは、あれこれの芸術方面の創作もそれまでの経験の内より編み出した産物であるのはまちがいないと確信している。
さて私は何について述べているのだろう。
もしかしたら、私の述べているのは、「無」などという概念は人間の思考できることの埒外にある、ということなのかもしれない。
信仰を持つ人以外は死後の世界は「無」つまり「何にもない状態」と考えているだろう。
といったところでじつは誰も深くは考えない。というより、深く考えようにも考える材料がない。
死んだことのある人はいないので「無」も、人が「無」という『言葉』を使っているので真似しているだけで、よく考えてみればじつは何の実感もありはしない。実感の持ちようがない、というのがほんとうのところではないのだろうか。
それでは人が「無」を言うとき、何を糧にしているのだろうか。
それは「有」である。
「有る」ものを頼りに類推して「無」という対語、つまり『言葉』を作ってみたのである。
では、人間の感知することのできない、人間の理解を超えた、物質ではない「思惟体」とでもいうべきものが仮にもし存在し、作用し、この世に影響をあたえているとしたら、どうなのだろう。
その場合も、人間は感知できないのであるから、きっと、いつまでたっても「そのこと」は抜きにしてひたすら「物事」を考察するしかないはずだ。
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