人体  感覚・感情のみが本人のもの

 家の者は、「何か書いているらしいけど、どうせ書くならサスペンス・ドラマでも書いたら」とテレビの、火曜サスペンス劇場の再放送を観ながら言う。

一理も二理もあるのだが、そういうものが私には書けないのだから仕方がない。

 若い人の間では異世界ファンタジーが流行りだと知ってはいるが、むろん私には無縁の、手も足も出ないジャンルだ。

 ただ私とて、できるだけ多くの人に読んでもらえるようにと題には多少工夫をしたつもりではあるのだが、それがうまくいっているのがあったのかどうかさっぱり判別できない。しかし、内容については、ほとんど工夫の余地はない。多くの人に興味を持ってもらえるかどうかに、私の焦点が当たらなくなる。すなわち私自身の持つ関心事に書く内容が収斂されていくだけなのである。カクヨムにおいてはありがたいことに内容に何の制約もないから自然そうなる。


 まあ、余計なことを思ってみても仕方ない。

つまりは、万人受けしないことは判っていても、自分の書けることを、書きたいことを書くしかないのだと思い定めている。


 以前私は「人間に意識というものがあるから世界はある、この世はある、のではないか」という趣旨のことを書いた。

意識ある者がいなければこの世はあるのかどうかさえ判らない。意識ある者がいないのならば、この世がどういう有様であろうと、たとえ地球が、宇宙が、存在しなくとも困る者はだれもいないと。


 いまコロナ風邪が人類を困らせている。コロナウイルスは生物と見做されているが自分では増殖を完結できないのだから生物のうちには入らないのではないか、という議論があるそうだが、人間の細胞を利用してではあっても増殖するという目的は果たしているのであるから、生物のうちに数えるべきだろう。

生物は大は動物から小はウイルスまで大きさも身体の造りも色々あるが共通点は子孫を残したいという「意思」を持っているということだ。(他にも共通点はあるだろうが)コロナウイルスも意思を持っているという所以である。

先に私は「人間に意識というものがある」と述べたが、では、意識ある者の「意識」なるものをはっきりと目の前に見える形で示せと言われたら、難しい。科学ではなく、いつまでたってもおそらく哲学に任せるしかない命題だろう。

 だが「意思」を持っているという現象をもって「意識」というものを持つことの傍証とするという見識を得られないものだろうか。



 「意思」についてまず人間である私の例で考えてみる。

子孫を残すためには、まず自らの身体を維持する術をもつことが前提である。

私はわたしの身体に、たとえば食べた物はこうやって消化しろとか傷のばい菌はこうやって退治しろ、とか指示を出しているだろうか?

私がその都度細かい指示を出しているわけではない。

身体が「自分で考えて」勝手にやってくれている。

身体のなかのことは一切、いちいち私に報告、相談、了承などという、それを受ける私の煩わしさを慮り省いて、身体の全器官が合議うえで最善の策を決定し速やかに実行する。

私がこうやって生きていられるのは私の手柄ではない。

では、私の身体に指示を出している知恵者はいったい誰なのか?

 

 すると、こんな説明をしてくれる人があらわれる。

「脳が命令を出し、その指示を受けた各器官が・・・」

とか「遺伝子のなかにすべての指示がすでに書き込まれていて、その個体の生長に伴い適時、適切に発現される」とか。


 それはその通りなのだろうけれど、私がいま言ってるのは、「私は指示していない。私の知らないうちに体の中で事がおこなわれているのは一体どうしたことなんだ」という意味である。

あるいはまた私には遺伝子という画期的な発明をする能力は持ち合わせていない。にもかかわらず、これもまた気が付いたらいつのまにか備わっていた、という意味である。

いくら言ってもその意味合いを解さない人がかなりいる。

私の訝っているそのポイントを。


もっと視覚的にわかりやすい例でいえば進化論だろう。

キリンの首が長くなったのは遠くの敵を発見し易くためだとか、鳥が羽を生やし飛ぶようになったのは効率よく獲物を見つけるためだとか、学者が説明してくれる。それはまあ、だれでも、そうだろうと思える。反論する気は起こらないし、また必要もなかろう。

 しかしである。たとえ、本人が望んでそうなったのだとしても、望めばそうなれる、というものなのか、そのことにふしぎを感じないことが私はふしぎと言っているのである。

そのように進化を遂げた体の形状は遺伝子に依って次世代に引き継がれるのだろうが、それもキリン、鳥、「本人」の自分の身体への指示で為されたことではないはずだ。

 

 それから、もうひとつ、むかしからそうであるために、自明の理と見做され、ふしぎに思うことのないことがらになっている行為がある。それは、子孫を残すという目的のために精子と卵子を混じり合わせるための行為である性器の結合である。

