もう一度、一人笑いの大事さを伝えたい
書こうとしてすぐ、これはもう既に書いたんじゃなかったか、と気付いたのだが、いやこれは大事のことなのでもう一度、しかし今度はポイントを絞って述べることにした。
念のために前作の「明るいわが家」を読み返してみると、自分でいうのもなんだが悪くない。だが、どうしたものか❤がひとつもない。不満である。
不満ではあるが反省のしようもないから、これから先はこれに気を付けようということも特に思いつかないし、むしろ私のもののなかでは唯一「実用の書」と呼べるものではないのかと、改めて内心大威張りの気分である。
前作の趣旨は「明るいわが家」をつくるにはなんにも笑う材料、きっかけがまったくなくても一人とにかく笑えばいい、というアドバイスだった。
とは言いながら私自身も当初は、そうはいっても果たしていつまでこれが続けられるものだろうか、という不安は内心あったのだが、やはり良いことは続けられるものだ。
だが、このことの良し悪しは自分では測れない。家の者の反応がすべてである。
その都度の私の笑いが何か対象があってのものではなく、意味のない一人笑いなのはもちろん、もはや家の者は熟知している。そのうえでの話だが、私の笑いに対して、家の者の「やかましい」「うるさい」などの反応がないのだ。あれからかなりの月日がたつが一度もなかった。
つまり無反応なのだが、笑う材料がないのだから無反応は当たり前のことだ。
これはというか、これこそが明らかに好評の印なのだ。
それに、隣り近所の人が私の笑い声を漏れ聞いたとしても、空き家の極端に目立つ寂れたこの界隈で、笑い声のある家があることに驚きを覚えるとともに一種の喜びを感じてくれているだろうこと密かに確信している。
さて、今回のポイントなのだが、笑い方にコツや工夫があるわけがない。
心掛けというか、一人で笑うしかないことの必然性を理解してほしいのだ。
自分の家というところは、お客がいるときには、つまり他人がいるときには互いに愛想笑いをすることもあろう。あるいは幼い子供を囲んでいれば、そのしぐさを見ていれば自然に笑いの起こることはある。サザエさん一家クラスの明るい家でさえ、一家内で笑いが起こるのはすべて子供絡みである。
ひと歳いった者どうしの家には笑いはないのである。この事実をしっかりと認識し、肝に銘じなければならない。
この際、ここに一つ、ぜひ注意を喚起しておかなければならないことがあるのに気がついた。
テレビにお笑い番組というものがある。それを笑う材料にすればいいではないか、という安易な考えを、ついうっかり持ってはいけないということだ。
私とて、なにも好き好んで材料なしでやっているわけではない。お笑い番組で事が足りるのであれば世話はない。さっぱり笑えないから知恵を働かせざるを得なくなったわけである。とにかくテレビ番組のなかに材料を見つけだそうとする魂胆は持たないこと。心しなければならない点である。
これだけ事を分けて説明すれば、一人笑いの大切さ、おわかりいただけたことでしょう。
わが家のような笑い声のある明るい家庭にしてください。
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