すると

「当たり前だろう。そうしなければ、子孫ができないではないか。」

と、何が言いたいのか分からない、とばかりにあきれ顔をする者がいる。

むろん私もその事実は承知している。そのうえで、雌雄の合体という方法を「誰が採用したかが問題だ」といっているわけである。

人間の男の例でいえば、普段はこじんまりとおとなしく小便の用にだけ終始している器官を大きくして生殖器となし、しかも男女ともその器官のある場所が場所だけに行為がなかなか難儀というかややこしい。だがややこしいけれど、「こういう按配こそが、ある意味望ましい」との人間の分別、つまり、むやみやたらと性行為のおこなわれないようにとの道徳心によって生殖器の場所を人間が自発的に決めたものであろうか。

そういう疑問を呈している。

そうして、その疑問を通り越して、いっそ男女という性別抜きで、つまり生殖行為なしで、事を為すことは出来ないのであろうかと考えてみる。



 考えてみた。考えてはみたが、それに代わる他のやり方、つまり、男女ということ抜きの生殖のあり方など思い付かない。まったく想像が及ばない。

生殖がないということは男だけ、あるいは女だけの世界。いや、性別がないのだから、男だけ、女だけという言い方もおかしい。いや、性別はあってもいいのか。交接さえしなければいいのだから。いや、交接はしてもかまわないのか、生殖は別の方途でなされるのであれば。いや、交接してもかまわないと言われても、男女がなければ交接する気がおこらないだろう。

同性愛者という存在があるが、それは現行世界における性的嗜好の一種であって、生殖のことには何の参考にもならないだろう。

魚の黒鯛はまず3歳でオスになり、4歳でメスに性転換する。つまり3歳と4歳の組み合わせでカップルのなると聞いたことがあるが、これも参考にならない。


こんな按配である。私もなにしろ男女の世の中に暮してながく、それしか知らないものだから発想が貧困である。まるで男女のことの外に出られない。話にならない。


だが、思いついたところで、私はわたしの身体にそのような身体になれ、と命令できるわけではない。

 あるいは身体の方が私に忖度して、

「はい、わかりました。すぐにという訳にはいきませんが追々に。と申しますか、いまでは誰もが知っております例の突然変異、それを利用しましてそのうちなんとか実現しましょう。」ということになるとも思えない。

 

 言うまでもなく、もし、いまさら、仮に男女ということがなくなってしまえば、まちがいなく世の中が成り立たなくなることは必然である。それほど男女という間柄のあることが、社会の仕組みのまさに骨格になっている。



 ここまで書いてきて、どうもこれでは人間の主体はどこにあるか、はっきりしなくなった感じである。

世間的な通念ではもちろんだが学問的にさえ「身体は身体、人間の人間たる所以は精神にこそある」と捉えるのが疑うところのない常識とされてきた模様だが、どうやら私はそれが疑わしい、と述べているようだ。

そこで、こういう解釈はどうだろう。

「意識という全体のなかの『感覚』、『感情』などという感じる部門だけは人間本人に与えられている。」

痛い、痒い、暑い、寒い、腹が減った、などの『感覚』は身体からの報告、警告があればこそ気がつくわけだが、「感じている」という、いよいよその、いわく言いが「感じを持つ」という、つまり感覚だけが人間その人、本人のものと解するのである。

『感情』といえば『感覚』よりも高尚な事柄のようではあるが、まずは喜・怒・哀・楽ということばが思い浮かぶ。もっと複雑、微妙な、あるいは屈折した心理状態もいくらでもあるし、それを表わす言葉もある。文学などはそういった心理状況を文章にしたものであろう。

 だが、いくら高尚な心理状況といえども、その時、その場面、おかれた状況という環境なしにはどんな心理も生まれない。あくまで環境あってのものである。(言うまでもなく、環境という言葉のなかには生れ落ちた場所、時代、親の裕福度などの生い立ちに関する偶然の要素から現在までの来し方までのすべてを指す)

心理だけが単独で生まれ、一人歩きを始めるという理屈はない。

 であるならば、感覚と同列の扱いで構わないということになりはしないだろうか。

さて、それでは生殖のうえでの一大事、「性欲」はどうなのだろう。

それもやはり身体からの要求なのだが、要求を受けて感情、感覚が『感情、感覚』として発現される、という解釈でいいのだろう。(ややこしい表現だが)

生殖のための必須として身体から性欲が用意され、必然として感情が起こる。その「感情だけ」が人間本人のものなのだ。

 ここでの肝心かなめは「性行為をしたい」という「欲」は身体が用意したのであって、その身体の用意した「欲」を発露させ首尾よく行為を完了した場合、生ずる快感を「感じる」部分だけが本人のもの、という解釈、理解である。

 

 科学の方では精神も物質で出来ている、ということを解明する研究も進んでいるらしい。

私の説は科学的でも何でもないが、なんとなく一人で得心している。


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